少女は真っ暗な道を、手さぐりで歩いていた。遠くに見える火は、落武者狩りの松明。
一緒に逃げていた義母はやつらに捕まって、凌辱された。行為の意味はわからなかったけれど、 男が離れた後の義母に、もう命がないことば理解できた。
組み敷かれた義母の目が、
「逃げなさい」
と訴えていた。夢中になっている男の隙を見て、幸は逃げた。
足は擦り傷、切り傷だらけ。痛くて痛くて、でも何故かしら歩けている。
「きおうちゃん‥‥」
涙があふれた。
幸は小さい。ようやく七つといったところか。
「きおうちゃんの嘘つき……」
戻るって言ったのに。一緒に暮らすって言ったのに。あれきり戻らないのは何故? 家は焼かれた。きおうを連れていった父も戻らない。
「きおうっ……きおうちゃんっ……」
幸は叫んだ。
「――会いたいよぉ……。き…おう……ちゃん……」
――あのとき。
「新しい母上だ。あいさついたせ」
呼ばれて座敷に行ってみると父が厳かな声で言った。だが幸は、その母の横に座っている稚児に目を奪われて、じっと見とれていた。
涼やかな目の少年は、それに気がついたかにっこりと微笑んだ。はじかれたように幸はぴょこんと頭を下げた。
「幸です」
すずと名乗った、元は傀儡一座の者だという新しい母は美しかったが、少年も母に似て美しかった。
「鬼王です。どうぞよろしく」
少年はそう名乗った。
(―― きおう……)
幸は小さな胸をふくらませて少年の名を繰り返した。
春の陽光を受けて輝く庭で、二人はよく遊んだ。鬼王は白い蒲公英を摘んで、幸の髪に指してくれた。
「今までずっと旅をしてたんだ」
と鬼王は言った。
「旅をして芸を売って生活(たつき)にしていた」
「じゃあ、幸といっしょだ」 幸もずっと、あちこ歩いたの、と笑う。牢人の父に手を引かれて。 一
幸の父、菅野惣衛門は流浪の果てに、この城下で仕官先を見つけ、河原で見かけた傀儡師の美姫を妾にむかえた。 「ねえ、きおうちゃん。こっちこっち」
と幸は鬼王を庭の一角に引っ張っていった。紅葉の芽吹きはほの赤い花のよう。苔の翠が
その下で光っている。
「きおうちゃん、踊って!」
ここはきおうちゃんの場所と誇らしげに宣言して幸がねだる。
鬼王は水干の袖をさっと翻した。
左右左 左右 颯々の
花を翳しの 天の羽袖
靡くも返すも舞の袖…・
扇が舞う。鬼王も舞う。幸は夢中でそれを見ていた。
白糸縅の鎧を着た鬼王は、舞台に出る時のような緊張を浮かべて立っていた。
すずは反対したが、惣右衛門は鬼王も今は武士の子であるからと、初陣を決めたのだ。
鬼王と離れるのが嫌で幸は泣いた。
「泣くな、幸。ちゃんと戻ってくるから。戦が終わったらまた一緒に暮らせる」
そう言って馬上の人になった義兄に向かって叫んだ。遠ざかる小旗に、駒の音に向かって叫んだ。
「きおうちゃーん、きおうちゃん……!」
それきり、父も鬼王も戻ってこなかった。
顔は記憶の海の向こうに霞んで見えないけれど、あの名前はよく覚えている。幸せの、その名。
――きおうちゃん。
幸はそっとつぶやいた。小さな胸の中いっぱいに、砂糖菓子のような甘さがひろがる。
――きおうちゃんに、会うんだ。
胸に、ただ一つ屋敷から持ち出した人形を抱きしめた。
会えばきっと、幸せがやってくる。
寺の境内には多くの芸人が集まって自慢の芸を披露している。今日は花祭りの日。数多くの参詣者がやってくる。それをあてこんでのことだ。
「さあさあ、我と思わん者はそこの棒をお取りあれ」
木箱に入った男が首だけ出して口上を述べている。
