椿陰

初出:伊達成実アンソロジー「余るも夢の2」

阿武隈川で分けられた安達郡の西半分、元の畠山義継の領を二本松三十三郷、と俗に言う。天正十四年九月、伊達政宗が大内備前定綱を会津に奔らせ、畠山右京亮義継を滅ぼして安達郡を得た後の仕置で、伊達成実はこの二本松の城とその領を拝領した。
畠山義継の遺児・国王丸が城を明け渡す時に自焼した二本松城本丸の普請が、あらあら仕上がったのを成実の父・伊達栖安斎実元が見に来たのは、春の気配が漂うようになった三月の初めの日だった。 去年植えた椿はうまく根付いて、少ないながらも花を咲かせていた。雪が残るころから咲き始める椿を実元がよく楽しんでいたので、植えたものだ。大森にも八丁目にも大きな椿の木が数本あり、あまり伸び過ぎないように上を切り詰めてあった。
実元の住む八丁目城は二本松からほど近い。間の渋川で休息を取ったあとに先触れが出て知らせてきたので、成実は実元を出迎えに城の門まで出た。
去年の夏、二本松城明け渡しの仲介をした時には、ずっと口取りに馬を引かせながらも騎乗していたのだが、今日は輿に乗っている。顔を合わせるたびに弱ってゆくのが目に見えて、成実は悲しくなった。
やはり新築の祝いに来た白石右衛門宗実がともに出迎えながら、
「少し小さくなられましたかな」
とつぶやいた。安達郡の東半分――元の大内定綱の領――四本松を拝領したのは、この白石宗実である。 もとよりこの距離でわずかな身体の大きさの違いなどわかりようもないが、つまりは覇気がないということだ。
いつまで父は生きているだろうか、と思ったとたん膝が震えたので、その心細さを振り落とそうと、成実は出迎えの足を早めた。
白石宗実の挨拶を受けた実元は、本貫を離れての新恩拝領には気遣いが多いだろう、と宗実をねぎらった。宗実の本貫は、刈田郡白石。本貫とは別の地を拝領し、そこに本拠を置くことは珍しくないが、本貫を完全に引き払って新恩の地に移るのは珍しい。
成実もまた、二本松拝領にあたっては、大森領を引き払って片倉景綱に渡しているのだが、元の大森からはほど近い分なじみがある。
「栖安斎さまが地下の有力者や大内の譜代の者を幾人かご紹介くださいましたので助かっております」
宗実が浅黒い顔に笑みを浮かべた。
これからもご相談させていただければ――、という宗実の言葉を引き取って、
「相談させていただくは、これではないかな」
と実元が成実を見やったので、成実は軽く会釈をした。
「二本松どのにふさわしいご活躍と存じますが」
宗実が立ててくれたが、自分の若さ未熟さはわかっている――つもりだ。
宗実が四本松へ戻るのを見送ったあと、成実は実元が泊まる部屋へ足を向けた。八丁目からの移動と先の挨拶で疲れたのだろう。実元は気だるげに脇息にもたれて目をつぶっていた。ついぞ見たことのない父の姿だった。
「父上」
成実は実元の前に座して、
「大内備前がつなぎをとってきました」
と、相談をもちかけた。
大内定綱は、政宗家督の年に一旦参向しながら離反し、政宗の攻撃を受けて所領を失った。
その定綱が再び伊達家に仕えたい、と伝えてきたのだ。この相談は、元の大内の領を引き継いだとはいえ、移って日が浅い白石宗実よりも父実元の方がふさわしいように思われた。
「わしのところへも来た」
実元は目をつぶったまま言った。
「やはりお屋形さまに報告した方が」
そう言うと、実元は目を開け、じろりと成実を見ると、机と筆、硯を持ってこさせた。
「よいか、よく思案をせよ」
文机に半ば身体を預けた実元は紙を引き寄せると、筆を取って縦にすっと線を引いた。
「伊達があり、佐竹がある」
次は横に墨を引く。
「会津があり、田村と相馬がある」
十字に引かれた墨のまわりを実元は指差した。
「人がいればいさかいがある。いさかいの話がつかなければ、後ろだてを頼む」
実元が続ける。
「まずは近い者、懇意の者を頼むだろうが、最後には今言うたところを頼むことになる」
この捌きかた次第で、それら大名小名は伊達の馬打ちにもなり、また敵方の馬打ちにもなる。
伊達を頼んでくる大名小名のうち、南筋――仙道――を主に担当してきたのが栖安斎実元だ。天文の大乱で稙宗に従って敗れ、かろうじて身上を保証された実元が、今のように家中に重きをなすようになったのは、これらの頼みをうまく捌いてきたからだ。
家督をついでから成実は、政宗が出兵を決めるたび、実元が昵懇にしてきた境目の領主に声をかけてきた。
かれらはみな、「栖安斎様の話ならば」と成実の話に耳を傾けたのだ。
「どの家にもさまざまな立場の者がある。どの立場の者にどう我らを頼ませるか。それで仙道の絵が変わる」
大内はどうだ、と言外に実元が問いかける。
成実の考えは未だ定まらなかった。

