2011年3月11日、東日本大震災。
東北地方太平洋沿岸部では、おおよそ30-40年周期でM7クラスの大地震が起こることが知られていました。
2011年の東日本大震災は、太平洋プレートと北米プレートが引き起こす海溝型地震でしたが、三陸から始まった破壊が南方へ数百キロ進み、甚大な被害をもたらしました。
過去にこのような大規模な津波地震は貞観津波が知られており、この知見をもとにした防災計画が立てられようとしていた矢先の2011年震災でした。
さて、当サイトで扱っている、伊達政宗の時代にも、似たような大きな津波地震――慶長三陸地震・慶長三陸津波があったことはあまり知られていないようです。私も記事は読んでいましたが、ほとんど意識していませんでした。
慶長16年10月28日(1611年12月2日)。政宗(45歳)は仙台に在国していました。
治家記録慶長16年11月30日条に、この津波の到達した場所を推定できる記載がある。海に出ている間に地震発生、津波に流され、舟ごと「千貫松」に流れついた記載。
流れついて舟を繋いだとされる、「千貫松」は脚注によると名取郡千貫村の山にある松林。
「千貫松」は千貫山(グリーンピア岩沼の裏山・標高約180m)山頂の松林、航行の目標であったという。山の南端、阿武隈川側はかなり急峻。山裾の松にでも流れついたのか。
「岩沼」の地名の由来の一つとして、
「宮城県地名考」に「伊達家の家臣、泉田安芸重光が、この地に築城して「鵜ヶ崎城」と称した。このお城回りの堀が「沼」になっていて、10の沼があった上に、このお城の一角と沼とを併せて「岩沼」と呼んだといわれている」
と紹介されている(岩沼市商工会)。
確かに岩沼市街はやや低地となっていることが地形図から読みとれる。慶長津波はこの低地を越え、少なくとも山裾の標高5mラインまでは到達したと思われる。
産業技術総合研究所 活断層・地震研究センターの年報「AFERC NEWS No.16」(2010.9)収載の「平安の人々が見た巨大津波を再現する――西暦869年貞観津波」に、貞観津波の浸水範囲シミュレーションが掲載されている(P9,図12、13)。縮尺の関係で細かい点まで読み取れないが、おおよそ標高10m以下の地域は浸水しているように読みとれる。
慶長三陸地震の地質学的記録については、十和田テフラ上の砂層として報告があるが、薄い層であるため、広い地域での対比を追っていくことは困難なもよう。(素人としてはなぜ薄いのかも気になる)
三陸大津波による遡上高の地域偏差には若林区霞目に津波到達の記載があり、若林区霞目の浪分神社にも貞観・慶長両津波の伝承がある。
東日本大震災に於いては、盛り土で造成された仙台東部道路が防潮堤の役割を果たし、霞目飛行場を含む東部道路よりも西側では比較的津波被害は軽微であった。しかし、霞目飛行場あたりまでは水がきている。↓クリックで写真。
治家記録の記載を信じるならば、慶長三陸地震に於いても、貞観地震同様、仙台湾においておおよそ標高5m以下は確実に、場所によっては標高10mの地域も浸水と考えてよいと思う。
亘理町史には慶長津波については、岩沼のことしか記載していないが、北海道南東岸からら南相馬に至る広い範囲で津波被害があった(気象庁)。
上で紹介した産業技術総合研究所のレポートにもそのことを示唆する砂層の記載があるが、広範囲の検出が難しく、どの砂層が当該のものか確定できないとの結論になっている。
地質学的には、貞観地震以前にも数回の津波イベントが観察され、400年-800年に一度の間隔で大津波が発生しているとのこと。
古跡を見てみると、便のいい平野部ではなく、丘陵部に集中していることに気が付く。
亘理に於いては小堤城跡はいうに及ばず、三十三間堂官衙遺跡、神宮寺など。江戸期以前の主街道である東街道も、江戸浜街道と比べるとかなり山側。
このあたり、軍事的政治的理由のほか、洪水・高潮や津波の影響も大きいのかもしれない。(近世以前は平野部の川は全て暴れ川)
今も亘理近辺の地形図を見ると海岸線から1km程度まで、畑作地が比較的多く、基本砂地であるためかと想像する。
おそらく慶長津波でも浸水したであろう霞目にほど近い若林に、政宗は晩年の居をかまえる。