「日頃の憤懣、やるせなさ。われを殴ってお晴らしあれ。見事よけましたらご喝采。……一叩き五文だ! もしも叩かれましたなら、当方から十文さしあげよう」
木箱の蓋には男の首の太さかつかつの穴が、直線状に開けられている。木箱の高さは大人の腰ぐらいだから、中の男は中腰だろう。
いかにも腕自慢、といった武士が銭を置いて棒を手に取った。
「命がなくなっても知らんぞ」
[へぇ、この商売では覚悟の上で」
芸人の男はよく肥えた頼をたるませて笑った。
「では参る!」
裂帛の気合とともに、横が振り下ろされた。
みし、と木箱が軋んだ。
「お侍さまぁ、商売道具を壊さないでくださいよぉ」
男のおどけた声。野次馬たちから歓声とおひねりが飛ぶ。
武士はそそくさと去っていった。
次に棒を取ったのは、太りじしの女房。
「宿六が甲斐性に似合わず、浮気をしてねぇ」
無理もねぇ、と野次が飛ぶ。
「くさくさするから二つ頼むよ」
と十文置いた。
一発目はひょいと避ける。二発目に叩かれてやると、女房は快哉をあげて飛び上がった。
「おぉ、痛え。これじゃ亭主が逃げるのも無理ぁねぇや」
後ろ姿に言ってのけると一同爆笑。
ふわぁっ、と木箱の後ろで大欠伸が響いた。うす汚れた格好の子供が一人、眠そうな目 をこすりながら、寺の床下からはいだしてきた。どこで拾ったのか、女物の小袖を、袖と裾とを引きちぎって着ている。持ち物はといえば、腰にさしたぼろぼろの鎌一つきり。その鎌に藁縄がくくりつけてあるのが、いっそう珍妙である。
「せっかく人が寝てんのに、なんの騒ぎだよ」
と群衆を眺める。芸人は商売に水をさされた怒りを押し殺して、もう一度口上を語った。
「するってーと、おっさんを叩くと、十文くれるわけ?」
「ああそうだ。叩けたらな」
よーし、と子供は目を輝かせて棒を取った。
「おいっ、叩き代は五文だぞ」
「おっさんから十文取ったら、そこから払ってやるよ」
「代が先だ」
「じゃあさ、叩けなかったら一月ただ働きすっから。そのかわり叩けたら二十文おくれ」
ちゃっかり値をつり上げていぐ。
「いいぞぉ、小僧頑張れ」
野次馬の声援。
「俺ぁお前に賭けた、叩かねっとしばくど」
「いや、さっきのお武家でもだめだったんだ。俺あ叩かれねぇ方さ」
見物人の中で賭博が始まっている。
木箱は子供の肩の高さ。賭け金は芸人側にうずたかく積まれている。子供はそれを一瞥すると、見物人の方をふりむいて、にっと白い歯を見せて笑った。
子供が棒を上段に構えて跳躍した。芸人が間合いをはかってその先を読む。右か左か。
――正面か。
芸人の首がさっと左にすべった。箱に鈍い衝撃。棒のではない。
子供は箱に飛び乗っていた。
「えっ、ちょ、ちょっと待て」
「やだね」
いつのまにか棒の両端を持ち、穴と平行にしている。
「せーのぉ」
棒を穴にはめこむように、ふりおろす。
「……こ、こンの卑怯者っ」
こぶをさすって芸人が叫んだ。わっとまわりから歓声が起きる。
「こーゆーこと考えない方が悪いの。さっ、二十文おくれ」
子供は屈託がない。芸人は渋々銭を渡した。その中から
「はい、叩き代五文」
と投げて渡す。
子供に賭けて大儲けした男が、分け前だ、と言って小金をくれた。
「すげぇな、小僧。名前は?」
「きおう。滝口の競だよ」
ぷっと男は拭き出した。平家物語に出てくる武士の名だ。
「お前の親は琵琶法師か?」
「知らん。でも育ての親は似たようなもんだな」
死んじまったけど、と競は笑う。
「俺は平次だ」
男は名乗って、競の頭をくしゃくしゃとかきまぜた。
威儀を正した武家の行列が、しずしずと通りかかった。人々は慌てて平伏する。競はそっと上目遣いに行列を眺めた。