翌日、
「実城に櫓ができただろう」
そこまでゆく、と実元は言った。
おやめになった方が、と成実は止めたが、実元は聞かなかった。ならば、と輿の用意をさせると、苦笑いをしてそれに乗った。
梯子を登り、櫓へあがると一気に視界が広がった。春の暖かく強い風が吹いていた。
ゆっくり、ゆっくりと梯子を上がった実元が膝をついてぜいぜいと息をつぐ。
「父上」
成実は実元を気づかった。
実元は息を整えると、手をついて立ち上がり、周りを見回した。
西には雪を残した安達太良山が霞み、東にはあわあわと萌える地面の間に阿武隈川、その向こうに四本松の山々が浮かんでいる。
「ふ、」
鼻から息を吐く音が聞こえた。
「ふ、は、は、は」
実元が背中を大きく揺すり、かかと笑っていた。
八丁目に帰った実元が息を引き取ったのは、およそ一月の後だった。名残の椿がぽとぽとと、主を追うように落ちていた。

*         *

二本松領の南の境目に、苗代田・高玉・安子ヶ島の地がある。安達郡と安積郡の境目でもあり、広がった伊達領と会津領の境目でもある。高玉・安子ヶ島から中山峠を越えればそこは猪苗代湖が広がる会津だ。
そして安積は、
「伊達があり、佐竹がある。会津があり、田村と相馬がある」
実元がそう言って引いた線が交わるところにあたる。ゆえに多くの国衆が、時には伊達に、時には田村に、会津に、佐竹に、身を持ちかえながら身上を保っていた。
この境目に不穏な雰囲気が漂い始めたのは、天正十五年の夏の頃である。
苗代田に夜討がかけられたのだ。
逃げていた百姓たちを還住させ収穫を終えたばかりの夏麦を狙われたようだった。かろうじて撃退したものの、夜といわず昼といわず胡乱な者が村を伺い、たまりかねた苗代田の領主・苗代田木工丞は成実に訴えた。
「心当たりは」
成実が問うと
「見知った顔が何人か」
と、木工丞は答えた。
「二本松四本松の牢人ということか」
「さようにございます」
二本松の旧臣の多くはそのまま所領を安堵され、成実に寄騎としてつけられていたので、この三ヶ所の領主――苗代田木工丞・高玉太郎左衛門・安子ヶ島治部――に対しても成実はそのようにふるまっていた。
だが、二本松開城後の仕置に参向せず、改易された者たちも多い。食い詰めたものか、はたまた、会津にそそのかされたものか。
百姓たちを一旦玉井辺りまで引き退かせて鎮圧したい、と成実は政宗に打診したが、得たばかりの領から引き退くのは外聞が悪い、と政宗は言ってきた。
境目の小城一つまともに守れぬとは頼りにならぬ大将よ、となめられるようなことをするなということだ。
成実は配下の本内主水に警固の鉄砲を付け、苗代田の近辺に寄居を構えて守備させることにした。併せて安子ヶ島治部と高玉太郎右衛門にも、境目に油断のないよう書き送った。

鱗雲が空をゆく季節になった。
遠乗りを兼ねて、成実は安達太良明神へ参拝に出た。途中、気の早い雁が数羽、杉田川の河原にたたずんでいたが、狩の時期にはまだ早い。
(――早く鷹狩の季節が来ぬものか)
気晴らしがしたい、と成実は思った。
うまくいってはいるはずだ。
苗代田もあれからは何事もなく、稲穂は頭を垂れ始めていた。
二本松領の東で境を接する田村は、昨年秋に当主の田村清顕が急逝した。ために、家中は清顕の女婿である伊達政宗派と、清顕室の実家である相馬義胤派に割れて睨みあい緊張が続いていたが、膠着状態に陥っている。油断はならぬが、有事にはなっていない。
政宗のいる米沢は遠くなったが、成実が二本松に移った後の大森に片倉小十郎景綱が入って、緊密に連絡を取り持っている。
実元の喪が明ける頃、境目に油断のないように、四本松の白石宗実と何事も打ち合わせるように、と政宗から長い手紙が来た。
伊達家の先代・輝宗と、時の二本松領主畠山義継がもろともに落命した粟の巣の変事のあと、安達郡の国衆は雪崩をうって伊達についた。実元がずっと誼を通じていたからだ。
二本松領を得る前は、大森が南の境目だった。仕事としては同じはずだ、と自分に言い聞かせながらやってきたのだ。挨拶に来る誰もが、栖安斎さま同様、よろしく頼みたいと言い、人取り橋での成実の武名を称えた。
ただ、ひどく気疲れがした。結句、値踏みに来ているのだ、彼らは。
人のいない時に老臣の遠藤駿河にそうこぼすと、
「新恩の地ですから」
お気遣いの多いのは当然です、と笑った。

