かの生まれ子

閑所から出て手水を使う政宗に、片倉小十郎はそっと手巾を差し出した。
「まだ、腹具合は治りませぬか」
問うと、む、と政宗は顔をしかめる。
10月に家督してから、伊達政宗は体調が悪い。
まず食欲が落ちた。評定の座では努めて威厳をたもとうとするが、脂汗を抑えこみ、音を殺してげっぷを出す。評定が終わると、人に見られぬよう閑所で盥(たらい)に酸いものを吐く。
生来、政宗は多感な人である。
傅役となった小十郎と初めて対面したときも、顔を真っ赤にして、ぷい、と奥へ入ってしまった。疱瘡に起因する片目と痘痕を、かれはひどく恥じていた。武将の子が片目を失ったことに対する周りの落胆を、痛いほど感じていたゆえであろう。
幼い頃の癇の強さは、長じて豪胆さに姿を変えた。だが、人の想いを察するのに長けるがゆえ、家督の重さにあえいでいるのが、今の政宗である。
「山の獣も、冬は眠って力を蓄えます。お屋形さまにもあせらずじっくりとお構えになるべきかと存じます」
「冬ごもり、か」
政宗は不機嫌に庭を見た。重たく垂れこめた雪雲が、空気を支配している。
あせらずじっくり――、と小十郎は言うが、雪に篭められ、考える時間がありすぎるのがいけないのだ。いっそ忙しく戦でもしておれば、鬱々としている間もないものを。
いや、戦となればそれはそれで物思いに煩わされるのだが、行動のできない鬱屈からは開放される。
「冬ごもりなれば、そちも一度在所へ戻ればどうだ」
政宗の家督以来、小十郎は一度も在所に戻っていない。が、そう云ったのは政宗にとっては小十郎を労わるというよりも、単に気分を替えるためが大きい。
「お屋形さま大事のときに、何とこの身ばかり戻れましょうや」
予想どおりの答えに満足した政宗は、ふと思い出した。
「そちの女房は、そろそろ産み月ではなかったか」
「……ようご存じで」
小十郎の室は、米沢大町の検断・矢内和泉重定の娘である。矢内氏は伊達氏の本拠地米沢、その城下一の町人でもあり、ことある時は馬乗りとして馳せ参じる身でもあり、政宗の耳にも自然いろいろな話は聞こえてくる。
「やはり一度帰ってやれ」
政宗は表情を和らげた。正月が近づくと、またせわしなくなる。その前に一度帰り、早々と戻って来い。
そう言うと小十郎は
「ありがたき幸せ」
と頭をさげながら、なにやら思いつめた顔をした。

「――気に入らん」
政宗がそうつぶやいたので、髪を結っていた増田は肝をつぶした。
「小十郎のことだ」
と、増田の様子に気づいた政宗が付けたした。
「おれには、まだ経験がないからわからぬが」
子が生まれる、というのは、あのように思いつめねばならぬことか、と政宗は思う。
子だくさんであれば、食いぶちを稼ぐのに苦労することはあろう。だが、今度生まれるのは、小十郎にとっては初子のはずだ。家を継ぐ子が生まれるのは、めでたいことである。
なのに、小十郎には喜ぶ気配がみえない。
もともとあまり感情を表に出す人間ではないが、長い付き合いである。にじみ出るものが政宗にはわかる。
増田はそんな政宗の髪を黙って整えていたが、終わると櫛を置き、襷をはずして主の前に手をついた。
政宗は結髪に満足して立ち上がろうとしたが、
「――申し上げます」
増田に呼び止められて再び腰を下した。
「私事ゆえ、お耳に入れることをはばかりましたが――、小十郎は子をおしかえすよしにござる」
政宗は顔色を変えた。
「そのようなことがあるものか」
子が生まれたら、殺すという。しかも初子を。
「小十郎が漏らしたおり、われらもそう思いました」
けれども、と、主従は顔を見合わせた。
「筆と紙」
短く政宗は言った。小十郎ならやりかねない。

