肖像募集中 |
略歴天正18年生。岩城常隆の嫡子ながら、幼少であったため廃嫡。 |
今日はお目にかかり満足つかまつり候。さりながら人多く候て、物近に申し承らず候。残り多く候。内々留め申したく存じ候えども、各御同道の衆、多く候間、心中ばかりにて、相返し申し候。一夕必ず申しいるべく候条、御出候て給うべく候。我々は10年も15年も申し承り候御知人よりも、御隔心存ぜず候えども、あまりに左様に申すも、御心中も知らず、またなれなれしく思召し候も如何かと、これも心にてくらし申す事に候。左様に候ても、むなしく日月を送り候わんにもござなく候間、今よりは弥憚りをかえりみず申し承るべくまでに候。恐々謹言。
くれぐれ御心中はかりがたく候えども、なれなれしき文を進じ候。他見なるまじく候、なるまじく候。何様ご返事により、つらつら我等心底のとおり、申し入るべく候、申し入るべく候。まずまず閣筆申し候。かしく。
二の廿日 政宗(花押)
(「市史せんだい」17号 伊達政宗文書補遺(1) 補5号 岩城長次郎政隆宛カ書状)
今日はお目にかかり満足いたしました。しかしながら人目が多くて身近くお話できませんでしたね。残念です。内心はもっとお引止めしたかったのですが、御同道の衆が多かったので、心に思うばかりでお帰りいただきました。今度の夕に必ずご招待いたしますので、おいでください。私たちは10年15年来の御知人よりも親しい間柄と思っておりますが、あまりわたしばかりそう申しますのも、御心中も知らないまま、またなれなれしいこととお思いになるのも如何なことかと、これも心に思うばかりで暮らしております。そうは申しましても、むなしく月日ばかりを送るものでもありませんので、今よりはいよいよはばかりをかえりみずにお話しいたします。恐々謹言。
本当に御心中を確かめないまま、なれなれしい手紙を差し上げました。どうか、どうか、他の人に見せないでください。つらつらと私の心底を申し上げるばかりです。まずは筆をおきます。かしこ。
「市史せんだい」の解説文には、
「折紙。切封。自筆。私用花押。宛所は擦り切れて判読できないが、文面などから、岩城政隆宛か。政宗が羽柴越前守を称していること、自署・花押の形から、補8号文書と同じ頃のものか」
とあります。すなわち慶長11年~14年ごろのものとなります。
世臣家譜によると、岩城政隆が仙台にきたのは慶長12年。政宗は頼ってきた政隆を厚遇します。
恐縮した政隆は奉公を願い出、慶長15年に伊達姓を賜り、岩谷堂伊達家の祖となります。
このころの政宗の政隆への書状はオフィシャルな筆致のものからややくだけた文体のもの、花押も公用花押と私用花押が入り混じります。今に残る書状は全て「殿」づけですが、「仙台藩家臣録」の伊達左兵衛書上には「其上御状等被下置候も様書にて被置候」とあります。
政隆の初名は「隆道」であったといいます(wikipedia)。「政」の字は政宗の一字を拝領したのですね。
取り上げた書状はその中でももっともくだけた文体のもの。せつせつとした内容、そしてリフレイン。政宗が心の赴くままにつづった自筆書状です。