安達太良山を御神体とする明神社は本宮城の敷地内にある。
いや、安達太良山を遥拝し、安達から安積にいたる青田の原を一望する明神社の境内地に、本宮の城が築かれたのだ。畠山の一族であった鹿子田和泉が城を自ら焼いて立ち退いた後は、伊達勢が兵を入れて拠点の一つとして利用してきた。
今また成実は政宗の命で、焼かれずに残った社の屋根を葺き替え、そして城の方も土塁を築き直す普請をやっている。
本宮の城代・氏家新兵衛とともに成実は、安達太良を拝した。
鹿子田和泉が修築したという拝殿は、柱も太い立派なもので、城として利用しながらも神籬への尊崇を決しておろそかにしていなかったことがよくわかった。
頂きをわずかに紅葉に染めた安達太良山は、南に長くたおやかに山裾を引き、二本松から見る険しい山の続く荒々しい姿とはずいぶん印象が異なっていた。
「美しいな」
成実が言うと、氏家が胸を張った。
「山上から里に御祀りするに、此処からの御山が一番美しいゆえかと存じます」
(――安達郡総鎮守)
成実はそう心につぶやいて、もう一度安達太良山を見た。
「しっかとご帰依なさいますよう」
氏家が後ろでそういう声が聞こえた。
拝殿から出ると、遠藤駿河が素襖を着た身分ありげな男とともに待っていた。
成実の向かいに用意された床几に男が座り、遠藤と氏家が成実の脇に控えた。頭を下げた男の肩越しに、下に広がる青田の原を横切る瀬戸川と人取橋、そして安達と安積を分ける五百川までもがよく見えた。
「との」
と、遠藤がこちらを向き、ついで男の方を見て、
「大内備前どのでござる」
と披露した。
その男――大内定綱――は、顔をあげ
「『二本松どの』にはお初にお目にかかります」
にっと笑みを浮かべてそう言った。
お初に、と定綱は言ったが、初めての対面というわけではない。成実が初陣した相馬との戦の時には、定綱は伊達方で参戦し、挨拶を受けたのを覚えている。
政宗家督の秋に定綱が改めての出仕を願い出た時にも、父実元が取り次いだ。雪も溶けぬうちにあっさりと会津を頼んで鞍替えし、大いに面目をつぶされたのだ。
「あの時はさんざん迷惑した。今日は何用あってのおいでか」
以前から大内定綱と折り合いが悪く、戦を繰り返してきた田村清顕の要請もあって、伊達家は大内退治に乗り出した。
当時二本松を領していた畠山義継は大内に援軍を出し、また大内を助ける会津ほか仙道諸将の援軍の通行を許した。これを伊達家に対する敵対行為と見て、政宗は二本松にも矛を向けた。
「儂こそいい迷惑でございます。もともとお目当ては二本松。――違いますか」
一瞬、最後に櫓に登った実元の姿が目に浮かんで、成実は眉を寄せた。違う、と歯を噛む。
追い詰められた畠山義継は、降伏の仲立ちをした政宗の父・輝宗を御礼の席で拉致し、追う伊達勢との競り合いの中でもろともに死亡した。
畠山家を滅ぼすつもりは、誰にもなかったのだ。畠山義継と輝宗の死は、伊達家にとって不慮のことだった。その結果、伊達家と成実が二本松を得たのは事実にしても。
「父は最後まで畠山どのと手切せなんだぞ。伊達があり、佐竹がある。会津があり、田村と相馬がある。進退定まらぬはこなたではないか」
成実が睨むと
「恥ずかしながらさようで」
定綱は悪びれずに言った。
