大内に暇給事

同正月政宗十八歳の年、大内申けるは、
「今程雪深して屋敷の普請もなりかねければ、此隙に御暇給はり、四本松へ帰り支度をなして、妻子と共に引具せん」
と申することを、政宗聞給ひ、
「其身より思ひよりて参りける上、争で怪むべき」
とて、暇を出し本領四本松へ返し給へぼ、雪も消弥生の末になりけれども、参ることはさて置きぬ。音信とてもなかりけり。故に伊達の臣下遠藤山城、大内に諌をなすと雖も、佐竹・会津へ引合ければ、参るべきこと思ひもよらず。是に依て、政宗即時に押寄退治せんと評議ありて、已に打立けれども、近年佐竹・会津・岩城・石川・白川・須賀川、各伊達へ和睦の上、万事終て静謐なりしに、今又佐竹・会津・大内に引合ひ、楯突といふも政宗未だ廿にもなり給はで、大内を退治とあることならば、老巧の佐竹義重を始め、近国の大進衆敵となり玉ふべきことを、輝宗流石笑止に思ひ給ひ、政宗へ異見有て人数を入、宮川一毛・五十嵐芦舟と云両使を以て、大内所へ輝宗より宣ひけるは、
「政宗田村へ首尾一篇の憤りなれば、伊達へ身を打任せ、さて事を無事に候はゞ、争か身代悪かるべし」
と宣ふ。大内、
「仰は有り難けれども、一旦背き奉る上は、滅亡を覚悟なり」
と申す。重ねて又原田休雪・片倉意休を遣はし、
「気遣の旨十分也、さらば人質にて事をすまし、政宗の憤りを休むべし」
と宣ふ。是又叶ふまじきと申払ひ、其上備前親類披官に、大内長門と云ひける者、日頃は米沢へも数度使に差上父子ともに被知召者也、其頃法体して我斎となのる。彼者両使に向て、
「旁何と進め給ふとも備前は承引あるまじきに、入ざることを宣ふものかな、縦ひ承引なきとても何とし給ひ侯べき、伊達の軍なりとも、別に替りたることよも候べきか」
と申す。両使是に腹立して 、
「其方米沢へ被為召上り給ふべきやと、然らざれば四本松を退治し給ふべき、如何様にも末にはみべきぞ」
と申けれども、其后は兎角を構はざるゆへ、両使進るに及ばず。休雪・意休帰参して其旨を申ければ、
「政宗是非大内を退治して、首を軍門に可見」
と宣へども、子細有て人数を出し給ふこと延引し給ふ。去れば、政宗伊達臣下、原田左馬介宗長・片倉小十郎景綱を召て宣ふことは、
「右に会津より使者を以ての理りにも、大内備前於免許は本望の至りなり、米沢へも可引越、会津にて全構はあるまじきとて、今又大内楯を突こと、悉皆会津よりの底意なり。如此の手たて、隣国までの其響き遺恨の次第なり、去程に会津へ手切をなして、軍合戦にも取立んとは思ふ、何方も切所にて思ひの儘に相叶はず。若や彼地へ武略を廻し、一味をなしける者あらば、軍に取立此意趣届度」
と宣ふ。左馬介、
「某与力の会津牢人平田太郎右衛門と申者差遣はし拵へ見申べきか」
と申す。政宗、
「其者の底意は如何」
と尋給ふ。
「委しくは存じ侯らはねども、常は賢く侯程に、御奉公に二心はよも有るまじきか」
と申す。さらばとて為越給へぼ、会津の北方に柴野弾正と云けん者、忠にせんとて其外弾正一味の輩共一両人も語らひ、政宗馬を出されなば手切をせんと約束なり。是に依て、同十三年乙酉五月二日に、左馬介通し給ふに、申倉越と云難所を打越へ、弾正所へ参りければ、城をも持ず屋敷構に居ける程に、左馬介遠慮なれども、少分ながら流石に人数を相具し、空しく帰らんことを如何とや思ひけん、火の手を挙て手切なれば、今津衆以ての外取みだし、味方は方々助け来りけれども、か様なるは会津中心替り侯べきとて、我は人さて人は我と相互ひの疑心にて、焦燥の処へ、武略の使平田太郎右衛門忽ちに心替りして、会津の謀叛は柴田弾正一人、伊達よりは原田左馬介無勢にて只一頭なりと、敵陣へ欠入告げける程に、敵軍是に力を得て、一戦を待かけければ、何にかはよかるべき、思の外なる敗北にて、与力家中悉く討死なれば、左馬介弾正を妻子ともに漸く引取る。されば政宗、同三日に会津より田舎道六十里北、扨米沢よりも同十里なる、会津領の境檜原と云処へ馬を出されければ、即時に檜原は手に入けれども、今度は先会津へ初の手切なれば、密のため米沢の軍兵迄にて出給ふに、左馬介敗軍なりと聞き、五月五日に惣軍を槍原へ参れと触給ひ、諸勢参るを待給へぼ、其間に会津の人数は大塩へ楯籠り、城は堅固に相抱へけり。伊達勢も同八日に、大塩の上の山まで働きけれども、山中にて道一筋なれば、備を立べき地形なし。大山隔て後陣は檜原を引離れざれば、合戦には及ばず、近々と働き引上、先小身者をば返し給ひて、御身は檜原におはします事。

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