大内備前伊達被留事

されば其頃、奥州にて佐竹・白川・須賀川・石川仙道無残一和したまひ、藤原朝臣伊達十七代の政宗と戦ひ給ふ。軍の始めは何の子細より起りけるぞと申に、政宗十七歳天正十一年癸未十月、父の輝宗四十歳にて伊達の家を譲り、政宗米沢の在城へ直り給ふ。然るに奥州仙道四本松の内、小浜の城主大内備前定綱と云る者あり。彼者その首尾ありて、古備前代より伊達の元祖へ旗下となる。其いわれは、中野常陸悪心に依て也。植宗・晴宗父子の間、不慮なるはかりことに依て父子の恩愛思の外断絶して、已に伊達の家滅もあやうし。其節備前も伊達を相捨、近所なればとて田村清顕へ頼み、二心なく一味の所に、一年田村と岩城と戦の砌り、備前弟片平助石ェ門郎等と清顕一門の田村右馬頭郎等、野陣に於て喧嘩を仕出す。右馬頭者手を越けるが、大内死罪を望み頻りに訴訟をなすと云ども、清顕承引し給はず。故に大内兄弟田村を背き佐竹会津へ計略して、翌年より大内先駈となり、右両大将田村へ数年戦ひ給ふ。かくて政宗は清顕の聟にてましませば、幼少なりしが此事遺恨に思はれけれども、未だ父輝宗の世なりければ憤も相叶はず、延慮にておはします。されば政宗は、若年より世にすぐれ賢き大将ならんと、家の者ども思ひけるにや、家督の砌り誠に隣国の大進衆、如何思はれけん、方々より祝儀の使者尋常ならず近国の領主縁を求め、内通其外書簡多し。之に依て大内備前定綱も末を大事とや思けん、此時に至て御祝儀なり迚参りけり。清顕への子細彼是にて大内所へ、
「其身は代々伊達を守りける由、今亦中絶謂なし、今度幸なれば其儘相詰旗下になれ」
と宣ふ。定綱、
「古備前代より、御家を守り奉る事仰の旨なり、然りと云ども、一年中野常陸逆心により、御先祖御父子の恩愛あやうき刻、近所といひ田村へ手寄りければ、少分なる子細によりて、清顕御心にさはり、夫れにより佐竹・会津へ申より、両国の御情にて本領四本松に恙なし、然るに、今より御奉公とのこと、本来望の所なればいかでか背き奉るべき、さらんに於ては屋敷を下され、来春にもなりなは妻子共に取移し、御心打解おはしまして奉公せん」
と云。是に付て屋敷を賜はり。同十月より明十二年の正月まで、米沢に相詰ける事。

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