競と幸 第2話    白太夫のこと

  山の頂きに大きな椎の木が見えた。大人が二三人手をつないで、やっと木のぐるりを囲むことができる、巨木だ。幹には子供が一人入れるぐらいの、うろがあって、競はあの城下へ流れてくるときにそこで寝たことがある。
まわりがブナばっかりの所に、誰が植えたのかそんな大きな椎があるもんだから、この峠を椎の木峠という。もと来た道を戻れば岸辺の城下を過ぎさらにいくつか峠を越えて京へ向かう街道につながる。そしてこの峠を越えれば--
  海に出る。
  魚を担いだ商人が足早に競の横をすれ適って駆けていった。
「海を見たことがあるか」
と競が聞くと、意外なことに幸はうなづいた。
  ずっと雨ばかりの天気が続いて、思ったより旅路ははかどらなかった。二人とも雨具は持っていないし、買う金もない。この季節だから凍える心配はないけれど、やはり濡れるといい気持ちはしないし、ぬかるみばかりを歩くのは気が滅入る。今までは逃避行で山中ばかり歩いていたからなおさらだ。
  それで雨が降りだせば岩穴や木のうろに入り、それもなければ競が小枝などを使って器用に即席の小屋を作った。崖や木に、刈り取った枝を建てかけただけのものだが、けっこう役に立った。
  夕べの雨には雷が鳴った。梅雨も終わりだ。城下を出てからかなりたつ。
  いくらなんでも岸辺は子供にやられたとは言えまい。なら、はとぼりも覚める頃だろう、とそろそろと街道に出ることにした。腰の朱鞘にはそこらの百姓家からかっばらってきた薦をかぶせた。
  今日は朝から久しぶりにからっと晴れた。道はまだ湿っぽかったけれど、それでも心地よかった。暑い空気の中、入道雲が目の前でむくむくと形を変えていた。
  あの下に海があると思うと、競はいてもたってもいられない気持ちだ。
「海は好きか」
と聞くと今度は幸の人形がうなづいた。
「海はいいよな」
  競は誰に語るでもなくそう言った。
  初めて海を見たときの、感動。それより前に舟で琵琶の湖を渡ったことはある。琵琶の湖も向こう岸が見えないほど広いので驚いたが、行きずりの太平記読みに海には涯がないと聞かされてもっと驚いた。波も湖の波とはどこか違っていた。
「海の向こうには、なにかあるのか」
  そのとき競が聞くと太平記読みは
「唐土に天竺。他ぁ知らんな。なんせ涯がないんだ。南蛮という国もあるというな」
  涯のないところから、打ち寄せる波。競は背の立つかぎり沖まで、ざぶざぶと歩いた。波に揺られるのは宙に浮いているような妙な気分で、競の心を高揚させた。
  流されるぞ、太平記読みは注意したが、競は聞いていなかった。
  おうい、
と彼のくる彼方に向かって叫んでみた。口の中のしょっぱさまでが気持ち良かったことを覚えている。
「きおうちゃん、しいのきのほかに、ふたつ木があるね」
  幸の声に競は夢想から引き戻された。
  見ると確かに椎の木の下に、二本の木が一本の横木でつながれたものが見える。幸は木と言ったが、もちろん木ではなく冠木門である。関所があるのだ。
  競はぴたりと足を止めた。
  「どしたの、きおうちゃん」
  関所を通るには、関銭を払わねばならない。文無しの競には通れない。無埋に通ろうとすれば、厳しい詮議を受ける。岸辺の城下の一件で、おそらく手配書が回っているだろうから、そうなっては今までの苦労が水の泡だ。
  競は近在の者が林の手入れに使う細い枝道に入ると、
  「幸、しばらくここで待ってな」
  そう言って幸を切り株に座らせた。そして自身は街道へ戻る。
  手だては二つだ。道なき道を行き関所破りをするか。どうにかして関銭を調達するか。
  競が岸辺の城下に流れてくるときにはなかった関所だ。なぜかはわからないが、国境の警備を厳しくする理由ができたのだろう。
  ならば関所を避けて山越えしようにも、辺りに見張りの足軽が多くいるはずだ。この連中も金さえ払えば見逃してくれるかもしれないが――。
  いずれにせよ、要るのは銭だ。
  競は一里ほど城下の方へ戻ると庚申塔のある辻を街道からそれて左に入った。道の脇に数多の石地蔵が並ぶ。この先には古びた寺があり、無住ながら旅人のいい休憩所になっているせいか、けっこう信心を集めている。
