田村清頭頓死、附政宗北の方へ不和の事

同十一月、田村清顕頓死し給ふ。是に依て政宗米沢より信夫の福島に出られ、田村へは使者を遣はし、則ち帰り給ふ。されば清顕には嗣子なかりければ、残命の内より、末には田村をば政宗に譲り玉はんと常々宣ふ。故に死去と雖ども、田村の在城三春には、政宗姑母儀を先城代に置参らせ、偖万づ諸仕置等をば、清顕一門の田村月斎、同苗梅雪、従弟の右衛門、家老橋本刑部彼四人にと政宗下知し給ふ。かゝりける処に、其頃政宗北の方へ中悪ければ、三春の母儀是を恨み、内証は逆心の二心にてをはしませ共、月斎・刑部は縦御中悪くましますとも、政宗へ背ては田村の抱へ成間敷と思ひ、猶も伊達を守りけるなり。又梅雪・右衛門思ひけるは、北の方の母儀は、相馬義胤の伯母なれば、如何に女儀にてましますとも、押たて相馬をたのみ、政宗へ背ひても別儀なしとの思案にて、上には伊達を守れども、底意は相馬にかたむきけり。田村差引四人の内証、此の如く分れければ、何方にてもあること也、其手寄次第月斎方・梅雪方とて、下々迄も二つに分れけれども、上へは先押なめて伊達へ奉公の体なり。されば政宗一年北方へ不和にてまします。政宗十歳の年偖清顕息女九歳にして緑約あり、其後品ありて媒酌の女房をば手討にし給ひ、相残る女房ども一人も助けずして皆死罪に行ひ給ふ。其いきどをりに依て、中不和にて御坐す。然りといへども北の方其頃若年なれば、つひには和睦し給ひ、目出度かりける幸かな。彼腹に嫡女誕生有て、其より二男家督忠宗、三男摂津守宗綱、四男竹松にて、子供数多出させ給ひ、凡六十年を栄ひ、北の方六十九歳のとき、政宗七十歳にて逝去し給ふ。此時に至りて、北の方さまをかへさせ給ひ、改名をば陽徳院と号し、家督忠宗の孝行申すも中々有かたく候事。

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