「儂にも不慮のことがございましてな。去年の暮れ、芦名の当主亀王どのが亡くなった。これが痛うございました。おかげでわしがいただくはずの知行はみな、佐竹からのご養子について来た者たちにゆくことになった。これでは食うてゆかれませぬ」
家臣郎党たちも散りゆくばかり。つなぎだけでは埒が明かぬで、自身参った次第です、と言葉だけは心細げに定綱は言う。だがその表情はひどく陽気だ。
成実は定綱をじっと見つめた。
実元は定綱のことをどう言っていただろう。あの田村と戦って負けを知らない戦上手、周りの状況によってくるくると態度を変えるこの男。
よくも高く自分を売りつけにきたものだ。
「ひとつ聞く」
唾をひとつのんで成実は聞いた。
「なんなりと」
「散った郎党は何処へ行った」
「存じませぬが、勝手知ったるところでしょうなぁ」
「夏に苗代田を襲ったは、その郎党か、こなたの差し金か」
定綱は答えずに、ただ笑った。
「こなたを迎えることで我らになにか利があるか」
素襖の袖が眼下の眺めをさえぎった。定綱が両腕をあげて誇らしげに言う。
「――安達安積の無事を」
成実は苦笑して再び眺めが戻るのを待った。
「安積までとは大きく出たな」
「ご存知の通り、片平に弟がおります。まずはこの弟のご奉公を以て、我が身も御許しいただければ」
大内定綱の弟・片平親綱は安積郡片平の城主で、田村と不仲になった後は会津に奉公をしている。ここが伊達方になれば、会津への道を押さえることができる。田村領を合せれば安積を東西から挟むことにもなり、安積郡の確保には要所の一つだ。
「断れば」
「二本松四本松には、我らが譜代の地下人どもが数多く残っておりますでな」
これまでの不奉公や無礼敵対を詫びるでもなく、あまつさえ脅そうとする。
(――面憎いやつめ)
考えてみれば輝宗が不慮の死を迎えたのは定綱の所為ではないのか。
「確か以前、不奉公をするからには滅亡覚悟とおしゃったな」
声を低めると、定綱は一瞬黙って、頭を掻いた。
「我らは窮鼠でございますよ」
しかし猫を噛んだところで猫が倒れるわけもなく、結局は逃げて生きるほかござりませぬで、と定綱は言うと、真顔になって床几を外し、片膝をついた。
「鼠ほどの役には立ちます故、ご奉公の御取次ぎ、御願い奉ります」
成実は頭を下げた定綱をしばらくの間、見つめていた。定綱は身じろぎもしなかった。
「――あいわかった。御許しが出るかは請け合えぬが、話はしてみよう」
「ありがたき仕合せ」
礼をとった定綱を一瞥し、では、と成実は席を立った。
城へ戻ろうと横を通り抜け様に
「そうそう。安子ヶ島・高玉が会津に挨拶にきておりますぞ」
思わず足を止めると、定綱が顔をあげてまた、にぃっと笑っていた。
成実は奥歯をぎり、と噛んだ。怒鳴りたくなる衝動を抑えて大股に歩く。
「との」
遠藤が歩調を合わせて思案の目を向けてきた。後ろから氏家が追掛けてくるのだろう、足音がする。
黙ったまま歩いていると、十分定綱から離れたところで
「との」
もう一度遠藤が声をかけてきたので、
「わかっている!」
覚えず声が荒くなった。
「あれは、癖者です。昔から」
氏家が困った顔で言う。成実はぎろりと氏家を見た。
「癖者ゆえに役にたつということだろう。神前で請け負うたからには二言はないぞ。米沢のお屋形様と、宮森の白石へこの件、使いを出す」
片平まで伊達につくというのであれば、悪い話ではない。それはそれとして、と成実は息をついだ。
「高玉と安子ヶ島だ」