  関所の近所でじかにスリやかっばらいをするのは剣呑なので、競はその寺の賽銭を狙うことにしたのだ。
  鼓の昔が、ポン、ポンと心地よく響いている。音を便りにたどっていけば、本堂の裏手に猿楽の一座がたむろしていた。装束を広げて日に干し、楽器の手入れなどして、今日はここでゆっくり休むていである。色あせた装束の多い中で一枚だけ、金糸銀糸をふんだんに使った縫箔が目を引いた。
  競は本堂の前に戻ると、形ばかり中のみほとけに向かって手を合わせた。床下にもぐりこんで賽銭箱の下を探ると子供の手が入る程度の穴が開いている。前に通ったときに競が開けたものだ。思いのほか床板が厚くて苦労したのを覚えている。
  その穴に手を突っこんで、賽銭をかき集めた。
  びた銭ばかりで五十六文。
  それだけで全部だった。恩ったよりも遥かにすくない。関を通ればすっからかんに等しい。競は舌打ちして床から這いだした。
  無造作に積み上げてある、猿楽一座の荷物の陰に紛れこむ。なるたけ金になりそうな、それでいて荷物にならない細工物を頂戴しようとあたりを探った。めぼしをつけてつかだ袋の中身が、ざらざらと鳴って、銭だ、と競はほくそえんだ。
  ついで着物を二三枚。幸は城を抜け出してきたときの着物のままで、菅沢な辻ヶ花は往来を歩いていても目立つことこのうえない。少し地味なのに着替えさせて、辻ヶ花は売ってしまえばいい。
  そろりと逃げだしかけて、競の足はちょっと止まった。金糸銀糸の縫箔が、太陽の光を浴びてきらめいている。
  ――幸に着せたら似合うかな。
  ふとそんなことを考えて、頭を振った競の肩とごつい手がむずとつかんだ。猿楽の座員らしい熊のような大男がそこに立っていた。
「坊、何しとる」
  しまった、とひきつった表情を一瞬で打ち消して、にっこりと競は笑った。
「ごっついきれいなのな」
と縫箔に手をのばす。
「汚れた手で触るんじゃない」
割れ金のような声で男が怒鳴った。
「ごめん」
  手をすぐにひっこめる。
「妹に、着せてやりてぇと思って」
「そりゃあ、殊勝なこったが、」
その着物はワシのだ、と男はむんず競の手から先の着物をはぎとった。にやにやとしながら、競を見つめる。
  「そしてこの銭もな」
  いつのまに掏り取られたか、銭袋も男の手にあった。
  袋と着物を足元に置いた男は、競にじりじりと詰め寄った。
  苦笑いして一歩後じさり、競はぱっと腰の鎌を投げた。
  刃が男の頬をかすめた瞬間、鎌につけた縄を、くん、と引っ張る。鎌は大きく弧を描いて競の手に戻った。
  ひるんだ男の足元をすり抜け、ついでに銭袋をさらう。
「誰そ、出あえっ。盗っ人じゃあ」
  男の声と同時に鼓の音が止み、座員の騒ぐ声がそれにかわった。それを後ろに聞きながら、参道を走った。
  山門をくぐったそのとき、不意に両足に縄がからみつき、競は石段の上を転げ落ちた。

 木もれ日の中で幸は人形を舞わせていた。競を待ちながら。
  さらり、さらさら。
  人形の動きに合わせて、幸の髪がこぼれる。衣擦れの音が木の葉のぎわめきと響き合う。木々を渡る風が拍子を取ってくれる。
  さらり、さらさら。
  ――来しかたより今の世までも、絶えせぬものは恋といえるくせもの
  深く甘い、男の声が唱和した。森の中から抜け出てきたような、その姿
  ――げに恋は曲者、曲者かな
  するり、と男が人形に寄り添う。艶やかな舞姿は道行のよう。うっとりとまたせつない顔で人形を見る。
  ――身はさらさら、さらさらさらさら、
    さらに恋こそ寝られね
「いたいけな童が、恋歌をなんとも情をこめて謡う……」
四十前と見えるその男は、ぱちんと扇を閉じて、にっこりと笑った。肩のところで切りそろえた総髪と素襖姿は、聖とも俗ともつかぬ不思議な気品があった。
「もしよれけば儂のところへ来て、その傀儡舞をもっと見せてくれぬか」
  幸は男を一瞥すると、関心なさそうに道のほうを見やった。
「きおうちゃん、おそい」
拗ねたふうの少女に、男は根気よく話しかける。
