二本松義継懇望

  去程に、政宗十九歳の同き九月二十六日の午の刻に小浜の城へ移り給ふ。かゝりけるに二本松義継、実元を頼み、代々伊達を守り身代堅固に保ちけれども、近年は佐竹・会津より田村への戦に、清顕へ恨みの子細侯ひて、右の両大将は一和致し度々同陣たりと雖ども、伊達へは跡の御首尾を忘れず、一年輝宗公相馬御陣のときにも、両度共御陣へ参り、御奉公に及びけり。加様のことともを思召出され、其賞に此度身代相立られ候ほゞ有かたく侯べきと申す。実元病気にて小浜へ参ること相叶はず其旨輝宗へ申、輝宗より政宗へ宣ひければ、
「相馬陣の品々をも委く覚えて候、さらんにをひては、今度大内退治に大内抱の小手森へ働きけるに、南口の合戦成りを敵の一口は義継先陣たり、亦同抱大波の内へ働くときも、二本松より加勢つかはし、彼要害楯籠り人数を出だし、合戦に及ぶことは大内同前の大敵なれば、此上二本松へ働き、相互の勝負次第に」
と宣ふ。)
然りと雖ども、様々懇望殊更父の諌め彼是なれば是非なくして、
「さらば二本松の内南は杉田、北は結川を切に明かに渡され、中五ケ村にて身代立置、子息を人質に渡し給ふべし」
と宣ふ。義継
「南なりとも北にても、一方を召上げ給ひ何れなりとも差置れ、御恩賞に相受度」
との給へども、政宗用ひ給はず。重て
「其義ならば、某召使ける郎等共、只今迄充行本地の分を、御相違なく直ちに召仕下され侯はんや、ケ程に首をなげうち訴訟に及びけるも、残間敷を主と仰ぎ二つなき命を捧げんと志重代の者ども、乞食を致迷者と罷成ては所詮なし、如何様にも一方をば御塩味の処頼入る」
と宣へども、是又承引し給はず。其とき義継、此上は是非なしとて、同十月六日の日、輝宗御坐四本の松の郡宮森といふ処へ不図掛入、降参のため馳参りたりとて御坐故、輝宗其夜に小浜の城の台所へ御坐て、何も家老共を召集め、義継降参の品々を政宗へ内通し玉ふ。かくて輝宗彼使を成実仕れと宣ふ。成実其年十八歳なれば、流石大事の使若輩にて如何なりと申しければ、右より親実元扱ひの首尾に使とほ罷なり万差引をば輝宗なさんと宣ふ程に、辞し申には及ざるなり。去れば義継、成実に語り給ふは、
「右の題目どもにて実元頼み、様様懇望に及ぶと雖も、今度御敵と罷成ては、御前相叶はず御誡僻ことならず、去程に御家へ翔入、兎も角も悉皆我身を輝宗公と御辺へ打任せ奉り、降参の上にも御承引ましまさゞるときは、一二もなく自害をなさんと覚悟を究め、是迄罷り向て侯」
との宣ふ。其旨政宗へ申ければ、
「第一父の中立中ん就、降参の上和利なし、右の題目一宇にては余国の聞へも如何」
と宣ひ、生年十二歳の国王殿といふ子息を渡し給ふ、一ケ条にて相済けり。故に和睦の目見有度とて、義継十月七日の未の刻に宮森より小浜の成実陣屋へ御坐、其旨政宗へ申ければ、対面あるべしと宣ふ。尓りと雖も、兎角して時刻移り蝋燭にて面会し玉ひ、其れより宮森へ帰り、明る八日の卯の刻に使者を給はり、
「今度思ひの儘る身代ひとへに輝宗公と御辺の故なりとて、輝宗へ此御礼を申上、急ぎ居城へ罷り帰り、申合せの子供差上侯はん、御辺は是へ出向ひ御前頼入」