高玉と安子ヶ島は、二本松領の内ながら昔から会津に近しい。畠山が二本松領主だったころ、会津からの援軍はみなこの地から二本松領に入った。
支城をみな捨てた二本松城が伊達勢に囲まれながらも、半年以上の籠城に耐えたのは、高玉・安子ヶ島からの山を越えての補給路が絶たれずに残ったからだ。
伊達家が二本松の仕置をした時には、高玉太郎左衛門と安子ヶ島治部は両名ともに出仕し、政宗から所領を安堵されている。
大内のことは伏せて会津への挨拶の仔細を問うと、境目ゆえの通常の挨拶であるという。
釈然とせぬ思いで成実はそれを聞いた。
四本松の白石宗実からは早々に、大内の降を入れるのに賛成の旨、返事が届いていた。四本松領内に残り、宗実の寄騎につけられた大内譜代衆も、大内が帰参すると安心するだろう、とのことだった。 政宗からの返事を持って、成実と入れ替わりに大森城主となった片倉景綱がやってきたのは、月が変わった頃だった。成実は白石宗実を呼んで景綱の話を聞いた。
「どうだ。とりつく島はありそうか」
成実が問うと、景綱は肩をすくめて、
「五郎さまが既に大内と挨拶をなさったこと自体をお怒りで。境目の衆とますます昵懇にするように、とのことです」
と答えた。
「さもありなん、きゃつは全ての引き金だ」
「我らが安達を得たことの引き金ですな」
宗実が静かに言った。成実は唸った。
「そうとるか」
「ことこうなっているほかには、そうとるしかありますまい」
「私が城持ちになったのも、備前どののおかげですか」
景綱が苦笑したあと、
「あれだけ面子を潰されたのですから、降を乞うてきたからというて、二つ返事でご赦免もなりますまいが、お怒りということは、八割九割は目があるのですよ」
と成実を見つめた。外聞のためにわざと怒ってみせている、ということだ。ならば政宗の顔を立てるようにすればよい。
「片平がことは、申し上げたか」
成実が問うと、
「内々に」
景綱がにこりと笑った。
「では、――」
宗実も成実の顔を見る。
「備前の言うとおり片平を帰順させる功を以って、今一度お許しを願おう。きゃつも名跡が立てば文句も言うまい」
成実は景綱と宗実に順に目を合わせて言った。
「――名跡、」
小さく宗実の口が動いたのを成実は見た。
「御意」
と、景綱が一礼し、宗実もすぐに何事もなかったかのように頭を下げた。