政宗の生きた時代もやはり、地震の多い時代であった(刈田や蔵王の噴火まで起こる)。
津波の有無や規模は不明だが、
こんな中でよくも若林城取立を行ったな、という気がしてくる。
ただ、若林城は自然堤防の上で、霞目飛行場よりも、標高が高い(霞目飛行場=5m、若林城=10m)。ほど近い遠見塚古墳は古墳時代の遺跡だが、度重なる地震・津波にも関わらずよく残っている。
あるいは政宗は、ここまでは津波はこないとふみ、再開発の一端としたのかもしれぬ。
仙台市史(平成版)近世Ⅰによると、慶長三陸地震から30年後の正保年間には、津波被害地域における新田開発が始まっている。(それ以前に田畑があったかどうかは定かではない)
また、「仙台寺社巡り」の記す地元伝承によると、宮城野区岡田地区は「荒井付近まで達したという慶長16年(1611年)12月の地震による大津波では深刻な被害を受けたが,元和(1615~)から寛永年代(~1644)にかけて行われた仙台藩の新田開墾奨励によって再生した」とある。また、「元和年代に、吉田権六茂友という藩士がここで八百余石の禄を受けていたが、荒廃した土地の開墾を奨励して、更に七百余石の田地を開き、計千五百石の禄を領するようになった。続いて、寛永年代にかけても、岡田・新浜の開田が盛んに行われた」と(http://www.stks.city.sendai.jp/sgks/WebPages/miyaginoku/13/13-05-06.htm#rekisi)にある。
この頃はまだ慶長三陸地震経験者も存命していたはずだが、食糧増産の命題が優先されたのか、海側低湿地での新田開発及びそれにともなう新田村の取立が盛んに行われたのである。
巳刻過ぎ、御領内大地震、津波入る。御領内に於て1783人溺死し、牛馬85匹溺死す。
公、大神君へ初鱈御献上あり。本田上野介殿正純披露せらる。且つ今度、政宗領内津波入り、50人溺死するの由、言上せらる。又後藤少三郎申上るは、津波入るべき時節、政宗家士両人をして魚を求しむる所に、漁人舟を出す時、
「今日潮の色宜しからず、天気亦悪し、舟を出す間敷」
由申す。因て両人の内一人は、
「尤も」
と云て参らず、一人は
「主命を受て参らさるは、主を欺くなり」
と云て、漁人6-7人召具し、舟を出す。舟数十町程漕出るに、忽ち大浪起り来る。然れども舟は波上に浮て沈まず。漁人住所近辺の山へ着たり。即ち其山の松に舟を繋ぐ。千貫松と云う松なり。波退て後、舟は梢に掛れり。漁人里へ下れば、一宇も残らず流失す。前に参らずして留りたる家士其外漁人、何れも溺死す。
(中略)
其節、南部・津軽等も海辺の在家・人馬等3000余溺死すと云々。
此一段政事録を以て記す。千貫松と云は、一株の松に非ず。麓より峯上数千株一列に並立てり。終に山の名となる。名取郡にあり。逢隈河の水涯近ければ、海潮の余波、此河に入て泛濫し、麓の松に舟を繋ぐ事も有るべきか。伝て云う、往古此山上の杉に舟を繋たりと。今其老杉あり。
脚注)千貫松:現在の名取郡岩沼町千貫の地にある山嶺に点列している松株で、海上の舟行の目標となり、舟人はその存在は価千貫に当ると云ったので千貫松と称したというのである。
「政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す。溺死者五千人。世曰津浪云々」
※ wikipedia「津波」より。
1611年12月2日、サンフランシスコ二世号で越喜来まで北上したが、そこで一行は、陸上で男女が村を捨てて山へ逃げて行く異様な光景を望見した。
それは慶長16年10月28日の陸奥の大地震と大津波のことを指しており、政宗領の溺死者は五千人を数えた。(松田毅一著・慶長遣欧使節)
※ http://blogs.yahoo.co.jp/stomita2000/19622516.html
慶長16年10月28日大地震3度仕,其次に大波出來候而,山田浦は房ケ澤まで打參り候由,2の波は寺澤に打參り候,3の波は山田川橋の上まで打參り候由に御座候.織笠は禮堂まで打參り候.扠浦々に人死申事,鵜住居,大槌,横澤800,船越男女50人,山田浦20人,津輕石150人.大槌,津輕石の多數死せるは市日の爲めとあり