 

米沢から北へ約8里。下長井荘宮村には、伊達家の相伴衆・片倉意休斎の屋敷がある。その一角が、小十郎の生まれ在所であった。父の式部景重は意休斎の弟で、家を出て成島八幡宮の神官となっている。
小十郎も最近でこそ政宗の近臣として一家をたて、わずかながらも知行を与えられたが、まだ自分の屋敷と呼べるようなものは無く、今も本家の伯父である意休斎の屋敷の片隅に小さな家を構えている。
宮村までは長井街道を一日の道程だが、そこへ帰る足がさすがに重く、景綱は最上川を下る舟運に便乗することにした。自分の足で歩く気になれなかった。
赤子を殺すことは、まだ妻に言っていない。言えばすぐに実家に帰るだろう。
いや、言わなくても殺せば妻は悲嘆にくれよう。小十郎の子は、重定の孫だ。舅もよい顔はすまい。
大町検断矢内重定と親しいことは、城下の様子や他国の情報を仕入れるのにおおいに役立った。それを失うのが、ひどく惜しい。
そこまで考えて小十郎は苦笑した。
――おれはこんなに情が薄かったか
子を殺すことの呵責よりも、役立つ筋を無くすことを恐れている。
遠藤基信の世話で、かの女を娶るとき、小十郎は喜んだ。
遠藤は修験の子。小十郎は神官の子。低い身分から主君に近侍しての出頭、という経歴もよく似ている。
小十郎の立身への渇望を、遠藤はよく理解していたようだった。
実際、矢内重定とのつながりは小十郎をよく育んだ。武家としての地位こそ高くないが、大きな経済力と情報網を持つ、町方一の家である。そこを通しての他国の要人筋とのひそかな接触や折衝が、小十郎の立場を次第に重いものにしていったことには違いない。
重定の娘を娶ったことで、小十郎はその機会を得た。
ただ、娶れば抱かねばならぬ。抱けば子ができる。
当たり前のことだ。
が、その感覚が欠落していた。
妊娠を知らされたとき、小十郎は息を呑んで押し黙った。うろたえた、と言っていい。
それで、かつて同僚であった増田に、
「おそろしい」
と言ってしまった。
「何がおそろしい」
と増田は怪訝な顔をした。
「御曹司さまご当主にならるる、ぬしには子ができる。めでたいことばかりではないか」
幸運続きを恐れる気持ちはわからなくもないが、小十郎らしくないぞ、と、増田は笑った。
「ちがう」
小十郎はかぶりをふった。
顧みなければならないものが増えるのが、おそろしいのだ。正直なところ、わが身ひとつあればそれでいい。妻も知行も、役に立つから受け入れるが、――子、など。
「子は、いらぬ」
娶って数年。差し出がましいこと一つ言わぬ、よい妻だ。彼女との縁がもたらしたものに、小十郎は満足していた。だが、子はいらぬ。
「では、ぬしの家は誰が継ぐのだ」
たしなめるように増田が聞いた。
「継ぐ――」
小十郎は目を泳がせてつぶやいた。
「そうだ。ぬしがたてた家だ。お屋形さまよりいただいた御恩だ。それを継ぐ者が要るだろう」
「継ぐも、継がぬも、おれはおれ一人だ」
小十郎の仕事は小十郎にしかできない。知行も家も、そのためにあるのだ。例え子であろうと――余の者がそれをできるものか。
増田が顔をしかめて、何か言いたげにした。それが言葉になるより先に
「子は、いらぬ。生まれたならばおしかえすまでだ」
小十郎は、きっとそう言い放った。

