遠雷

五月は世界がもっとも輝く季節であるが、中でも聖都アルセレイアの新緑は格別である。
  これも魔族から世界を護る守護者の御威光、と巡礼たちが御座所の宮殿のある丘を遙拝する。
  その巡礼の一人が、風を感じて頭を上げた。
  柔らかに靡く長袍が歩み去っていく。ただ歩いていくだけの後ろ姿に、途方もない威圧感。長身にゆるく波うつ金髪が黒に統一された衣服に映えていた。
  身震いがした。
  実際に魔族に護法の剣を振るう、聖魔導師を見たからだ。
(・・・有り難いことだ)
と、巡礼は再び頭を下げた。

「ナーガ、遅かったな」
  声をかけられてメイサードは一瞬金の瞳をしばたかせた。ついで口許に笑みを浮かべて声の主を睨む。
「グロスか」
  短衣をまとった少年が玄関の階段(きざはし)に座り、爽やかに笑っている。
「お前も呼ばれたのか」
  グロスが笑みを苦笑に変えてうなづいた。
  ここは守護者アンシアの表宮殿。大事な謁見があるから、とたまたまアルセレイアにいた二人の聖魔導師は立会いを命じられたのだ。
「しかし早くついたおかげで珍しいものが見下ろせた。ナーガが市中で巡礼に囲まれているとは」
  グロスは少し皮肉をこめて言った。
  いつも市中におりたメイサードの横にいるのは、巡礼ではなく彼との後朝を惜しむ女である。日によって相手はさまざま、大概は一夜きりの恋人だ。ときにはまだ肢体のびやらぬ少年のこともあるが、総じてみな美形ぞろいである。馴染みといえる女がいなくもないが、それはたまたまその女の容貌と人柄とがメイサードの好み・・・いや気分に合っているからにすぎない。
  性的に全くノーマル、というより初心なグロスは一度、友の猟色に苦言を呈したことがあるが、反省の返事の代わりに濃厚な接吻を返されて以来、黙認するようになった。
  メイサードはそんなグロスの言葉を歯牙にもかけず、
「早く、とは言えまい。定刻はとうに過ぎている」
ひとこと言うと、さっさと階段(きざはし)を登りだした。
  グロスがマリンブルーの髪を靡かせて後に続く。その涼やかな容貌と軽快な所作は森に棲む一角獣を彷彿とさせる。この少年が齢二百才に届かんとする、火の聖魔導師であるとは想像がつかぬほどだ。もっともグロスの倍の年月を生きているメイサードにとっては少年に違いない。
  謁見の間に着くと、近衛総将レリエが美しい顔を歪めて二人の遅刻者を睨みつけた。グロスはおどけるように肩をすくませて席に着いたが、メイサードは鼻で笑って悠然と着席した。
「第六軍総将  ミハイル・テッセリア・ユーレリスどの」
「第八軍総将  ルーディアス・ラスファーンどの」
  衛士の触れが響く。長らく会っていない親友の名を耳にして、メイサードは軽く目を見開いた。と同時に、対照的な聖魔導師が二人、部屋の中程まで進んで片膝を着く。
  華奢な体つきにくすんだ金髪、天使のような微笑みの青年がミハイル。栗色の瞳の中にかすかな苦渋を覗かせている、長身の男がルーディアスである。
  ルーディアスは長年メイサードと同じ東師に所属しており、メイサードはルーディアスになにかと目をかけていた。四十年前の第七十次対魔族戦争では総将メイサードの副将を勤め、以来、肝胆相照らす仲である。
「守護者貎下にはご機嫌うるわしく」
  儀礼としての決まり文句がいくつか繰り返された後、
「我ら両名、改めてアルセレイアに忠誠をお誓いいたします」
厳かな声でルーディアスが宣言した。
「貴公らの忠誠、有り難く思います。このような時期に、戻ってこられたことは賞賛に値する」
心底嬉しそうな笑みを浮かべて、アンシアが応える。
「お褒めの言葉は、そこにいる近衛補佐シバどのに。われらが今ここにあるは彼女の功績です」
  ミハイルがにこやかに言った。
「いえ、私の力不足です。クラリスは結局、対立派についてしまった」
とシバ。
  グロスがそっとメイサードの袖を引っ張った。
「ひょっとして俺たちは、この茶番のために呼ばれたのか?」
顔中に「つまらん」と書かれている。儀式ばったことの苦手な男なのだ。
「らしいな。たかだか日和見が二人減っただけで、大層なことだ」
  儀式は終わった、と見たメイサードは席を立った。いそいそとグロスも立ち上がる。このような場合の尻ぬぐいを、いつもするはめになるシバが恨めしそうな顔をしたが、極上の微笑をくれてやって、部屋を後にした。