列の真ん中の、一際立派な馬に乗った武士。青い直垂に映える朱鞘の打刀に目が吸い寄せられた。普通の打刀よりこぶりで脇指を一回り大きくしたぐらい。事実、あの武士は脇指として使っているようだ。普通の刀では重さに振り回されるが、あれなら競にも扱えそうに見える。
あんな、刀が欲しい。力も、金もない子供でも、せめて刀があれば。
今まで競は一人で生きてきた。生きるためならなんでもやった。物乞いも盗みもやった。だが、子供の悲しさ。大人の力にはかなわない。力で押さえつけられ、何度痛い目にあったことか。
何度か刀を手に入れたことは、ある。盗んだり、落ち武者の死体から奪ったり。存外に重くて持って逃げられなくなって、その度に捨てた。
――あんな刀が欲しい。
「‥‥そこなもの」
その青直垂の武士が競を指した。いつのまにやら頭が上がっていたらしい。ばらばらと警護の武士が駆け寄ってきた。
平次がかばってくれなかったら、そのまま取り押さえられでいただろう。
「申し上げます。この者は流れてきたばかりで、岸辺さまを存じあげぬので。どうぞお情けを‥‥」
「‥‥では今は参詣の途中じゃによって許す。こなた、とくと教えい」
岸辺は面倒くさそうにそう言って駒を進めた。競はまだぼんやりと、その刀を眺めていた。
「岸辺さまはここのご城主さまじゃ」
と平次が説明した。
もとは陸奥の出身らしいが、十年ほど前にこちらのとのさまに仕え、勲功あってこの町の城主になった。武将として油の乗った年代で、とのさまの期待も大きい。武芸の達者な方であの朱鞘は陸奥にいたころ魚妖を斬った名刀を収めているという。
「魚妖?」
「ああ、人魚だというぞ」
「そんなもん、いるのか」
「いるいないはともかく、それほどの名刀ということだ」
競はぞくりと体を震わせた。
「あの刀が、欲しいな」
「あほう。お武家が肌身離さずつけてる刀を欲しがってどうする。地道に金を貯めて手頃なのを買うこったJ
「地道に金なんか、貯まらねぇよ。子供が金持ってたって、盗られるだけだ」
賭博で稼ぐか、盗みで稼ぐか。それが一番てっとりばやい。両方とも競の生活の一部になっている。京にいた頃は公家の屋敷に忍びこんだこともある。
「‥‥盗ってやる」
「無理だ、やめとけ」
「賭けるかい?」
真面目な顔で悪ガキを諭していた平次が目を見開いた。にやっと下卑た笑いを浮かべる。
「盗れない方に、有り金全部」
「乗った。じゃ、俺は盗る方」
「なにを賭ける」
「俺が持ってるのはこの体だけだよ」
と競。捕まったら、きっと命はない。
「そん時は俺のハリツケでも見て溜飲を下げてくんな」
そう言って駆けだした競を平次は呆れ顔で見つめた。
(――妙なガキに関わったもんだ)
競は一本杉に登って、岸辺の屋敷を眺めた。城は山の上にあるが、平時はそれでは不便なので屋敷は麓にある。
屋敷の回りには浅い堀がはりめぐらされ、いくつかある門には番卒が立っている。
こっそり忍びこむのは無理なら、堂々と入ってやれ。というのが競の性分だ。
春の山は幸であふれている。わらび、ぜんまい、たら、よもぎ。昨日しかけた罠には、折よく雉がかかっていた。
それらを詰めこんだ籠を背に、下人の出入りする裏門に立った。賄い方に呼ばれたのだと言うと、すんなり通してくれた。
持ってきたものは賄いでしっかり売って身を軽くした。そっと屋敷の中に上がりこむ。足音をたてずに歩くのは競の得意。どの屋敷もだいたい構造は同じだから、後は見つからずに動くことだ。奥同きの納戸の中にもぐりこんで夜を待つことにした。夜になれば岸辺は妻子の住む奥へやってくるはずだ。
「シュンショオイッコクアタイセンキン、花にセイキョオ月にかげ‥‥」
