青木修理忠節事

同七月、成実米沢に使者を以て申けるは、
「今度猪苗代弾正父子の問と罷成、申合の忠節、存の外なる違変、某式迄本意なき事、次に会津へ手切の無首尾彼是なれば、先此間に仙道四本松へ馬を出され、大内備前定網を誅せられ、其れより仙道中を押廻し給はゞ、其末々は御手立も有べし、此義承引し給ふならば、定綱家中をこしらへ見侯はんや」
と申ければ、
「今度万無手際にて空しく引込侯こと、是のみ心にかゝり侯、去ばとて大内家来の忠節をこしらひ侯らはんこと悦の到也、左有んに於ては手立せよ」
、と宣ふ。去程に成実郎等大内蔵人・石井源四郎と云二人どもに、本は四本松普代なりしを召使こと幸ひなれば、彼四人を遥はし、四本松の内、苅松田城主大内家来青木修理を語らひければ、忠節せんと申す。是に依て勧賞望の処判形調差遣はす。されば大内も田村を背ひて気遣をなし、郎等共より人質を取置けるが、亦伊達を背き、尚も野心を挿み家中の上下無嫌一同に取置けり。故に修理も新太郎とて、生年十六歳の弟、其後伊達へ参り政宗目を懸取立玉ふ、近頃青木掃部事なく彼新太郎に五歳の男子を差添小浜へ渡す。然るに修理逆心ならば、二人の人質死罪にならん、さも有るときは立身するとも何の益あらん、唯所詮は如何にもして、証人替をなさんと思ひ、或とき修理小浜へ行て、家老三人の子共に、中沢九郎四郎・大内新八郎・大河内次郎吉と云若者どもに語りけるは、
「今程在所苅松田に、雉子の子沢山にて、草追鳥の折柄なり、新太郎は不居ども旁来り、追鳥して慰みせよ」
と云ければ、実もと思けん、頃は八月五日の日、三人共に来て翌日六日に、追鳥して雅子十四五の勝負也。其夜に料理して、夜半過まで乱酒をなして、其とき修理云ふ、
「旁数盃の上尚過酒せんこと危し、只大小を抜て酒を盛」
と申す。いや苦しからずと云けれども、修理子細を含み、面白く云ひあしらひ、皆奪取、
「今より心やすく、何程も酒盛」
とて引取けるに、是を誠と心得、大酒大狂常ならずして、前後も知らず酔臥けり。其時修理郎等共十四人、我身どもに甲胃を鎧ひ、七日の明方に三人の枕元へ立寄、
「某定綱へ恨の筋侯て伊達へ忠を申なり、旁如存知新太郎と五歳の子どもを小浜に差置、其方ども三人を頼み証人を佗せんが為なり、扨定綱も我に無念はましますとも、家老三人迄の子ども衆をいかでか打捨て給ふべき、命に気遣ひ侯はで従ふべし」
、と云ければ、三人の若者ども其にて俄かに行当り、命はをしからしとは思ひけれども、大小をば奪はれ力及ばず、亦さすがに捨てがたきは命なれば、是非なくして三人共に、おめおめと錠をぞ打れける。去程に修理証人のことほ心安、其日に小浜へ向て火の手を挙げ、手切して成実所へ注進なり。急ぎ此旨米沢へうかゞひければ、自身出給ふ迄では遅きとて、小梁川泥蟻・白石若狭・浜田伊豆・原田左馬介四頭、給し玉ふを成実同心にて、苅松田近所飯野と云処に在陣させ、成実は立根山と云在所に打越陣を備へ、政宗も同八月十二日に信夫の福島へ馬を出さる。故に修理に成実、便を添へて差上げれば召出し、忠節奇特の由宣ひ、長谷部国重にて金髪斗附の刀を給はる。然る後、四本松を絵にして上よと宣ひ、絵師を付られ、絵図きはまり差上げるを見玉ひ、苅松田近所より働くべしとて、小手郡川股と云処へ陣を移され、働く前に清抵へ薇ケ平と云処にて、縁組の以来九年目に始めて対面し給ひ、同二十三日には小手森へ働くべしと、清顕へ宣ひけれども、大雨なれば甘四日に働き給ふ。かゝりける処に、小浜へ助入ける会津・仙道・二本松の加勢、小手森の近所へ助け来る。扨て小手森へは大内備前自身籠て、城内多勢にみえけれども、味方の惣軍押詰働くといへども敵一騎一人も出合ず、偖又味方も仕掛べき術もなく、其目先引玉へば、敵人数を出す後陣へ一戦持掛けれは、御方の軍兵取て返し、合戦に取組かゝりけるに、会津・二本松の加勢、城内よりの申合に侯や、南口よりの戦ひなりしが、助の中にも二本松衆は先陣たり。故に田村の勢は東より働き、伊達の人数は北より働く。尓りと雖も、其間に大山隔て田村の勢は合戦にも出合ず、却て伊達の軍兵の除口なりしを、政宗腰なる采幣を取て、旗本と不断鉄砲五六百にて、自身東の山副より押切る様に、横向にかゝり給へば、敵悉く敗北して取手へ押込れ、敵二百六十二人が頸を取らせ給ふ。多勢をも討せ給べきを、敵小口へは入ずして、城の南へ逃散けるを襲ひければ、二本松衆と合戦未だ巳の時なるに、味方押切らるべきを見合給ひ、即ち引取給ふ。大内も其夜に小浜へ帰る。味方も其夜は五里程引上野陣をし給ふ。若や夜かけも如何と宣ひ、辻々芝見を出しけれども恙なし。明る二十五日にも、押詰働き給へば、敵出合すして、会津より加勢助け来たりけれども、中久喜という山に備へ、下へは侵さず、城内へ通路はありとみへけれども、人数としては入ざるより、其日も何事なく引上、敵地へ押寄野陣なし玉ふ。尓りと雖も、御方の田村衆は、大山隔ければいまだ出合ざる処なり。翌二十六日にも働き給へと亦構はず。故に城の体を見べきため、鉄砲をかけ給ひては如何有んと片倉景綱申しければ、尓るべしとて取手へ向て馭を打ども、城中堅固に抱ければ近く押詰、今度も又野陣をかけ給ふ。かゝりけるに、城の南に当りて竹屋敷の有ける、
「明日成実陣場移し、城内の通路を留る程ならば、必持兼侯らはん、成実陣を移しなば惣軍も相語られ、如何が有べきぞ」
申ければ、政宗
「竹屋敷へ移りなば、敵の加勢打下り妨ぐべしと、其ときは城中より取出、両口の合戦は如何あらん」
と宣ふ。成実申けるは、
「たとひ両口にてもあれ、陣場を移しければ、田村衆に出合けること是第一の所也、巳に成実陣場へ斬て出る程ならば、其ときは田村衆と成実に打任せ給はるべし、其外脇に備へたる加勢を一宇助けるならば、其人数は味方の惣軍勢、打下妨けゝるとも地形切所なれば、合戦ありともよも心易には侯まじ、夫をいかにと申すに、一昨日も取手へ自身押込せ玉ふときも、二本松衆の戦是非強答所なれども、悪所を気遣ひ引取ける」
と申ければ、原田休雪「陣場を移し侯事、返すくも謹むべき御合戦も大事なれば、只日数を以て後には如何様にも」と申。何れも休雪申分理なりとぞ同じける、亦移させ玉ひて好るべしと申す者も侯へども、其日は兎角差別なく引上られ侯事。

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