  聖都アルセレイアの内部対立・・・・聖魔導師個々の権限を抑制し集権体制をとりたい中央と、それを嫌う南師総将リーン・アルファリア・ファイナス一派との対立は年々深まるばかりだ。
  内部対立自体は今に始まることではない。百九十年前には「滅亡戦争」といわれるほどの聖魔導師内戦があった。半数以上の聖魔導師がこの戦いで命を落としたのだ。
  先代守護者シルファーンの尽力でアルセレイアは安定を取り戻したかに見えたのだが、今上アンシアの代になってから再び対立は激化している。
  聖魔導師中随一の実力者と目される北師総将サーラーン・ラファイア・ソマリュートと、若いながら公私の分をわきまえた近衛補佐シバ=ライラ・リルフェインの調停により、どうにか均衡を保っているのが今のアルセレイアだ。
  近衛総将レリエは親友であるアンシアを守ろうと必死になっているのが、ことごとく裏目に出ている。
  十五人の聖魔導師のうち、今まで中立の立場を取っていたのは、

  北師総将   サーラーン・ラファイア・ソマリュート
  近衛補佐   シバ=ライラ・リルフェイン
  第一軍総将  セルフィン・サスティス
  第二軍総将  クラリス・ベリル・バルディーン
  第五軍総将  ソニア・アルシュ・ローテローザ
  第六軍総将  ミハイル・テッセリア・ユーレリス
  第八軍総将  ルーディアス・ラスファーン

