天正15年1月4日 伊達政宗書状

一昨日は、使者をして預り候つ。殊に(金偏に貝)共見物申し、中々満足せしめ候。年の始に、取分、然るべき事に候。さてさて、渋川に於いて刀など御無沙汰のよし、承り候間、先だって惜預候つ刀、之を進じ候。ならびに、散々ながら小袖一重指し添え申し候。心走りばかりとお察しあるべく候。随て、南方筋の義、聞し召し、御満足御同意なさるべく候。何篇にも、今春の手扱い、塩味過べからずと存じ候。万々、彼の口上にこれあるべく候。恐々謹言。

追啓 年始重ねて申し承るべく候。其の砌、万吉々、以上。

(天正15年カ※)正月4日       政宗 花押

五郎殿

※ 武水は天正14年じゃないかなぁと思います。詳細はスクロール。

適当意訳  

一昨日は使者をいただいて、特に(金偏に貝)を見物しました。満足してます。年の始めに取分、ふさわしいことですね。さて、渋川で刀などがだめになったと聞きましたので、先だって惜しみながら預けた刀を差し上げます。それからばらばらにではありますけれど、小袖一重を差し添えます。気持ちばかりとお察しください。それと、南方筋の義は、お聞きになって、ご満足・ご同意のことと思います。何分にも今春の手扱いは、相談してしすぎることはありません。詳しくは使者の口上で。恐々謹言。

追伸。年始をまた改めてお受けすると思います。そのときにいろいろ。

ちょっとたわごと

引用元の「伊達政宗文書・補遺(八)」(市史せんだいvol.24)では、政宗の花押が第二型(天正15年2月16日~同8月24日)に似るとして、天正15年に比定しています。

ところで、この書状には「渋川」の地名が出ています。それでTwitter上で、ハルさんや陣さんが、成実が渋川に在陣している天正14年ではないか、と話してらしたのです。

そこで、ちょっと手元の資料と書状内容を照合しました。

天正15年正月は、「伊達天正日記」が残っています。日記には、毎日の政宗の動向と、誰がきたのなんのと細かく載っているのですが、1月2日条に成実から政宗に使者が来たことは記載がありませんし、1月4日条に政宗がこの手紙を書いた記載もありません。
伊達家において「南方筋の義」というのは仙道の情勢を差しますが、天正15年に仙道方面の重要な情勢は、私には思い当りません。

天正14年を考えます。
「渋川に於いて刀など御無沙汰のよし」のくだりは、この書状から遠くない過去に成実が渋川にいたことを示唆します。渋川は、八丁目と二本松のほぼ中間、伊達と畠山の境目の城でした。成実は天正13年11月から翌14年7月までの二本松戦まで、渋川を拠点に活動しています。
「刀など御無沙汰」の意訳は自信がありませんが、刀になにか不都合があったニュアンスと思います。渋川は天正13年12月に失火で焼けていますので、その際の焼損と解釈できるかと思います。
天正14年1月1日には渋川合戦があり、終戦後成実は取った首を政宗に送っています。「一昨日」――1月2日――の使者はその使者と考えるとつじつまが合います。
「南方の義」「今春の手扱い」ですが、天正14年春に、二本松の一部の重臣が伊達方に寝返りますが、そのことを指していると考えることができます。

というわけで、私もハルさんや陣さんと同じく、天正14年じゃないかなぁと思います。

付記
(金偏に貝)の字ですが、検索すると「バリウム」と出てきました。音にあてたな……。よく似た字の(金偏に見)は、小さい矛のことだそうです。

「成実と書簡」へ戻る

Page Top