いつのまにか眠ってしまった競は、可愛らしい歌声で目を覚ました。戸を細く開けてみるとあどけない少女が、手にした人形を踊らせて遊んでいる。
少女の身の丈の半分ほどもある大きな人形は、若い娘の顔をしている。手には扇。さしこむ月光を浴びて艶に見える。
「天も花によえりやおもしろのはるべや あらおもしろのはるべや」
舞いおわった人形を胸に抱いて、少文はこちらを見てくすくすと笑った。
「だァれ? かくれんぼなら幸もするよ」
競は身を固くして少女を睨んだ。幸と名乗った少女の大きな瞳が、じっとこちらを見ている。無邪気な笑いが満面にある。それを見ているうちに、なんだかばからしくなって、睨むのをやめて無理やり笑顔を作った。口に指をそっと当てる。
「ないしょなの?」
競は無言でうなづいた。幸もこくんとうなづいて、そおっと納戸を閉めた。
足音が響いてこちらへやってきた。その大きと力強さで男のそれとわかる。
「幸、こんなところにおったか」
その声は寺で会った、あの青直垂の――岸辺隼人。
「さ、こちへ参れ。寝所へ参ろう」 岸辺が少女の手を引いて行く。競はその後をつけた。岸辺は幸に夢中になっているようで気づいていない。直垂を脱いで着流しのくつろいだ格好だが、腰には朱鞘をはさんでいる。
二人が寝所に入ろうとする一瞬、幸がふっと振り返って笑いかけた。慌てて競は柱の陰に隠れた。
あの子、幸といった。岸辺の娘だろうか。着ているものも立派だし。
でも幸はちょっと変わっている。なにが、とは言えない。強いて言えば雰囲気が。無邪気で可愛いけど、それだけじゃない。なんでも知ってるようにくすくす笑うけど、なんだかほうっておけない感じがする。
競ほ杉戸の陰で中の様子をうかがった。
「幸、――幸よ。わしを見よ」
岸辺の声。競は首をかしげた。幸の年なら乳母がいてもいいはずなのに、中には二人の気配しかない。
「わしを好いてくれ。わしはそなたを戦火から救った。父の恨みも水に流した」
親子の会話にしては、妙な言葉。欄間から揺らいだ蝋燭の影が見える。
「だからわしにお前の力を分けてくれJ
幸の忍び笑い。競は小窓を細く開ける。
脱ぎ散らかされた辻ヶ花は幸の着ていたもの。紅絹色の裏地の上に座る幸の裸体を岸辺が抱いている。そこから伸びた白い腕は先の人形を抱えていた。
以前、道連れになった見世物小屋のおばばに、幼女を好む性癖の者がいるという、話を聞いたことはある。だが男盛りの岸辺が可憐な幸を嬲っているのを見ると、失望や嫌悪は通り越して半ば呆れてしまった。
魚妖を斬るような剛強の武士ならば、美しい女が何人も奥向きにいたほうが、遥かにそれらしい。
幸の頭がのけぞって、競と目線が会った。また、くすくすと笑う。
競は覚えず赤面し、それを振り払うように頭を振った。ここへ来た目的を、もう一度反芻する。
どうせ大人には力でかなわないのだから、機会は一度。一撃で気絶させる急所を、競はこれまでの生活で体得している。そこへ打ちこめるか否かだ。こういう状況になるとは思っていなかったが、どうせ始めから綿密な計画があったわけではない。してみると、むしろ好機かもしれない。
角部屋だから、うまい具合に岸辺の後ろへまわりこめる。廊下をそっと移動して隣の部屋の気配を探る。さすがにバツが悪いのか、岸辺が人払いをしているらしく、人っ子一人いない。
競は腰の鎌を握った。
障子を開ける。岸辺が振り向く.競が走る。
岸辺は競の姿を認めると、小馬鹿にしたように笑った。子供が一人。人を呼ぶ必要は認めなかった。このたわけた闖入者を始末する朱鞘を、抜く。ひゅん、と風を切る音。
そこまでだった。
