北の人魚

「お侍さま、これでは無理でございます!」
  船頭が叫んだ。 その声も風雨の音で聞き取るのは難しかった。
  海は荒れていた。
  河口では沖からの荒波と川の流れとがぶっかりあって、高い三角波が発生しているのが見て取れた。
「よいから出せ」
  菅野惣右衛門はぐっしょりと濡れて張り付いた袖をたすきで縛り、船頭が押さえている舟に乗り込んだ。
「死にに行くようなものでございます」
船頭がもう一度言った。舟はともすれば、押さえ込んでいる船頭をはじきとばして浜に乗り上げようとする。
「出せと言うておるのがわからぬか!」
惣右衛門はカッと船頭を睨んで頭ごなしに怒鳴りつけた。
  また大きな波が来た。怒鳴りつけられたはずみに一瞬力がゆるんで、舟はぐっと浜へ流され、船頭は舟の中へ落ち込んだ。杭にかけられた舳綱がはずれ、引く波とともに今度は海へと滑り出す。
「ああ」
絶望的な声をあげて、船頭は自暴気味に櫓を振った。
  どう低く見積もっても一間はあろうかという波を、駆け上がり、滑り下り、それを何度も繰り返してどうにか沈まずに舟は進んで行く。
「いい腕だ。そのままずんと沖へ行け」
惣右衛門は木の葉のように揺れる小舟の中で、悠然と胡座をかき、使い憤れた重藤の弓を取り出した。
「こんな日にゃあ、海に出ねえもんです」
「当たり前だ。そういう日に出るからこそ、一番の腕だというお前を雇ったのだ」
「どんな荒れた日でも、嵐だけなら恐れやしません。 ただ、秋ぐちの、こんな日にゃあ人魚が……」
惣右衛門は薄く笑った。
「その人魚を取りに行くと、初めに言うた」
  船頭はため息をつく暇もなく、舟を操り続けた。

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  秋ぐちの、海が売れる日には人魚が出る。
  いや、人魚が人間を狩るために海を荒らす。人間の精を得るために。
  そんな言い伝えを知らない惣右衛門ではない。むしろ、誰よりも自分の身で知っている。
  惣右衛門の妻はこの海辺の村を領する浜奉行・尾本備前の一人娘で、おさんといった。
  二人は城下に住んでいたが、身篭ったおさんは何かと情緒不安定になり、実家へ下がらせることにした。お役目の邪魔になる、と惣右衛門はおさんに言い聞かせた。
  おさんはめそめそと泣いて抗った。いたらぬ所があれば如何様にも直します。だから、妾をおそばに置いてくださいませ。不安で不安でたまらぬのでございます。
  不安で不安でたまらぬおさんは、惣右衛門が家へ帰るとまとわりついて、ぐちぐちと繰り言を聞かせる。御近習衆として気の張った勤めをしている惣右衛門はそれが我慢ならない。叱り飛ばして飯の仕度をしろと言うと今度はめそめそ泣き始める。そうしたいらいらとした日が何日も続いた。
  身二つになるまで実家で静養させれば落ち着くだろう。そうふんでのことだった。
  実家に下がったおさんを、役目の合間をぬって惣右衛門は一度訪ねた。
  ちょうど、昨年の今ごろだった。
  城下を出る時から強い風が吹いていたが、着く頃には嵐になっていた。尾本家で湯を使わせてもらい、さっばりした気分で浴衣を羽織ると、その裾におさんが取りついた。
  おさんの物狂いは直っていなかった。
「人魚が、人魚が」
怯えたように湯舟を指す。
惣右衛門も見るが、もとより人魚のいようはずもない。
「――離せ」
