宮城県角田市角田字牛舘。別名臥牛城。湿地に囲まれた丘の上にある。
永禄年間、田手氏の築城。阿武隈川水運の港としても栄えた。
天正19年から出奔するまでの成実の居城。といっても、この時期も成実は伏見へ朝鮮へと忙しい。成実出奔後、政宗が接収。反対する家臣らと合戦になり、三十余人が討ち死にしたという。慶長7年石川昭光が入り、以後幕末まで続く。
現在、城跡は高校・中学となっているが、かつての城門が長泉寺に移築されている。
文禄の役より帰国したあと、成実は伏見に住まいした(世臣家譜)。一説に、秀吉より屋敷を賜ったというが、伏見城下図には見つけられない。そのかわり、伊達家の屋敷は三つ見られる。北から「仙台中納言下屋敷」「仙台中納言正宗」「伊達陸奥守」と記されている。一番北の下屋敷跡は、今も「正宗」という地名になって残っている。
政宗は既に聚楽第に屋敷を拝領していたが、その完成を待たぬ文禄2年には伏見屋敷を拝領している。文禄3-4年の年賀は聚楽屋敷で行っているので、政宗の京における本拠は聚楽屋敷のほうであった。
成実正室・亘理氏は文禄4年6月に伏見で没しているので、成実もこの時期には既に伏見にいたと考えられる。
文禄4年8月、秀次事件のあと、秀吉は伊達家重臣及びその妻子も伏見に住むことを指示。聚楽第も破却され、政宗も伏見に移る。この年の秋には重臣一同の妻子が上洛しているが、成実の場合は例外的に先に妻を上洛させていたようである。
地名といえば、上京区の大宮下長者町上がる付近(聚楽第城下)に「藤五郎町」が存在するが、こちらは長谷川藤五郎秀一の屋敷跡。
秀次事件の前までは、こちらが豊臣氏の根拠地。政宗の屋敷もこちらにもあった。文禄の役からの帰国と秀次事件まではやや期間があるので、こちらの城下にも居住していた時期があると考えるのが自然であろう。
京都歴史地理同考会・郡邦辰氏の、「聚楽城・上杉景勝邸の位置の検討によると政宗の聚楽屋敷は堀川一条の松之下町である可能性が高いという。
文禄の役に成実も参加し、はるか朝鮮まで長旅。寄ったところは数多いと思うが、中でも名護屋には文禄元年(1592)4月初旬から翌年2月渡海するまで滞在したと思われる。
大坂屋敷もあったので、行ったことぐらいはあるだらう……。というか、とりあえず覚書。
願泉寺:大阪市浪速区大国二丁目2-27。大坂の政宗邸及び茶室が寄進されて国宝に指定されていたが、戦災で焼失。写真はこちらで発見