走る。刃の下を潜る。岸辺の後ろにまわって跳躍する。後頭部を、鎌の柄で思いっきり殴る。そこまでを一呼吸でやった競は大きく息をついた。
岸辺は倒れたあと一度体を起こしたが、白目をむいて再び昏倒した。
辛がひっそりと笑った。
「見ィつけた」
かくれんぼの続きと思っているらしい。とりあわずに岸辺の手から朱鞘を取り、じっと眺めて、腰にさす。思った通り、細身で軽い刀だ。
幸の声が静かに響く。
「幸が見つけたんだから、また聞くよ。……だァれ?」
「競」
投げ捨てるように答えた。競は振り向かない。振り向いて幸の顔を見ると、もう捨てておけない気がするから。
「……き、お、う? ――きおうちゃん?」
確かめるような幸の声。そしてこちらへ歩みを進める衣擦れの音。
ばか、来るな。と言いかけて競は言葉を飲みこんだ。
「きおうっ‥‥きおうちゃんっ」
泣きじゃくって、抱きついてくる。会いたかった、と言われても、競は幸と以前あった覚えはない。だが、この幸をほうっておくわけにはいかない。第一顔を見られている。殺すほど競は非情になれない。
一瞬の困惑のあと、競はすぐに決心した。
「俺は、逃げる」
そうだ。岸辺が目を覚ます前に逃げなくては。できれば町の外へ。
「お前、一緒に来るか?」
あっさりと幸はうなづいた。手早く着物を着せ、背に負う。幸の体をくくりつけて両手が自由になるようにした。
「あ、 - お人形」
「そんなんもん、置いていけ」
「だめ。あれも幸だから」
逆らうだけ時間の無駄と悟った競は素直に人形を幸に渡した。
どうせ門は閉まっているから、そちらへは行かない。途中で物干し竿を一本調達する。門からは一番離れた塀の前で競は立ち止まった。
月がさんさんと輝いている。
「しっかり捕まってろよ」
幸に一声かけて、棒高跳びの要領で、飛んだ。
背後でガランと竿の転がる音がした。堀に落ちないかと心配したが、思ったより飛距離が出ずに堀の手前に着地した。屋敷が少しずつ騒然となる。長居は無用、と競は駆けだした。
うふふ、と背中で幸の笑う声がした。
「あのね」
「なんだ」
「幸はね、ずーっときおうちゃんといっしょにいるの、楽しみにしてた」
「‥‥‥‥」
一本杉の下に松明の明かりがあった。平次である。
「首尾は?」
「盗ってきた。賭けは俺の勝ち」
にっと笑って腰の朱鞘を示す。平次が口笛を吹いて手を伸ばした。
「ちょっと見せてくんねぇ」
「やだ。それより賭け金払っておくれ」
平次は、かなわねぇ、と首を振って巾着を投げてよこした。
「そのかわり、といっちゃなんだが……、後ろに背負ってる女の子。お姫さんかね? 俺によこしな。」
「あんたもああいう趣味なのか?」
口をぱくんと開いた競の問いに、平次はちょっと考える顔になった。
「ああいう趣味?……ははあ、岸辺さまはそういう趣味だったのか。安心しな。俺あ違うよ。どうせ連れてても足手まといだろう」
競はうなづいた。平次は幸を売るつもりなのだ。幸は幼い今でもなかなかの器量よしだ。平次の差配次第でいい所に買ってもらえるだろう。
そっと幸をおろす。とん、と背中を突いて平次の方へ押しやった。幸は競の手を握りしめて行こうとしない。
「おじょうちゃん、いくつ?」
笑顔を作って平次が聞いた。
「とりあえず、ななつ」
幸の答えはぎこちない。
「そうか。じゃ、とりあえずおいちゃんの所へおいで」
「きおうちゃんはいくつ?」
「……十二。さ、おいちゃんの所へ行け」
いっかな動こうとしない幸を、競はせかした。
「いや」
「行けったら」
「いやっ!」
競は平次に目配せした。平次が幸を強引にだきかかえる。