の七人である。

  守護者、近衛総将、近衛補佐の三名がみな女性のせいか、宮殿内は華やいだ雰囲気だ。もっとも近衛補佐シバだけは、メイサードに言わせると
「あれは女ではない」
ということなのだが。英雄色を好む、の典型であるメイサードと、先の三名の中で一番気が合うのがこのシバなのは、一つの皮肉であろう。
  とはいえ、宮殿で働く召使たちの中には美人も多く、メイサードにとっては格好の花園となっている。
  廊下に飾りつけられた花の影から、無粋な男が飛びだしてメイサードは顔をしかめた。水を運んで来た小間使いを口説いているところだったのだ。
  膳部の召使たちが、その男を追いかけてこちらへ走ってくる。
  メイサードが不機嫌そうに言う。
「グロス」
呆れ顔で情事を見物していたグロスが、いきいきと愛用の短弓を取り出した。
  ヒュッ、と響いた軽快な弦音と同時に、腱を射抜かれた男が前のめりに倒れる。
  グロスは男を膳部の者の前に引き据えた。
「こやつ、会食の御膳に何か盛りました」
「ほう」
  膳部から事情を聞いたメイサードが、初めて面白そうな顔をした。その気が失せたのか、小間使いは所在なげに放り出されている。
「ミハイルとルーディアスの接待だな。それで誰の膳に毒を入れたと?」
「‥‥守護者アンシアさまです」
  膳部の答える声がさすがに小さく、口ごもる。
「違う! 俺は毒など盛っておらぬ!」
男が叫んだ。
「なるほど、自白はしたくない、ということだな」
  メイサードは酷薄な笑みを浮かべると、楽しげに命じた。
「誰かアンシアの膳を持ってこい」
  恐る恐る運ばれてきた膳を、男の前に静かに置いた。男は青ざめてそれを見つめている。
「食ってみろ」
「‥‥‥」
「食ってみろ、と言った」
  メイサードが男の首に長剣を当てた。
  ヒッ、と男は一瞬、息を詰めた。何かに憑かれたように、手当たり次第に食物を口に運ぶ。
  ・・・・そして。
  小刻みに体を震わせていた男は、激しい痙攣を二三度起こして硬直した。
  膳部の者たちに死体の後片づけを命じて、メイサードとグロスは近衛総将レリエのところに向かった。
「毒殺?」
  レリエが青い顔をして聞き返した。
「そうです。こういう事態とあっては、残念ながら近衛総将どのに報告せざるをえない」
「残念、とはどういうことです」
  レリエの緑の瞳が怒りの色を帯びる。メイサードはこともなげに
「お気になさらず。ともあれ、守護者どのはご無事。大事には至らなくて幸いでした」
「そう‥‥ご無事ですか‥‥」
  ほっとレリエが息をつく。その隙を逃さずグロスが言った。かれとしてはこれ以上険悪な雰囲気になるのは、ごめんこうむりたい。
「犯人の身元はまだわかりませんが、この一件の処理はどうします?」
  レリエは少し考える顔になった。表宮殿はアルセレイアの中でも、特に厳しい警護がされているところ。外部の者の入る隙は、まずない。おそらく内部の犯行であろう。
「リーン一派の仕業‥‥」
  つぶやくようにレリエが言った。
「とは限りませんな。宮殿内にいるのはわれわれ聖魔導師だけではなく、各都市の大使もいる。このような情勢では、守護者の命を狙いたがる馬鹿はいくらでもいるさ。」
この件は公にして、徹底的に黒幕を洗い出し、魔法使いや周辺の都市国家が離反せぬよう、体制を引き締めるのが上策。
とメイサードは言い切った。
「ことをうやむやにするのは好きじゃないな」
  グロスが同意する。
  しかしレリエは静かに目を閉じて首を振った。
「いえ、内密に。膳部には私から口止めします。このようなことがあったと知れば、守護者(アンシア)がなんと思われるか」
「お優しいことで」
  メイサードが言わいでものことを言う。
「犯人の身元については。」
と聞くのは妙に実直なところのあるグロス。
「近衛が調査します。お二人は安心してそれぞれの職務に戻ってください」
  レリエが冷やかに言った。
  グロスが不思議に思ったのは、メイサードが珍しく素直に引き下がったことだった。