と宣ふ。是に依て、宮森へ参り輝宗の前へ出ければ、今度二本松迄手に入給ひ目出度由にて、伊達上野守政景を始其外伊達の家老共小浜より参り、各輝宗前へ相詰けり。其にて義継口の趣申しければ、時刻を移さず御坐、供侍には、高林主膳・鹿子田和泉・大槻中務、此三人は坐敷までの供なり。扨て上野と成実は広間へ出迎ひければ、義継表の庭より内へ入給ふ処にて、義継の傍へ鹿子田和泉立より何ごとやらん耳付に申ければ、二三度打うなづき、其より上下四人坐敷へなをり玉ふ。輝宗の次には上野と成実を差置給ふ。されば先にてケ様に有べき瑞相やらん。相互に何んの物語りもし給はず立給ふに、輝宗送りに出玉ひ、広間の中にて御礼のとき、左右は皆此方の者たるが故に、思ひの旨も叶はずとみへ、陣屋のことではあり表の庭の如何にも詰り、両方は竹垣にて縦は三人とも肩並ぶること成らざる程の白洲まで送られける。上野・成実は輝宗広間へ帰り給ひて後出で侯はんと、内より見送りければ、義継手をつき、
「御取持深く過分の処に、某を生害有べき由承て侯」
といふも果さず、左の手にて小袖の胸を捕ひ、右にて脇差をぬき玉へば、供の者ども七八人、上野・成実惣じて伊達の者を押へ隔んため、輝宗の後へまわり引立出でられけれども、細道なれば脇より翔出、立切べきてだてもなく、門を立よと口々に呼びけれども、急ぎ出で給へば、是も不払歩立となつて輝宗を引立、二本松に赴く。御方の者ども是非なく跡を慕ふ。扨此の乱を小浜に於て聞ける者は、鎧堅めて早翔なり。文宮森より出ける者は、其隙もなく何にも皆袴かけ也。然りと雖も、此様体を見奉り、打果さんと云ふ者なく、各あきれたる有さま申も中々愚にて、高田といふ処迄十里余附奉り、二本松衆に道具持たる者は、半沢源内・月剣遊佐孫九郎弓持・一人、扨其外は皆抜刀にて、輝宗と義継を中に取巻、二本松へと引のきけれども、伊達の者ども跡を慕ふは不叶して、輝宗を生害となす、四十二歳なり。御方の者ども是を見て、鬨の声にて一度に咄とおしかけ、供の士卒は云ふに及ばず、亦者迄も漏さずして五十余人打果す。義継三十三歳にて、互ひに生害し給ふことかなしんでも余あり。降参のためかけ入、旗下となりて参会し給ふ上は、父子共に上底もなく思はれけるに、如何なる天魔の所為やらん、嗷々なること到来して、伊達の者ども手を失ふ。去ば、彼一乱の起を後にきけば、義継七日に小浜へ御坐て政宗へ対面の時、小浜の町にて政宗の小人ども、取宿にて居りけるが、十四五人一宿して遊びけるに、彼者ども心静の折節、面々刀脇差のねたばをあはせ候はんと、半切に水を入車座敷に取巻、我も我もと抜連て合せけるを、輝宗の小人共宮森より三四人、小浜へ町用に来りけるが是をて、如何なれば左程にはいそがしきぞと尋ねけるに、其身どもは知らざるか、明日是にて二本衆を小花斬にするぞと、おどけゝるを二本衆、直者やらん又者なるか、其場へ立合ひ是を聞て、其夜義継宮森へ帰り玉ひは告げる程に、俄かに思立玉ふかと云へり。亦二本松より含んで手立に来りたるかとも唱ふ。含で手立の降参とならば、叶はざる迄でも、政宗をとねらはん、いかさまにも俄ことならんか、と取々様々なり。某日に政宗近頃休息のためにとて、十四五里わきへ山鷹に出られ留守たり。扨事終て後此乱を鷹場へ知せ奉れば、直ちに高田へ御坐て、明日より二本松へ働くべしと宣ふ。評定人者ども迚も吉日を撰み重ねて然るべしと申す。さらばとて九日の早朝御身は小浜へ帰り玉ふ。