元和元年(1615)、大阪夏の陣に成実は出陣する。
この戦いで伊達勢の奮闘が伝えられているのは、片倉重綱の覚書が残されている、いわゆる「道明寺の戦い」である。
伊達家治家記録の記述はほぼこの重綱覚書及び各家に伝わる首帳に寄っているものと思われる。
合戦の詳しい経緯は、とりあえず他のサイトに譲り、ここでは夏の陣の間に伝えられる成実の逸話を紹介する。(「逸話」であって史実であるとは限りません。と、いうかそれはアヤシイやろ? というものも)
大阪の陣、道明寺の戦いの前に、白石宗貞の小旗持ちが、成実の小旗持ちを追い抜いた。
成実「そこもとの九曜紋は前に出すぎている。後に下がれ」
宗貞「戦陣でカッコつけてる場合か」
成実「今日の先陣は儂だ。聞き入れぬなら、殿に申しあげるほかない」
宗貞「あなたもご存知のとおり、我が白石家の旗は、宗実の代からよその旗の後になったことはない」
で、互いの兵士が刀に手をかけ、あわや、というところで、宗貞の重臣が
「こげなときにそんだらことしとる場合かや」
と双方を説得した。
政宗の旗本の松本若狭というものがいた。伊達勢が我先にと手柄をたてに向かうところを、この若狭は動こうとしない。そこで伊達成実が
「さっさと戦に参加して手柄たててこい!」
と励ました。
若狭が、
「いや、殿の下知を受けてませんから」
と遠慮するので
「あーもー、手柄たてたら文句ないって。俺が責任とるから行って来い!」
とさらに励ますと若狭はようやく動いた。
果たして若狭は手柄をたてて、政宗に褒められました。
(また後日加筆予定。写真提供:野崎さま。オンマウスで説明表示)
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