「儂は白大夫という者じゃ」
「幸、きおうちゃんを待ってるの」
「そのきおうとやらも一緒に来ればよい。後でここに使いの者をやろう」
そっと幸の肩を抱く。幸は頬をふくらませて、その手をにらんだ。
  そのまま抱き上げて立ち上がったが、幸は抵抗しなかった。大きな瞳でじっと白太夫を見る。
「白大夫、舞うの上手ね」
「ありがとう。幸‥‥といったか、そなたも大の上手だ」
  どうやら少女に嫌われなかったらしいことに、ほっとして白大夫は微笑む。
  幸は白太夫の髪をくいくいと引っ張ってもてあそんでいる。
「あのね、きおうちゃんはきれいなの」
「ほう、それは楽しみだ」
  この子の連れならばさぞかし舞の上手だろうと想像してみる。親か、叔父か、はたまた親方、太夫のの類か。きれいと言うぐらいだから意外と若いのやも知れぬ。
「きおうちゃん、ほんとに来る?」
  あどけない声で幸が聞いた。
「来るも。……もしかしたら我らより先に着いているかも知れぬぞ」
  軽く答えながら白太夫は森を抜けて歩き出した。

 若い者が数人、山門の仁王の下に集まって何者かをさんざんに打躇していた。ときどき坤き声が洩れ、その対象が人であることがわかる。
  白太夫は日頃の鬱憤を晴らすがごとくに残忍になっているかれらに眉をひそめた。
  不機嫌に一声かけると
「太夫!」
若者たちはさすかに決まり悪そうに暴行を中止した。
  見れば十二、三と見える子供が、両手をしばられ転がされていた。足にはおもりのついた縄がからまり、体は青痣だらけ、鼻からは血が吹き出している。膝から腕から、およそ着物の外にあらわになっているところには無数の擦り傷ができていた。
「ずいぶんと無体をしたものだ」
  幸を戸惑う若者に預け、足にからまっている縄をはずしてやる。
「猿」
「へえ」
  猿と呼ばれた背の低い若者が頭を輝きながら前へ出た。名の通り真っ赤な、ちんちくりんな顔をしている。
「お前は山がつの癖がまだ抜けぬな。しかもこの捕り縄は獣をとるためのもの、人に使うものではなかろう」
  たしなめられて猿は不満そうに
「へえ。でも盗人を捕らえるにも役に立ちますで」
と□をとがらせた。
「盗人?」
  白太夫はぐい、とぐったりしている子供の身体を引き起こした。
  幸は若者の手から下りると ふわりとその子供の側に寄り添った。
「きおうちゃん」
にっこりと笑いかける。
「白太夫のいったとおり。さきにきてた」
「……さき…く……?」
  競はうっすら目を開けて不思議そうにそれだけ言ってまた気を失った。
  気がつけば納屋の中、土の上に直に競は転がされていた。身体のあちこちに、熱をもった斑があった。それが火照るたびに鈍い痛みが伝わってきた。
「きおう」
  太い、男の声がしてガバと競ははね起きた。白大夫と呼ばれた男が戸口に立って競を見下ろしていた。
「事情は聞いたぞ、盗人どの」
  穏やかににこにこと笑っているので競は少しむっとした。
「‥‥そっちの事情だろ」
「道理だ。ではきおうの事情も聞こうか」
「関所だ」
  関銭ほしさか、と白大夫は得心したようにうなずいた。
「でもそれだけではないだろう」
「なにがっ」
  なにげないようにつぶやかれた言葉に、競の声がうわずった。手配書を、白太夫は見ているのかも知れぬ。ごくんと唾を飲みこんで――腰に手を伸ばしてはっとした。鎌も、朱鞘もない。
「捕らえた盗人に刃物を持たせておく法はないだろう」
  相変わらずにこにこしながら白大夫は納屋の壁をさす。
「しかしながら、それ、鎌はあそこにかけてある。刀は――」
ゆっくりと白大夫は自分の刷刀をはずした。
「おれの、朱鞘っ!」
  競は鎌を手にとるや、ひょう、と縄を飛ばした。くるりと鞘をからめとり、引き寄せる。白太夫は逆らわずにその身ごと競の前へ寄った。片膝をつき、競の前に刀を鞘ごと突き立てる。
  白大夫の眼光が競を射た。口許は笑みを含んでいるが、さすがに目は笑っていない。きれいな、としか表現しようのない殺気がこぼれてきて、競はぞくりとした。さっきの荒くれどもの児戯にひとしい暴行は、一時殴られてやればどうにかなるが……。