輝宗の死骸をば八日の夜に入小浜へ移し、九日には米沢の禅宗関山派夏狩の資福寺へ入奉り、導師は虎哉和尚なり。扨葬礼の砌遠藤山城・内場右衛門二世の供を申す。又須田伯耆といふ者其節法体して道空と云、彼は米沢より百里隔ち在所に於て追腹なり。此道空何の着尾もなく、而も在所にての切腹は不審なりと風聞す。政宗も不審には思はれけれども、流石供腹と申しければ、各同意に取置したまふ。扨又山城元来を申すに、其古は遠藤内匠とて、伊達の桑折に牢人分にて居たりけるが、常々歌道数寄にて有時内匠沈酔の余りに、落馬して刀の鞘を打砕き、翌日の狂歌に
さるにても昨日の暮の大酒にけふさめ鞘のわれて悲しき
と申たりけるを、中野常陸聞て常に賢きものと聞及びけるに、引付け召仕はんとて取寄子に差置。常陸威勢の盛んなれば、輝宗の前へ度々引出し、常陸奢りの余りに出仕をせざるときは、彼内匠を以て様々の用ども調ひ、輝宗へ内匠自然に近付。かゝりける処に、其昔晴宗と輝宗との恩愛の中を、今度も又常陸取拵ひ父子の間不快なり。此時を見合せ伊達の家に己がならんと謀叛を企つ。是に依て伊達の家滅亡に及ばんとす。此時輝宗右の内匠を常陸所へ横目に付給へば、内匠案者の者にて実元に引合、彼常陸を米沢より実元居城信夫の大森へ語らひ出し、其後内匠実の作法に行ければ、伊達の家長久となる。故に内匠も改名して山城と呼れ、臣下と成て二世迄を勤めければ、比類なきとぞ人申ける。是は山城始終の物語り。かくて政宗敵の二本松へ時刻を移さず十月十五日に働き給へぼ、義継領内本宮・玉の井・沼川、此三ケ所も同八日の夜二本松へ集まり、十二歳の子息国王殿を普代の者ども大将にして、義継親類の新城弾正といふ誉の者を守に定め、二本松は籠城となる。彼城へ働き給ふに内より一騎一人も出合ず、城は堅固に相抱何事なき故、政宗も阿武隈川を打越、右の高田へ惣軍を引上げ給ひ各野陣をとる。然るに成実其夜の陣場は、二本松の北に当て、伊保田と云て高田よりは各別なり。其子細をいかにと申すに、八丁目は成実親実元隠居処なれば、彼地用心の押のため伊保田には差置給ふ。是に依て明日の兵議伺はんため、成実は高田へ引上、手勢をば伊保田へ上させければ、内より見合せ人数を出し合戦に取組、双方ともに数多討死也。高田の御方も是を見て、川を越助け合、城中より出ける敵を遠やらい迄押込物別れなり。尓る処に働き給ふ十五日の亥の刻より、大風吹出同丑の刻より大雪になり、十八日迄四日の間昼夜共に降続き、馬足不叶働き給ふも成まじきとて、同廿一日には小浜の城へ引込給へり。偖雪積り年の中はなるまじきとて、境々の人数らは残らず帰し給ひ、御身は小浜に於て休息し給ふ。去程に明る十四年の七月迄、二本松堅固に保ちけるなり。其謂れを申に、其頃高玉・阿久ケ島といふ二ケ所は、会津一味の処なれば、深山に伝へ二本松への通路に依て、彼所へ附城になりともし給ふべきかと思はれけれども、其義ならば亦佐竹・会津・岩城彼三大将、安積表へ出られては、二本松を巻ほこし、敵を跡にして安積表へ向はんとすること気遣ひ、附城をば遠慮ありて人数を遣はし、通路を止むべき由に侯らへば、敵高き山より見はへ、其時は通路もなく、偖人数参らさるときは夫を能見切りて米以下も通りければ、翌年迄では籠城堅固に候事。

「政宗記 目次」に戻る

Page Top