「じゃ、無事で逃げろよ」
競に言い残して平次は踵を返した。競もまた、山のほうへ歩きだす。あんな盗みをやった以上は、もうこの町にはいられない。 幸の泣き声が、耳につく。きおう、きおう、きおうちゃん。なんだってあの子は、こう自分の名を呼ぶのだろう。なんだってあの声がこう響くんだろう。
あったこともない、顔も知らない競の名を。顔も知らない……。
思い出した者がある。同じように無条件に自分を欲してくれた者。ただひたすらに自分の名を呼んでくれた者。――顔も知らないけれど。
――くそっ
舌打ちを一つすると、競は石を蹴って平次の後を追った。
「おーい、待ってくれ」
「なんだ」
平次が足を止める。
「屋敷からさらってきた子を抱いて町に戻っちゃまずいだろ」
「おかしな子を道端で拾った、とで1旦亭つさ」
「でも、きっと岸辺さまは‥‥」
はあっ、と平次が息をついた。目に狡猾な光が宿る。
「正直に言えよ、おい。この子が欲しいんだろう」
「……そう」
「よく考えろ、競。俺はお前を買ってた。だから賭けにも乗ったし、馬鹿正直に金も払った。……ずいぶんよくしてやったつもりだぜ」
黙って競はうなづく。その通りだ。
「それでお前は金を手に入れ、この子を俺が貰うことに同心した。そうだな?」
「でも、その子が、俺を要るって言ったんだ」
「それを承知で渡したのは、お前だろ」
「気が変わった」
競の全身から立ちのぼる、気迫。平次は辟易した顔でまた歩きだす。子供の気まぐれにはつきあっていられない。
その背中に、思いっきり体当たりをくらわせた。競の顔を見てようやく泣き止んでいた幸が、地面に転がって再び泣きだす。
「この性悪ガキ‥‥っ」
思わず幸に駆け寄った競の襟首を、平次の大きな手が掴んだ。そのまま宙にぶらさげ、ぐいぐい締めあげていく。渾身の力をこめて抵抗するが、平次にはこたえる様子もない。
「どうしたい。大人の力にゃかなわねぇから、刀が欲しかったんじゃないのか」
そうだ、刀。力に対抗する武器。今さっき手に入れた――。
競は腕を腰に延ばした。刀の鍔が触れる。そして柄。首にかかる圧力が増す。あと少しの我慢だ。刀が抜ければ、抜いてしまえば。
そこでなぜかしら競の手は止まった。平次にむかって、にやっと笑って見せる。
平次は一瞬、顔を歪めた。
「こォの、甘ったれっ!」
競を地面に叩きつける。気を失いそうになるのを、競は必死でこらえた。 幸がおずおずと近寄ってきた。平次が競の顔を覗きこむ。幸は競をかばうように間に入る。その幸を、競は痛む腕で抱きしめた。
「この子……、俺が要るって……言ってくれたんだ」
平次はふん、と笑った。 -
「お屋敷にいた子が、お前を知るものか。人違いだろう」
「それでもそう言った」
人違いでもいい。自分を欲してくれるのだから。
馬鹿々々しくてつきあってられねぇや、と平次は言った。すっ、と競の懐から最前の巾着を抜き取る。
「この賭けはチャラだ」
そう言って振り向きもせず去っていく。その背中に向かって競は礼の言葉をつぶやいた。
「きおうちゃん、だいじょうぶ?」
心配そうな幸の顔に、笑顔で答えて立ち上がる。
「大丈夫。行こう。見つかるといけない」
今度は幸の手を引いて山へ入った。ほとぼりがさめる距離までは街道を避け、山を越える。握り返してくる幸の手が、温かい。
いつのまにか夜は白み、重なり合った山の向こうから、新しい日が顔を出す。卯の花が静かに降って、l一人の髪を飾った。
岩を登ると、ずきん、と足が痛んだ。が、顔には出さない。出せば負けだ、となんとなくそう決めている。
――なに、なんとかなるって
競は独白して幸に手をさしのべた。