おさんの虚ろな瞳が不気味になって、惣右衛門は冷たく言い放った。
「離さぬか」
  おさんは激しく首をふった。
「いいえ、離しませぬ。助けて下さいまし。ああ、人魚が――。」
  聞きつけた家人が駆けつけて、ようやくおさんを引き離し、なだめすかして寝所へ連れていった。
  衣服を整えて客間へ行くと、屋本が頭を下げていた。
「申し訳ござらぬ。どうしたことか――娘は人魚が自分を連れに来ると信じておるのでござる」
「ばかばかしい」
「確かにばかばかしい。しかし娘にとっては真実のことでござる。どうか、――どうか堪忍して下され」
  惣右衛門はまずい冷や酒をあおった。なぜ気の置けぬ実家に戻って具合が悪くなるのだ。この調子では仕方ない。
「――離縁、ということもありえます」
  すでにおさんが他人であるかのように、淡々と惣右衛門は言った。
  尾本が目を大きく見開いて青くなった。
  「な、なぜ――」
  「なぜとは片腹痛い。物狂いと連れ添えと仰せか」
  「あれは仔の所為で神経質になっているだけでござる。昔から妙に勘の鋭いところがありましたゆえ――。せめて産がすむまでお待ちあれ。惣右衝門どのの子ではござらぬか」
  「物狂いから生まれる子が物狂いでないと誰が言えまする」
  「あれは物狂いではござらぬ!」
  尾本が我を忘れて怒鳴った。
  惣右衛門は乾いた声で笑った。それは妙に大きく邸内に響いた。笑いを収めるとすっと尾本を見据える。
  「――失礼。物狂いの物狂いでないの、どうでもよい。儂の妻は少なくとも足手まといにならぬがよい。この戦国の世に御近習衆として、常にとのの警護に気を張り、一時も油断のならぬお役目じゃ。家に戻ってはただ身体を休め、弓矢の手入れもして、お役目に備うる。それを手助けするが武士の妻であろうがの」
  尾本が拳を握り、肩を震わせているのを、惣右衛門は冷たい目で見ていた。
  「それでは失礼いたす――。御息女を大事になされよ」
  外はまだ荒れているが、長居は無用だ。優しい言葉の二つ三つもおさんにかけてやろうかと思っていたが、その気も失せた。
  うつむいたまま、絞り出すように尾本が言う。
「離縁の件は――」
「されば生み月まで待ちましょう」
  もうここへは来るまい、と惣右衛門は考えながら言った。会わぬ女との離縁が数ヶ月伸びたとて、なんの障りもない。それでも尾本は放心したように
「――ありがたや」
つぶやいて肩の力を抜いた
  またもやおさんが惣右衝門の腰に取りついたのは、尾本家を辞す玄関先であった。
  「行かないで下さいまし。お願いでこざいます,不安でなりませぬ。ああ、胸がつぶれそうでございます」
惣右衛門は苦々しげにおさんを見た。家人が因感しておさんを話そうとするが、惣右衛門の袖を固く握りしめて離さない。
「ああ、人魚が、人魚……」
「まだ言うか――!」
  今まで冷静に見えた惣右衛門の顔がさっと白くなると、おさんの腹を思い切り蹴飛ばした。
  誰もが一瞬、あっと息を飲んだ。
  おさんは土間にどたりと倒れたが、それでも離さなかったと見えて、惣右衛門のちぎれた袖をしっかと握って  いた。
  惣右衛門は深く息を一つつくと
「――御無礼」
大きく頭を下げて馬にひらりとまたがった。
  さすがの惣右衛門も後味の悪さを感じてずっと不機嫌に駒を進めた。
  城下へ帰る道は海沿いに山を回り込む。道はかなり高い所を通っているが、ときどき波のしぶきが飛んでくる.
