同十四年丙戌二月、二本松籠城より三野輪玄蕃・氏家新兵衛・遊佐丹波・同名下総・堀江越中、五人の者ども逆心して政宗へ内通あり。夫をいかにと申すに、三野輪屋敷は地形も好くたとひ城を取り給ふとも勝手なれば、伊達勢三野輪屋敷へ引込忠節せんとて、右の者ども、面々人質を差上る故に、軍兵ども遣はし給ふ。されば残る四人の屋敷は、城下にて少しなりとも人数を抱ひける事相叶はざる程に、四人の者には妻子郎等ともに、三野輪屋敷へ取込詰りたる処にて、伊達勢こね合弓鎗を取廻ことも叶はず。かかりけるに、三野輪は本城と粟か作との間なれば、自然に粟か作も忠節ならば、急にはなくとも末には落城危き処に、彼地に籠城一味にて知合、其日の寅の刻より玄蕃屋敷を攻ける程に、こらへかね引除けるに、屋敷口計を出かね屏を破り、険難の処より人に人落ちかさなりて、男女四五十人踏殺され、城は堅固に相抱へけり。かゝりけるに、其頃政宗煩ひ給ひ、二本松へ働き給ふも相延、同年の四月始めに馬を出され、近陣と思はれけれども、其儀ならば去年の如く、佐竹・会津・岩城より安積表へ打出給はん、其ときは城を巻ほこし安積へ出てらるべきこと気遣ひ給ひ、近陣をば遠慮ありて北東南三方より五日働き給へとも、城内より一騎一人も出合す、やらいかゝりは二三度ありけれども、城よかりければ攻給ふことも成難く、先小浜へ引込給ふ。尓る処に相馬義胤、実元を頼み、二本松籠城の者ども出城を扱ひ給はん、政宗の使ひ申せと宣ふ。実元久しき病気なれども、頻りに頼み給へはわりなく、居城八丁目より小浜へ参り無事の使を申す。別に題目といふこともなく、籠城相除れ、二本松一宇御手に入られ候へと扱ひ給へば、政宗納得し給ふ。是に依て同年の七月六日に、本丸許りを自焼にして、何も会津へ引退。扨地下人共は思ひ思ひに方々へ引除けり。故に彼の城を成実に受取侯へと宣ふ程に、其日に渋川より打越、本丸に仮屋を立移しければ、政宗同二十四日に小浜より馬を出され、城中見物ありて万づ仕置どもし給ひ、小浜へ帰り、其れより伊達の士大将、或は小身に至るまで知行割の事。
一、四本松の小浜をば白石若狭拝領、残る処は中身小身何れも加増に給はる事。
二、二本松をば成実拝領、成実跡信夫の大森をば片倉小十郎景綱に給はり、同年の八月始に米沢へ帰陣し給へ、安積表は先無事の分にて、往来の者も送りを以て通りける事。