舟を降りると、小雪が舞い始めた。
雪に覆われた道を、船着場から館へ運ばれる荷と共に小十郎は歩いた。何も知らぬ他人と行動を共にするのは気がまぎれてありがたい。藁沓にまとわりつく雪を、雑念のように払い落とす。
片倉館に着くと小十郎はまず、この館の主である意休斎に挨拶に向かった。
「よう戻った」
意休斎は小十郎をねぎらった。
小十郎はかつて、養子にやった家から戻されたり、伊達家から逐電しようとしたりで、意休斎もなにかと気を揉んだ。
だから、政宗の近習となってからこのところの出頭は、意休斎にとっても誇らしい。
「伯父上さまにも、最上表のご守備、お屋形さまは常々大義に思し召しておられます」
小十郎がそう言うと、意休斎は満足げに微笑んだ。宮村は長井盆地の中心、伊達家にとっては重要な拠点である。
「もう、女房どのの顔は見たか」
と、意休斎は聞いた。
「いえ、まず伯父上さまにご挨拶を、と思いましたゆえ」
「すっかり腹も大きゅうなった。今年中に生まれるのではないかな」
そうだ。だから此度の帰郷の間に、産婆に因果を含めておかねばならない。
なに食わぬ顔で受け答えしながら、小十郎はひそかにそう考えていた。
「ところで米沢から、ぬしに急ぎの文がきている」
そう言って、意休斎が状箱を持って来させた。
早馬が雪の中を駆けてきたと言う。小十郎は今や、政宗の側にあって、他家との外交をとりしきる立場である。輝宗の代には遠藤基信が勤めてきたことだが、かれが小十郎を見込んで色々と仕込んできたことを、意休斎は知っている。
「この場で読うでも、ようござりましょうか」
意休斎の許しを得て、小十郎は箱を開いた。
何か事でも起こったのだろうか、と案じながら封を解くと、見慣れた――政宗の達者な水茎が目に入った。
文面に目を走らせた小十郎の、顔がみるみるゆがんだ。
「――どうした」
意休斎が聞いても、小十郎は答えない。唇をかみしめて文を見つめている。
「見せてもらうぞ――」
色を失っている小十郎の横から文を覗きこんだ意休斎は驚いた。

「彼生まれ子の事、是非なくおしかへし候べく候よし、聞き及び候。
さりとては身の心ざしに助け給い候べく候。
末の事をおぼつかなく思い候て、其の方のとかくを言い候も、如何にて候。
ただただ身にまかせ候べく候。
これをおし殺し候はば、其の方へ恨みを深く申し候べく候間、ひらにひらに助け給い候べく候。
                                       かしく。
なおなおしきりにおしかえし候べく候よし、承り候間、急ぎ文にて申し候。
ともかくも人は子にて候間、かく意見を申し候。
かえすがえす身にあいまかせ候べく候。

かた小へ                                                         政」

「……小十郎」
意休斎がもう一度声をかけると、小十郎は文を握りしめ、下を向いた。肩が小刻みに震えている。
かな書きで書かれたその文には、切々と「腹の子を殺すな」と政宗の訴えが記されている。
「これは、いったい、」
問いかけて、意休斎はやめた。
幼い頃から、水のように涼やかな容姿に、激情を秘めた子であった。何もかも振り捨てて、己の思うところを目指す激しさが小十郎にはある。
仕える主が伊達の当主となった今、それは今までの何時よりも小十郎を重く責め苛むのであろう。
「…………小十郎よ、お屋形さまの思し召しだ」
意休斎がそう言うと、小十郎は小さくうなづいた。
早馬を使ってまで届けられた、私信である。二人は胸の奥からこみあげるものを、じっとかみしめていた。
「米沢へ、戻ります」
小十郎は顔を上げると、そう言った。
妻には会わずに米沢へ戻る。どのような顔をして会えばよいのかわからない。その腹を、子を見る自信が持てないのだ。
「……そうか。戻るか」
静かに小十郎を見つめていた意休斎が、やがて穏やかに言った。
「妻と――子を、よろしくお頼み申し上げます」
小十郎は意休斎に深々と頭を垂れた。

彼生まれ子――後の小十郎重綱である。

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