  ばしゃっ。
  海面に、大きな魚の跳ねる音がしたと思った
  ばしゃっ。
  今度は確かに見た。
  あれは人魚……か? いや……魚に似るがそうではない。
「との。参りましょう」
  供の中間が心細い声で桑原々々、と唱えながら馬を引く。
「弓持てい」
と惣右衛門は言った。
「ごめんくださりませ。」
中間は泣きそうになって首を横に振る。
「弓をよこせ! たかが人魚を恐れたとあっては末代までの恥」
  言うが早いが、惣右衛門は弓矢をひったくり、きりりと引き絞った。
  妻黒の矢が、激しい風に流されもせず、すうっと飛んでいく。
  人魚が海に落ちる水音ばしたが、射ぬいたかどうかはわからなかった。
  おさんが海に身を投げて死んだ、と尾本が知らせて来たのは翌日のことだった。
  惣右衛門は義理以上でも以下でもない葬式を出した。棺の中に、おさんの身体はなかった。潮に流されたか、いくら探しても見つからなかったのである。
  式の後で尾本が、
「おさんは自分の不安通りに.人魚に引かれたのでござる」
と言って、おさんを見捨てた惣右衛門を責めた。惣右衛門は相手にならずに尾本を送り出そ。としたが、ふと朋輩の岸辺隼人正が聞きとがめた。
「たわけたごと言う。人魚などいるものか」
尾本は赤く腫れた目で岸辺を睨みつけたが、惣右衛門は二人の間に立って静かに言った。
「人魚はいる。儂はあの帰りに人魚を射た」
  岸辺は鼻で笑った。
「ふん。菅野ともあろうものが、御内儀の死に会。て由ないことを。おおかた荒れた海の恐ろしさにまぼろしでも見たのであろう」
「取り消せ。信じぬは勝手だが、侮辱は許さぬ」
惣右衛門はやはり静かに言つた。
  岸辺はまたせせら笑った。
「取り消さぬ。おりもせぬものをいると言うのは、臆病者だ」
「確かにいたのだ――」
「証拠が、あるか。」
「人魚を射たのは、妻黒の矢だ。筈に儂の名が書いてある」
「波を見まごうたか、ばたまた雲か。いずれ射損じたに違いない。このよ。な臆病者が同じ御近習衆とは情けないことよ」
  いつのまにか周りに人垣が出来ている。みな好奇の目で惣右衛門を見ていた。あの村ならばともかく、ご城下では、人魚を信じているのは無知蒙昧の輩と決めてかかっているのだ。
「臆病者でないならば、証拠を見せよ。人魚の肉は不老不死の妙薬と聞く。とのにさしあげたならば、さぞ喜ばれるであろう」
  岸辺が高らかに言った。衆人の中、ここまで言われて引き下がることはできない。
「よかろう。お目にかけよう。」
惣右衛門はキッと岸辺の目を睨んだ。氷のよ。な殺気を感じ、岸辺が思わず刀に手をかける。
  惣右衛門は薄く笑うと、ぱちんと鯉口を鳴らして踵を返した。
  それきり惣右衛門の姿は城下から消えた。

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  風雨はますます強まり、波も激しさを増してきた。
  舟の右前方に影が跳ねた。
「船頭、あれだ。あちらへやれ」
惣右衛門は靭から矢を取り、弓につがえた。
  船頭が何やら叫んだ。
「やれるものなら‥‥‥」
やっている、と言いたいのであろう。
  舟が大きく横に揺れる。海に投げ出されそうになりながら、惣右衛門はじっと海面を睨んでいた。
  突如、目の前の海面が大きく膨らんだ。舟は殆ど横倒しになり、舵が効かぬと船頭が悲鳴をあげる。
  膨らみの頂点から黒い影が跳びはね、詔右衛門の頭を越えて再び海中に没した。波が引き、舟は揺り戻される。
  惣右衛門は一時も安定していない船坂にすっくと立つと、弓を引き絞った。足を踏ん張り、腰を落としてその姿勢を保つ。恐るべき足腰の強さである。
  ぐらり。.
  舟が均衡を失う。船頭の、櫓を持つ手が滑ったのだ。
「ばか。しっかり漕げ。漕いでいる限りは沈まぬ」
惣右衛門は叱咤しつつも姿勢を崩さない。
  次には惣右衛門の真っ正面に現れた。
  大きく手を広げ、覆いかぶさるように襲いかかってくる人魚――
  手練れの惣右衛門には、その動きはずいぶんと緩慢に見えた。ぐっしょり濡れた長い黒髪が顔や胸乳に張りついている。その中で丹のように赤い唇が妙に目を引いた.
  惣右衛門の矢は、右の鎖骨の下を射ぬいた。
  人魚は海老のように丸まって海に落ちた。
  舟に引き上げようと海面をのぞきこむ。そのとき、大きな横波が襲った。
  不意の衝撃にたまらず舟は転覆する。まるで舟とともに回転するかのように、先の人魚が海中から跳ね上がり、頭上を飛び越えるのが見えた。
  惣右衛門はどうにか海上に浮かび上がった。
  ひっくり返った舟に船頭がしがみついていたようだが、すぐに見えなくなった。
  弓を流されたのに気づいて舌打ちすると、上から手が伸びで惣右衛門の頬に触れた。ついで白い肢体が落ちてくる。
  右の胸に妻黒の矢を受けた――人魚。
  ひゅう、とえらから空気の抜ける音がした。丹の唇が動いて言葉を紡ぎ出す。
「……二度も……妾を殺すのですか」
  ――おさん!