*         *

再び、苗代田付近に不穏な気配が漂うようになったのは、米の収穫が始まり、年貢の収納を始めたころである。去年あわただしく行った検地と照らし合わせながらの収納で、自然見る目が厳しくなったせいか、百姓たちもどこか落ち着きがない。
本内主水が厳しく目を光らせているので大事にはなっていないが、鉄砲玉薬の補給の要請があった。
「また、二本松四本松の牢人衆か」
夏麦が終われば秋の米を狙うか、と成実はいらいらと筆をとった。墨をすり、筆をもてあそんではその尻を噛む。
二本松四本松の牢人衆は、安積のそちこちを拠点にしている。
「伊達があり、佐竹がある。会津があり、田村と相馬がある」
成実は実元の言った科白を呟いた。
筆先が、時折り迷う。清書は祐筆に書かせるのだが、自分の思考を整理するのに反故紙に書きつけるのは成実の癖だった。
ざっくりと山と川を描き、高玉、安子ヶ島、片平、と書き入れる。大内定綱は今、弟の片平親綱が拠る片平に居るという。
(――まことに、向背定かならぬ)
息を一つついて、ついで、苗代田、玉井、本宮と書き入れた。
成実は自分が書いた書きつけをしばらく睨むと、手を打って祐筆を呼んだ。
大内定綱の帰順問題は、片平親綱の臣従を条件に政宗の赦しがでた。あとは定綱の所領をどこにすべきか、という調整が残っている。だが、大筋で合意ができた以上、定綱は苗代田に手を出す理由はないはずだった。
高玉と安子ヶ島には、境目の用心と年貢の収納について書き送った。
返書は間もなく到着した。
高玉と安子ヶ島に出した書状も、大内に出した書状も、重要なことではあるがごくごく事務的な事柄であった。事務的であるからこそ、書きようには油断なく心を配ったはずだった。
相続いて届いた返書を読んで、成実は絶句した。
高玉・安子ヶ島からの返書には丁重な筆致ながらも、二本松の寄騎になった覚えはないゆえ指図されても困る旨が書かれてあった。
成実は歯噛みして、米沢の政宗に照会を出した。立場の認識の食い違いは、互いの顔を傷つける。些細なことに見えても禍根を残すことがあるのを成実は知っていた。
政宗は何度か成実に、安子ヶ島らと昵懇にするように念を押してきていた。しかし、これでは
(――手遅れかもしれぬ)
成実はひっそりと本内主水に、高玉・安子ヶ島にも油断せぬよう指示を出した。
大内定綱の返書はより深刻であった。
内応・帰順が定まっても、大内・片平が会津に手切れするのは十分に時宜を見計らって行わねばならない。ゆえに会津に話が漏れぬよう、細心に事を進めてきた――これもはずだった。
その話が、暴露(ばれ)たという。
誰に漏らしたのか。腹を切らねばならぬほど詰め寄られ、迷惑している、と大内は書いてきていた。会津黒川を立ち退き、弟の居城片平に逼塞しているのはそのためだと。
ともかくも、暴露(ばれ)たからにはほとぼりが冷めるまで話を控えるほかあるまじ、そう返事を書かせると成実は、大内の書状を懐に突っこんで立ち上がった。
腹が煮えた。傍らの大刀を差し、足音荒くまっすぐに厩へ向かう。
「どちらへ」
近習があわてて追ってきた。
誰が漏らしたのか、だと。心当たるは、一人しかいないではないか。
「宮森だ」
目がくらむような思いで、成実は馬に鞭をくれた。
宮森の城門で、開けよ、と怒鳴ると城がざわめいて慌てて注進に走る気配がした。鉛色の雲が走り、山から流されてきた小雪が舞う。目の前を舞い流れてゆく雪は、時折り成実の袖について、頼りなげに瞬いて溶けた。
頭を、冷やせ、と自分に言い聞かせて大きく息を吐き、成実は宮森城に入った。玄関で大刀を近習に持たせ、書院の上座にどかりと座ると、間もなく白石宗実がやってきた。
一礼した宗実は
「急なお越し、如何なさいました」
と、顔を上げた。成実はことさらに落ち着いた声を作った。
「右衛門――、大内備前の返り忠を会津へ振れたはこなたか」
宗実は片眉をぴくりと持ち上げた。
「おれはこの件、お屋形さまと小十郎のほかには、こなたにしか言うておらぬ」
宗実がかすかに笑った気がしたので、成実の表情は自然険しくなった。それは宗実がこの機密を会津に漏らした証左に違いなかった。
「何故だ」
たたみかけると宗実は逡巡するかのように、一度目を伏せ、そして、す、と成実の目を見つめた。
「大内備前が五郎さまを頼うだ故でござる」
成実は顔を顰めた。
「頼むがおかしいか」
宗実が首を振った。
「大内が名跡が立てば、四本松は――儂は如何なりますかな。大内の本領を安堵されては儂が困る」
宗実は一家一統を挙げて本貫の白石から離れ、この四本松まで移ってきた。このことで宗実が得たのは宮森・小浜の城だけではない。四本松一円の城領――それは伊達家親類衆で最大の権勢を誇ってきた成実に匹敵する規模だ。本貫と引き換えとはいえ、褒賞以外のなにものでもない。
だがその四本松は大内の本領だ。
「儂とて大内が名跡を立つるに、お屋形さまが四本松まるまるを下さるるとは思いませぬ。だが、小浜一城、あるいは小手森一城ならば」
どうです、どうなります、と宗実の目が問う。
大内定綱に与える所領の折衝は未だ漠としたものであったが、確かにその程度ならばあり得ない話ではない。
わずか一城の足がかりから、周りの元の譜代の支持を得て、本領を取り返す。そこまで考えて成実は身震いした。
三十余年前、伊達家が二つに割れて争った天文の乱に敗れた実元が、信夫半郡を支配するに至った道そのものであった。
「それでも、儂を頼んでの帰順であれば、儂が大内の指南ゆえ大内の風下に立つことはござらぬが、五郎さまを頼まれてはそうもゆきませぬ」
うかつだった、と宗実を睨みながら成実は思った。
どの家にもいろいろの立場の者がいる、どの立場の者にどう働きかけるかで、仙道の絵が変わる。どの家にも――ということは伊達家とて例外ではないではないか。
「ならば、きゃつには会津で腹を切ってもらうが、重畳」
宗実が薄く笑った。
「それゆえ会津に振れたというか」
「御意」
成実は慎重に言葉を探した。
「右衛門よ、それでは片平がこちらにつかぬ」
「大内備前が腹を切れば牢人衆を煽るものがいなくなります」
宗実の表情は変わらない。
「だが、そこまでだ。大内・片平が帰順すれば、牢人衆も鎮まり、安達のみならず安積も伊達のもとに無事がなる。こちらの方が外聞も実利も勝るではないか」
伊達のもとに、と力を込めると宗実が軽く肩をすくめた。
大内定綱の進退に責任を持つのは取次の成実だ。宗実の懸念が現実になることは、成実にとっても好ましいことではない。
「こなたの懸念はもっともなことゆえ、お屋形さまに確と申し上げる」
まっすぐに宗実を見すえて成実は言った。宗実はしばし視線を合わせ、ややあって
「よろしく頼み申す」
と頭を下げた。

