同二、三月より、或遊山或何ぞに寄ず、ややもすれば「来る春は、何としても下り難し、在府の慰も是迄ならん」と宣ひけるが、程なく卯月になりければ、「其月廿日に立給ふべき」と宣ふ。かかりけるに、政宗常々郭公の初春を望み給ひ、いつも来る年の夏毎に郭公参りたりと聞給ひば、其方此方へ人を付、只今音信ると申しければ即聞き給ひ、障子を明け、目出度いとて悦び給ふ。去程に其の夏も「旅は万づ懶きに、如何にもして国本にて、責ては一声も聞かん」とて、爰彼の山々へ行給ふと云へども、未だ音信ざれば、余りのことにや立給へる宵十九日にも仙台城廻りの林へ出て、恋路の山今廟所の場にて弁当をつかひ給ふ。「扨も此山は下は川、仙台・若林目の下にて、海上迄もみへ渡り、景成ことは又よにもあらじ。明日予が死するとも、二世の屋敷は是なるらん。忠宗へも其旨必ず心えよ」と宣ひ、一首連ねんとのことにて、
鳴ずとも何か恨みん郭公時も未来の夕暮の空
と詠じ、日暮に帰り給ひ、翌日廿日の明方に、若林を立給ふ。朝の認めは、兼ねてのごとく岩沼の筈にて、海道を通り給へば、何方よりかは、郭公来て路地の柳に羽を休め、大勢の供なれども少しも是を物ともせず、如何にも木伝乗物立けるを見下ろし、ひたもの音信、其より乗り物通りけれども、鳴きながら十四五間程先立一町斗附、道の東へ飛去ぬ。近頃望給へる郭公、目近く音信ければ、門出目出度とて、供の諸人悦ぶことをををかたならず。去れば、政宗岩沼の城へ入て、目近き者どもに、「今日の郭公は何れも聞たるや、我七十なれども、初声を聞だに珍敷に、況や乗物の内より、鳥の姿を目近うみて、十四五間先立つことついに覚わざる義也、今度江戸への門出には、仕合ならん、但又不仕合の瑞相か」との宣て、認め過に岩沼を立て、其夜は刈田の白石、片倉小十郎居城へ着給ひ、草臥しとて認過に、軈て寝給ふ。翌朝は気嫌能、酒の前に小十郎孫名代のため養子に候三之助目見えを申す。其後又酒半に右の三之助寄馬に畏るを、日頃寵愛し給ふ、南次郞吉、三之助を見て「冥加の為御盃を被下如何」と申す。少しも耳入給はて、色々咄ともなり、ややひさしくあって亦其旨伺ひければ、「重ねては左様に不申物也、汝共に心を付られう我には非ず、盃疾に遣はす筈なれども、態と控える処あり。其子細を如何と云ふに、小十郎男子を持たず、孫を子に取立、誠に不便を如かざること不庸常、勿論家来の者も、手の上にのせ馳走せん事疑いなく、未だ五六歳なれば、僻ことには非れども、以前目見の刻、一円あきれたる体なり。小十郎も日来の不便を、今亦引替俄かに難ならん。尓るに、其子と呼て盃を呑せんこと、忰なれば物事小十郎さこそ気遣ひ候らはん、扨其色を脇よりみては見苦しく、小十郎には不似合杯云者どもも有べし。其れならば、仮初めながら、小十郎ため吉事には非ずして、却て皆悪事なり」と宣ひ盃をば給わずして、立給ふとき、三之助を乗物の前へ召て、差給へる小脇を、自身差し為し給ひ、「小十郎は果報者なり、ヶ程に能子を迚も能者に預て取飼せよ」と宣ひ、浅ざることどもなれば、諸人感じ奉り、小十郎も過分がり声を立て落涙なり。扨物毎吉凶無ことにや、常々仮初、鷹野にも情深く御坐せば供の者勇み悦ぶこと斜めならず。尓るに、其日若林を立給ふに供の者何とやしたるらん、心勇まず江戸への供といへども勇々敷心地少しもなく、我人ともに其日の暮には、面々我宿々へ帰と斗りの思ひにて、扨も不審さの余りに、白石にて相互の心を尋ねければ、何れも心中同意なるは、ヶ様有べき瑞相にて、江戸へ著給ひ、治定一両月をも経ずして、死骸へ附いて下りけるこそ、不思議なれ。
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