  惣右衛門は声もなく人魚を見つめた。――艶な微笑。そんな顔を以前おさんは見せたことがない。だが、この声も、姿も、間違いなくおさんだった。
  惣右衛門は抜き打ちにおさんの人魚を斬った。今度は肩口にばっくりと傷が開いて、人魚はぷくんと沈んだ。気が動揺していたため、わずかに急所をはずした。致命傷ではない。
  再び浮かんで来ることは必至、と惣右衛門は刀をかついだまま立ち泳ぎをしていた。うねりは激しく、波しぶきは絶えず頬を打つ。零に近い視界だが、気配を見落とす惣右衛門ではない。海面に出れば、今度こそ斬ってゃる。その心だけでどんな荒波にも耐えることができた、
  ぐい、と惣右衛門の足が引かれた。頭が海に潜り。がぼっと水を飲んだ。
  不覚を後悔しながら、逆に頭を下にして潜ろうとした。水底へ引きずりこもうとする手を斬ろうと思ったのである。
  しかし、おさんの引く速度の方が速かった。惣右衛門はあいかわらず頭を上にしたまま、無駄なあがきをするはめになった。
  足首をつかんでいた手がすねに上ってきた 腿。尻。腰。さすり、撫で、するするとはいあがってくる。
  水圧のため耳が痛み、目が眩む 息はもう限界だ。それでも刀を逆手に持ち直すと、人魚の背に突き立てた。
  おさんの顔が一瞬のうちに目の前まで上がった。心臓の後ろをねらったはずの刃は銀の鱗に当たり、鈍い響きを残して折れた。尾が惣右衛門の手から刀を跳ね飛ばす。
  次の瞬間にはおさんに絡みつかれていた。惣右衛門はわずかに自由になる口で、おさんの二の腕に思い切り噛みついた。
  おさんの身体が柔らかく、吸いつくようにくねる。見慣れた女の閨の顔だ、と惣右衛門は思いながら意識を失っ
た。
  目を覚ましたのは船出した河口から十里はど離れた砂浜だった。
  ――白砂青松。どこまでも晴れた空に一片の雪が漂っている。絵に描いたような光景に無性に腹が立った。足に絡んでいた海草を、わざと潮の届かぬ白砂の上に投げた。
  おさんの身体は程近いところに打ち上げられていた。刺さっていた矢は波にもまれ、流れてしまっていた。
  引きずり上げようと触ったとたん、ざらっと萌れて潮に溶けた。これで証拠はなくなった。
  ――腹を切らねばならんか。
  ぽんやりとそう考えて穏ゃかに凪いだ海を見ていた。
  ぎゃあ、と赤子の泣き声が聞こえ、今まで人魚のあった場所で力の限り泣いていた。
  惣右衛門は赤子を抱き上げた。女の子だった。背の肩甲骨の間に一枚の銀鱗があった。惣右衛門ばぼろぼろになった袖をちぎって赤子をくるんだ。
  惣右衛門が城下に戻ったのはそれから三日後であった。
  人魚を捕らえることもなく、恥じて切腹することもなくしゃあしゃあと戻ったのを人々はそしり嘲笑したが、惣右衛門は意に介さず以前どおりに務めに励んだ。
  その年の暮れに戦があった。
  何人を斬ったか――。入り乱れての白兵戦となって得意の弓はただの荷物になっていた。斬れなくなった刀でひたすら敵をぶんなぐった。
  いつのまにか、今は上役となった岸辺と道連れになっていた。
「卑怯者と一緒とは」
と岸辺はぼやいた。
  新手が目の前に立ち塞がった。岸辺がむちゃくちゃな叫び声をあげて突っこんでいった。惣右衛門も続いて刀を振り上げた。
  首筋に熱さが走った。岸辺もろともに斬られたのである。しばらく意識を失ったが、戦が終わったとき岸辺は死に、惣右衛門は生きていた。
  以後、惣右衛門はどんな深手を負っても死ぬことがなかった。
  五年、十年たっても不思議に若々しく、娘もまた十五で初潮を迎えてから年を取ることがなかった。
  主君の死後、惣右衛門は娘とともに出奔した。
  以後、惣右衛門の姿を見たものはいない。

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