*         *

少しばかり春の気配が漂った後に強風が吹いて、大雪が降った。舞い散る粉雪ではなく、湿気を多く含んだ重い雪である。二本松の城内にも珍しく一尺ばかりの積雪があった。
伊達勢、敗軍の急報が二本松に届いたのは、その雪がほぼ溶けた二月十日のことであった。 大敗を喫したのは、伊達領の北方、大崎表である。大崎氏の内紛への介入でこの正月から兵を出し、順調に中新田城・師山城の攻略を進めていたのだが、この大雪で形勢は逆転、小山田筑前が討死し、大将の泉田重光と留守政景はそれぞれ別個に孤立した。
(――まずい)
田村をめぐっての相馬との緊張はまだ続いている。最上表は昨秋に鮎貝氏の謀反があり鎮圧したばかり、しかも最上氏は大崎氏と関係が深く、大崎表でも共同戦線を敷いている。
(会津と佐竹は、)
と成実は南筋を思った。
唯一味方の大名であった田村には主がいない。
伊達はぐるりを敵に囲まれている。大崎表に援けを出したくとも、どこもかしこも手いっぱいだ。
「南の境目に増援を出す」
と、成実は遠藤駿河に指示した。
「高玉・安子ヶ島・苗代田ですな」
いや、と成実はかぶりを振った。
安子ヶ島らの立場の照会については、去年の内に政宗から返書が来ていた。
成実が賜った「二本松三十三郷」の郷のうちに高玉・安子ヶ島は含むが、彼らの所領は別個に政宗が安堵したものである。明らかなことであるので、ことさらに成実には言わなかった、という、なんとも歯切れの悪いものであった。
それに、元から彼らは会津と近しい。
「苗代田と、玉井・本宮だ。高倉にも注進せよ」
あとは、大内定綱・片平親綱と早く話を再開してこちらに味方させねば、と祐筆を呼んだ。

苗代田が襲われた、との高倉からの早馬に遠藤駿河が成実の元へ駆けこんできたのは二月十二日の未明である。苗代田への増援は今日出立の予定だった。
飛び起きた成実は、
「高玉と安子ヶ島か」
と問うた。
うなづいた遠藤は、
「先手は大内備前です」
と、怒気を宿した声で言った。
「苗代田は火をかけられ本内主水切腹のよし。高倉近江どのが救援に出て、逃げてきた者たちをまとめております」
「陣触れだ」
成実は語気鋭く言うや、立ち上がった。
「御意、」
と遠藤が走る。
苗代田へ行く予定だった者たちを荒井と玉井に振り向ける。米沢の政宗、大森の景綱、宮森の宗実にも早馬を出す。
苗代田と安子ヶ島の間から、玉井に抜ける間道がある。ここを通って玉井に落ちてきた百姓らも多いが、ここから敵勢に侵入されると、一気に山沿いに二本松城を衝かれる恐れがあった。
成実は早打ちし、昼前には本宮城に入った。本宮であればこの間道への睨みも効く。
高倉近江には荒井と連携して大内らの抑えを依頼した。
本宮城の櫓に上って、成実は南を見た。
生暖かい風は雲を連れてくる。さて、今度は雨になるか、雪になるか。いずれにしても一荒れあるには違いない。
(秋に大内備前とこの本宮で会ったときは、よく晴れた空の下、安積野が鮮やかに見えたが)
と、成実は目を凝らした。空一面を覆い始めた雲の下、高倉城と荒井城が見える。この二城が今の防衛線だ。苗代田は荒井に隠れて見えないが、安子ヶ島の衆が城に入り、大内は片平に引き上げたという。
幸いにして、芦名や佐竹の衆が寄せ来るという話は今のところ聞こえてこなかった。
(――備前め、)
成実は口を噛んで唸った。
翌日の雨の中、その大内定綱から、本宮に使者がやってきた。
「このたびの手切れ、大内が本意ではござりませぬ」
と使者は言った。会津への言い訳のための手切れであるから、引き続き伊達家への帰順を取り次いでほしい、というのが大内定綱の言い分だった。
「取り次ぐこと、罷りならぬ」
成実は冷たくそれだけ言って席を立った。言葉を出そうとすると怒鳴りそうだったからだ。
よき士(さむらい)を死なせ手切れに及んだ上は、なんの話すことがあろうか。
しかし大内は懲りなかった。
追い返しても追い返しても使者が日参し、取次を乞うた。何度目かの使者は、驚いたことに、成実の領、玉井の者。しかも苗代田で腹を切った本内主水の親類であった。
「われらはもともと、二本松畠山の譜代。四本松の衆とも親しゅうございます」
と、かれは言った。
「それが今、伊達家の寄騎となったもの、そして牢人しているものがござります。一族それぞれ立場を異にするは常よくあることなれど、互いの妬み嫉みもあり、それはいさかい争いの種子。ゆえに伏して御願い奉ります。大内備前を御許しあらば、御領内の二本松四本松の譜代・牢人は、安堵して伊達に従いましょう」
(――ここでもか)
成実は黙然とその言葉を聞いた。
(どの家にもいろいろの立場の者がいる――)
即答は避けて使者を返したが、政宗近臣の高野壱岐からも、白石宗実を通して大内の帰順嘆願があった旨の報せが来ていた。成実が肯いさえすれば、大内兄弟の伊達家帰属はおおかた成ると思われた。