「ご城下で刀と姫がさらわれた、という噂を聞く」
  ずけりと言った白大夫に競は無言で返した。一方で頭を必死に回転させて逃れる術を考える。
「刀は朱鞘の大脇指、姫は七つになるかならぬが、というが」
白大夫には隙がない。競はため息を一つつくと考えるのをさっさとやめることにした。
  こういう八方破れになったとき、競はやけに強くなる。自分でもそれを知っているところがあって、すぐに大きな賭をしたがるのが競の特質だ。賭となれば楽しめばいい。
  競は白太夫に笑い返した。こいつに殺されるか、役人に引き渡されるか、それとも……。生命が賭け物だ。こんな大きな賭はないじゃないか。
  ――楽しめそうだ
  と競の心は先までところりと変わっていた。
  こうなると白大夫の殺気がすうと消えた。競の変化を感じ取って太夫もまた楽しむことにしたらしい。
  「で、おれをどーするつもり?」
  「では聞く。あの童はおまえの連れか」
  「幸なら、そうだ」
  「姫ではないな」
  「姫……」
  競は少し考えた。なにせ幸はそういう意味ではつかみどころがない。姫といえば姫に見える。でも姫というには……不思議としか言えない違和感がある。
  「自分で、決めな」
と競は白太夫にげたを預けた。
  白太夫は大きくうなずくと、朱鞘を競に渡して立ち上がった。
「盗人の件は未遂でもあるし、その怪我だけでよしとしておく。関所は……一座の者、ということにして、一緒に通してやろう」
  口裏をあわせろ、と言って白大夫はまた笑った。
「それにおまえの連れは一代の上手だ」
  満足そうにそう言って出ていく後ろ姿を、競は睨みつけた。白大夫もまた、ただの芸人とは思えない。首はつながったが、賭に勝ったとはとうてい言えないようだった。
  夕方になってあの熊のような男が装束を持ってきた。真新しい臙脂色の水干で、明日はこれを着ろと言う。みずから名乗るところによるとかれは小六というらしい。
「それにそんなに汚れていては話にならん。行水しろ」
  小六は競を井戸の側まで引きずっていくと、否やを言わせず水をぶっかけた。競が小袖を脱ぐと へちまを寄越してくれた。身体を洗う競を、いつまでもじろじろと見ている。
  競が気味悪くなって問うと小六は髭面を歪めてにたりとした。
「いや、猿めがこっぴどくやったもんだと思うての」
手足に残っている赤い痣をつんとつつく。小六に見つかったせいでこうなったかと思うと、その親しげな態度に腹が立った。
「こんなん、屁にも思わねぇよ」
と競はうそぶいた。
  「そりゃあよかった」
  本気にしたのかしてないのか、小六がうなずく。競はやはり小六の持ってきた新しい下帯をしめ、白い小袖を着た。小六が後ろで髪をくしけずり、結いなおしている。
  「おまえはなかなか面白いやつだ。あの鎌の工夫は自分でしたのか? ……こりゃあいかん、身体も面構えも器量良しなのに、髪はちっとも言うことを聞かぬ。いや、猿もな、ああいう細工には目がなくてな、お前を捕らえた投げ縄もあれの工夫だが、さっそくお前の鎌の真似をしていくさるわ。太夫はあのとおり飄々しているが、わしらも喰わねばならんでのぅ、猿の狩りの腕の役に立つまいことか……」
  競がふてくされて押し黙っていると一人でえんえんと喋りつづける。いかめしい顔の大男がこのようなお喋りなのが、なんとも滑稽だ。競は始めはむくれて、後はあきれて聞いていたが、ふと引っ掛かった。
「飄々?」
「おお、わが太夫は浮世離れしておるわ。舞のことしか頭にないのであろ。あの童も傀儡舞がいたく気に入られたとかで」
「幸は……確かに上手だな」
  つぶやきながら競は別のことを考えている。
「ワシもさような上手なら早う見てみたいものじゃて。その童がお前のことをきれいじゃというていたげな。さもあらん、こうして洗えば昼間の盗人はどこへやら、なかなかの眉目良しじゃ。稚児舞などさせれば、客が喜ぶ。唯一の難儀はこのゴワゴワ頭じゃが、なに大したことではない」
  いつもにこにこして飄々とした白大夫、と座員は思っているらしい。厳しい顔を見せるのは芸事に関することのみ。ではさっきの殺気は?
