大森城主時代

大森城

 福島県福島市大森。現在、城山公園になっている。福島盆地南西部の山城。かつてはこの山を「信夫森」といったらしい。
成実は誕生時から天正14年の二本松移封まで、ここにいた。
文治年間に佐藤庄司の一族(源義経の臣・佐藤継信・忠信の一族)が城を構えたようだ。南北朝期まではその子孫が居住しており、陸奥国信夫郡の府として栄えた。
その後、天文年間に伊達氏が入り、伊達実元が城主となる。成実は実元の子である。
大森は当時、仙道(奥州街道)と羽州街道・会津街道との分岐点になっており、交通の要衝であった。信夫郡・伊達郡一の大きな街であったという。
城は本丸、北館(二の丸にあたる)、南館(姫御殿・出丸にあたる)からなる。麓からは南御手(南大手の意)から南館につながる道と、北御手(北大手)から北館につながる道がある。比較的緩やかなのは、南からの道であるが、敵がここを登ってくるときには、本丸と南館から挟撃できるようになっているのである。
城の周りには土居がめぐらされ、土居の内側が侍屋敷、外側が町屋になる。内側には「馬場」「椿館」「一の構」などの地名が残る。また、本丸の下には空堀が現存する。
大森城主当時の実元・成実父子の所領は「信夫郡31郷・名取郡2郷」。また、片倉小十郎が大森を賜る際の知行判物に「須川の南、近年成実抱え置き候ところ」と表現されるところから、おおよそ信夫郡に関しては南半分と推測される。

椿館・春日館

 椿館は福島県福島市渡利。弁天山にある。大森、杉目(福島)の対岸で、渡利の渡しを見下ろす。大森城の出城、もしくは街道の監視所のような役割を果たしていたらしい。
「安寿と厨子王」の父・岩城判官が住んでいたという伝説があるが、福島盆地は岩城でなく岩代でないかい?
「日本城郭大系」や「仙道・会津諸城の研究」には「伊達成実の居城」と紹介されている。大森とこことを行き来していたのだろうか?
ただ、大森城の麓にも「椿館」という地名がある。大森城は山城なので、麓にも城主の居館があったと考えられる。同名なので混同された可能性もあるかも。
一方、「信達二郡村誌」の渡利村の項には古跡として、椿館のほか、春日館の記載がある。椿館に伊達成実と関連すると思われる記載はなく、春日館に「亘理安房守」の居城であったという伝承が載る。

渋川城(田子屋館・田小屋館)

福島県安達郡安達町渋川。二本松攻略期に成実が詰めていた前線基地。
もともと二本松城の支城であったが、畠山義継の死亡とともに放棄され、成実が占拠。以後、八丁目の支城として成実の持城となる。

「田子屋館 一名渋川館
畠山義継の臣遊佐佐藤右衛門父子の居城にして、天正13年5月5日伊達政宗に降る。後伊達安房守成実此処に居住せり。この土地今に至るも端午の節句に幟を立てざるは降伏の日に当たればなりという」(安達郡誌)

「渋川 田小屋館 遊佐新左衛門居る。古館弁に遊佐藤左衛門嫡子新左衛門云々。按に旧記には遊佐丹波守同下総守父子住せし也とあり。遊佐が一族殊に多ければ決しがたし。・・・遊佐丹波守は畠山の臣なれども梅王丸にそむき箕輪館にて残らず誅せられし後は伊達藤五郎入れ替わりて住せし也」(相生集巻八・情報提供:野崎様)

八丁目城

福島市松川。成実の父・実元の隠居城。八丁目は元は水原川沿いに発達した町――宿地千軒であったが、稙宗の城地取立てによって、町ごと城下へ移転した。
稙宗期は堀越能登の居城であったらしい。

大内西山館

丸森町大内伊手字北伊手。輝宗期の伊達-相馬抗争時の成実陣地と伝わる。隣の明子山城は政宗の陣とか。

仙台領古城書立之覚
西山城 東西六十六間、南北六十間 三千九百六十坪
右此城ハ右(伊達氏)之(相馬)長門守ト取合之時分伊達安房成実陣取申候仮屋之跡ニ御座候。右之成実伊達稙宗四男伊東実元也。当代伊達千代松曽祖父ニ御座候
安永風土記御用書出
冥加山ノ内西山館 高六丈余 南北五十四間余東西二十間余
先年相馬御取合之節亘理御地頭安房様御先祖伊達安房様成実御陣場之由申伝候。但二箇所共当時野山ニ罷成申候事

以上、 宮城県丸森町教育委員会他編「丸森町の城と館」より(情報提供:野崎様)

陽林寺

福島市小田。亘理に移るまでの伊達(実元)家の菩提寺。実元・稙宗の墓がある。稙宗の墓は分骨したもの。座禅石・化け物石などの伝説を残す。
(写真提供:野崎準さま 左から 陽林寺山門・伊達稙宗墓・伊達実元墓)

位作山陽林寺山門 陽林寺・伊達稙宗の墓 陽林寺・伊達実元の墓

伊達成実の住まいと城

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