*         *

全ての交渉がまとまったのは、四月に入って間もなくであった。
片平親綱もともに伊達家に帰属すること、証人を出すことを条件に、大内定綱に与えられる所領は伊達郡の保原・懸田。定綱の再三の交渉により、当初の提示よりも多い所領が与えられることになった。
片倉景綱が政宗の判形と起請文を持って二本松までやってきたので、成実も添え状を書いた。大内・片平の兄弟は判形を受取り次第、芦名と手切れし、伊達家に帰属する手はずとなった。
四月五日の晩、大内定綱の使いが二本松に、明日の手切れを知らせてきたので、成実は景綱とともに、兵を連れて本宮城に入った。
定綱が本宮まで来ると聞いたからである。
本宮で定綱と対面し、起請文を交換したあとは、片平と呼応して安子ヶ島、ついで高玉に働くことになるだろう。
朝になり、本宮城内安達太良明神の境内で、成実と景綱は大内定綱に対面した。
小糠雨の中、去年の秋と同じ場所で小具足姿の定綱は、石畳に片膝をついて控えていた。手勢がその後ろにずらりと同様に控えている。
庫裏に入って板に座した定綱は、神妙な顔を成実に向けた。
「最後の最後でしくじりました。弟・片平助右衛門は参りませぬ」
話が違うぞ、と成実は床几の上から定綱を見下ろした。
「それがしの不徳の致すところ――」
と、頭を下げた定綱は、再度顔を上げ、
「されど、伊達があり、佐竹がある。会津があり、田村と相馬がある。儂は伊達を頼むことに決め申した」
ときっぱりと言った。以前の不遜さは、かれには不似合いなほどに影をひそめていた。
「また身を持ち替えはすまいな」
成実が厳しく問うと、安達太良明神に誓って、と定綱は起請文を差し出した。
景綱が引き換えに政宗の起請文を定綱に渡す。互いに起請文を改めたあと、定綱は
「今までの我らが非の数々、お詫びを申し上げる」
と深く一礼して姿勢を正した。
「実のところ、洞中で揉めなさると思うておりました。米沢のお屋形はあまりにお若い上に、ご先代のあの亡くなりよう」
成実が不快に思ったのを察したのだろう、定綱はそこで一度言葉を切った。
「お怒りなさいませぬよう。主の遠行は一大事、なにもお家に限ったことではないのです。田村しかり、芦名しかり。戦にこそなっておらぬが洞中はがたがたでござる。ところがひとり伊達のみ、乱れませんでしたな。後見の栖安斎どのが亡くなっても、です」
代替わりからこちら、さんざんにかき回した当人の言だが、怒り呆れを通り越していっそ清しさを成実は感じた。
「頼りになると思うたか」
成実が聞くと、定綱は、いや、と首を振った。
「面白いと思い申した」
声を張ってそう言った定綱が烏帽子を取ると、剃髪した頭が現れた。
その頭をつるりと撫でた定綱は、
「とりあえず今の覚悟はこれにて」
そう言うと以前と同じく、にたり、と笑った。成実も釣りこまれて、つい、笑った。
面白いのはこの男だ。

成実と景綱は、遠藤駿河を付き添わせて定綱を米沢の政宗へ御目見えに向かわせ、宮森の白石宗実とともに、安子ヶ島へ働いた。片平との連携が取れなくなったので、形ばかりのものとなった。
景綱は大森へ、成実も二本松へ戻った。宗実は石川弾正が相馬方に転じたとの報を聞いて、先に四本松に戻っていた。
成実は、実城の櫓から、ぐるりを見回した。この間の花腐しの雨ですっかり春の景色は去り、青々とした緑に山はつつまれていた。
安達、安積の無事を――と大内定綱は言ったが、大崎での敗軍は南筋の会津、西の相馬との手切れを引き起こした。
当分は無事どころか忙殺されそうだ、と成実は苦笑した。
狼煙や鉄砲の音に気をつけるように、と番の者たちに言いつけて、成実は櫓を下りた。
居室へ戻るさ、足元に最後の落ち椿が転がっていた。

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