慶長元年丙申の二月より、太閤秀吉、伏見の向島に城を構へ、御本城より橋を渡し、往来ありて御慰所と取立給ひ、御普請過半出ける処に、頃は閏七月十二日の夜半許に、大地震夥しうして、天守を始め御殿共をゆり崩し、城内の男女五十余人家に打れて死しけるなり。惣じて此島は宇治川取廻し、地形窪かりければ、石垣をゆり普請小屋の者ども迄も、数多相果けるなり。然るに、彼島御再興有ても然有まじくとやおぼしけん、同七月二十日に、木幡山を城にと見立給ひ、諸大名衆は申に及ばず、旗本或は小身・小人・中間・小者に至る迄、組をなされ大石くり石地形を引き、扨御殿面々様々請取の御普請にて、当十二月晦日を切に移し給ふべしと上意なれば、夜を日につひで急ぎ給へり。地震程危きことはあらじと宣ひ、御殿の柱も二本は礎、三本目は五尺余りに掘立、上の道具も方々はすがひにてとぢ付、日来の御作事には違ひ、今度は専ら地震御用心なり。然して御普請急ぎ給ふ故、日々に出御遊ばし、思召の外果敢行きたる役処へは御褒美の上意なれば、何れも忝きとの御ことなり。同十月、漸寒気の始め寒へて大儀なるに、風を防ぐために紙子を取せ給はんとて、長持ちへ御持せ町場を廻り給ひ、諸大名衆へ御手移しに下されけり。中にも政宗は至て物数寄なればとて、襟には紺地の金襴、袖は染め物に摺箔、裾は青地の緞子、方々を別になされ拝領し給ふ。又呉服拝領の族もあり。されば、其頃政宗より、大坂御上下の召舟を仕立上られければ、御感の由にて、光忠の御腰物を拝領し給ひ、翌日秀吉公御普請場へ出御の砌、彼御腰物さし、我が役所の前にて御目見し給ひければ、「昨日政宗に刀を盗まるるなり、取返せ」と御諚にて、御小姓衆四五人取かかりけるを、打払ひ十余間逃し給へば、「盗賊なれども御赦免なり、是へ参れ」と宣ひ、色々忝き上意どもなり。有とき又盆盒に御所柿を持せ給ひ、諸大名衆へ小手移しに下されけるに、「政宗は物数寄なれば、大なるを望み給はん」とて、盒の中を御取り返し、「是より大きなるはなきぞ」と宣ひ、拝領し給ふ。近き役所の大名衆、各是を見給へ「遠国の人にて、漸く四五ヶ年の奉公なれども、御前世に勝れ御懇ろ冥加人なり」との風聞なり。
テキスト化:慶様
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