「やはり表宮殿は肩が凝っていかん」
メイサードはそう言って噴水の縁に腰を下ろした。あれだけ好きなように振る舞っていても、やはり自分の宮殿が一番らしい。
  「緑の回廊宮」とうたわれるだけあって、美しい木立が回りを囲んでいる。聞こえるのは、回廊に囲まれた中庭の噴水の音と、鳥たちのさえずりばかり。表宮殿よりもさらに高所にある静かな一角である。
「ミハイルとルーディアスの移動について、どう思った」
  メイサードがグロスに問うた。
「どうって‥‥」
さいぜん折り取った小枝を弄びながらグロスが答える。
「二人とも水の聖魔導師だ。心強い」
  グロスは今回の勢力移動を素直に喜んでいる。
  魔法は大きく分けて、気術、精霊魔術、降神魔術、外術の四つに分類されるが、その中でも根幹をなすのが精霊魔術である。精霊魔術はさらに地、水、火、風のジャンルに別れ
る。
  グロスは火の聖魔導師、メイサードは火と土の双術聖魔導師である。
  地水火風にも東洋の五行思想の相生・相克に似た関係がある。ゆえに四大元素それぞれについて聖魔導師がいれば、それが一番バランスの取れた状態であり、また最強の状態でもある。もちろん個々の聖魔導師の能力にも大きく左右されるのだが、いざ聖魔導師同士での争いになった場合、バランスの悪い方が不利になることは否めない。
  今までアルセレイア派が火と土に片寄っていたのに対し、対立派は首魁リーンが水と土の、また西師ライアスが火と風の双術聖魔導師で、実にバランスがいい。アルセレイアが対立派に今一つ強硬な態度に出られないのはそのせいではないか、とグロスは思っている。
  ミハイルとルーディアスの加入で、アルセレイアに足りないのは「風」だけになった。もっとも風を操れる者は少なく、ライアスの他には今度対立派に移ったクラリス、そして中立を保ち、自らの提案した両派妥協案が決裂したあとは不気味に沈黙を守っている北師総将サーラーンのみである。
  そう、風。
  グロスとメイサードの間を一陣の風が吹き抜けた。それに合わせて森中の梢がさざめく。目を閉じたメイサードの口が、
  ・・・・ラファイア
と、つぶやくのをグロスは見た。
  サーラーン・ラファイア・ソマリュート。脳裏に「白い死神」とあだ名される典雅な北師総将を思い浮かべる。グロスはそう親しいわけではないが、一度見たらあの姿は目に焼きついて離れない。
  あれは彼の出した妥協案が成立した会議の席だ。
  うなじの上でひとくくりに結った長い銀糸の髪。抜けるような白い肌。唇は丹のように赤く穏やかに笑ってはいたが、感情はいっかな読み取れない。そのくせ一筋縄ではいかない強い意思が押し寄せてくる。まとった長袍と同じ紫の瞳がその場を見渡しただけで、あの野心家のリーンが気押されて黙り込んだ。
  守護者アンシアの親友だが、決して私の感情を公の場へ持ち込むことはしない。べつに他のものが公私混同しているわけではないのだが、サーラーンのそれはあまりにも完璧なのだ。アルセレイア内の対立が、破局寸前でかろうじてバランスを保っているのはサーラーンが先代守護者シルファーンの遺志を継いで調整役になっているからにほかならない。
  だからアンシアの近衛総将にはサーラーンが立つ、というのが衆目の一致した見方だったのだが、アンシアが指名したのはレリエだった。
  だが、サーラーンの態度は変わらない。今ではアルセレイア派も対立派もこの孤高の北師総将の動向を、固唾を飲んで見つめている。
  メイサードの傲岸不遜な態度も、サーラーンの前では心なしか色褪せて見える。いや、メイサードが「ラファイア」と、特別な感情を乗せてサーラーンを呼ぶようになってからは、彼に対しては少しばかり殊勝なようだ。
  今またメイサードが「ラファイア」とつぶやいたのにグロスは軽い目眩を感じたが、普段の女癖が悪いので苦笑せざるをえない。
  メイサードが静かに目を開けてグロスを見た。口にはいつもの不敵な笑み。金の瞳がどこか遠くを見ているような気がするのは、サーラーンのことを考えていたせいだろう。
「サーラーンがどうかしたか」
  グロスは聞いた。
「そうだ。今朝書簡が届いた」
メイサードは懐からきれいに巻かれた手紙を取り出し、グロスに投げてよこした。
  開けると、日にすかして龍と大鎌のサーラーンの紋章。ブルーブラックのインクの水茎も鮮やかに、重要なことがさらりと書いてある。
「サーラーンもアルセレイアにつくんだそうだ」
「それはいいんだが、‥‥これは」
  グロスが戸惑いを隠せずに首をひねる。メイサードは楽しそうに笑った。
「サーラーンめ、アンシアだけでなくリーンにも御丁寧に書状を送りつけるときた」
「黙って移ればいいのに、何故こんな相手(リーン)を煽るようなことを」
「知らんな」
  一瞬メイサードは真顔に戻った。
  アルセレイアにいると、何かと煩わしい雑用がある。今朝、市中に降りていたのは、それを避けて郊外に行っていたのだと言う。
「この手紙について考えていたのさ。なにか裏があるだろうと思ったのだが、サーラーンのことだ。一向に見当がつかぬ。つかぬまま戻ってきたらお前からミハイルとルーディアスがこちら(アルセレイア)につくと言う。毒殺未遂の一件については、手の者を使って勝手に調べるつもりだが。グロス、」
  この一連の動静、なにか思いつかないか。と、メイサード。
「‥‥俺はナーガについていくだけだ」
グロスが答えると、メイサードが再び愉快そうに笑う。
「いずれにせよ、近衛があれだ。一波瀾ある。楽しみにしていろ」
  グロスが返そうとした手紙を、風が巻き上げた。くるくると舞って噴水にひらりと落ちる。
  にじんだインクの向こうにサーラーンの姿が見えた気がした。

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