(――くだらねぇ秀句だ)
  自分の文句にあきれて競は笑った。小六がそれをみてさも嬉しそうに手を叩いた。
「それそれ、そのように笑っていたがよい。その方がぐっと美々しいわ」
  見かけよりはるかに人のよいらしい小六の態度に、もう一度あきれて納屋へ戻った。白小袖を汚さぬようにというはからいか、いつのまにやら莚が敷いてあった。
  明日のことをぼんやりと想像する。競にまで新しい装束を着せたということは、きっと関所の奥の陣屋へ招かれて……芸つかまつれ、というお達しでもきたのだろう。
  稚児舞など、と言った小六の言葉を思い出す。
(ま、俺は舞なんてできねーし)
  ふっと気がついた。にたにた笑って競の裸身を見ていた小六。
  ――なかなかの眉目良しじゃ
  猿楽者の稚児務めだ! とんだことになった、と競は□をへの字に曲げて空を睨んだ。
  あくる朝。
  カラリと晴れた空の下を、一座の列は動きだした。道具を満載した荷車を峠越えさせるのは重労働だろうが、みな慣れているのか、小歌を謡いながら、えいさらえいと引いてゆく。
  夕べはそれほどでもなかった競の頬は、朝になると青く腫れあがっていて、白太夫を苦笑させた。       「猿楽者、白大夫以下一座男十二名、女五名。ふむ」
関番の武士は形どおり荷を検めると、此度は詮議がある、と言って威儀を正した。
「ご城下よりの命につき、と刀を改める。各自差し料を白州へ出すように」
きた、と競は息を呑んで朱鞘をはずした。幸は白大夫の腕の中で、競の盗みそこねた縫箔を着て興味なさそうにあくびをしていた。男たちのはずした刀が並べられ、白大夫の指示で舞台用の刀も箱から出された。
「朱溜塗の鞘に、鈍茶の柄巻。目貫は黄金の龍、鍔は波紋…黒糸貝の口組の下げ緒……二尺三寸の小太刀にて、銘は……無銘なれども業物に候……」
  あの朱鞘の特徴をつぶやきながも兵卒が一本一本刀を検めていく。
  そして競のはずした刀を山の中からえりわけた。競は唇を噛んだ。こんなかっこうをさせられたせいで、鎌は荷物の中だ。
「拵えはそっくりじゃ。目貫の龍がなくなり、下げ緒が変わっておるが……」
「見れば、こわっばの差し料、よもや岸辺さまの御刷刀ではありますまいて」
「いやいや。こわっぱが盗うだとは限るまい。一座の誰やらかも知れぬ」
  ひそひそと武士たちが相談する。
「抜いてみれば、わかろう」
一番上役らしい、若い武士が断言した。業物かどうかは据え物斬りでもしてみればわかる、というつもりか。かれらにしてみればそれらしい刀を詮議して、岸辺に判断を仰げばいいのだ。
  承って、一人の兵卒が朱鞘を抜いた。競はみじろぎもできずにそれを見ていた。
「……アノ、中尾さま……」
  兵卒は戸惑いを隠せぬ声で、若い武士に言った。
「どうだ、本物か」
「本物ではござりませぬ。その、……刃がないので」
  競は目をこらした。長さも拵えも寸分違わぬ競の朱鞘。ただしついている刀身は――ただの鉄の棒だった。
  なんてことだ! 競は白大夫を、怒りの眼差しで睨みつけた。では、競の、本当の朱鞘はどこにあるのだ。
  しかし白大夫は涼しい顔で中尾に言上していた。
「まだ分別のつかぬ幼いものに、本物を持たすは愚のなすことでござる。われら大人が守ってやればよいことでござりましょう。さりとて丸腰では侮りを受け、竹光では軽すぎて稽古の妨げになりまする。それ、修羅物で使う太刀は本物と違わぬ重さでござりまするゆえ」
「なるほど、ではそなたの座では、稚児の差し料はみな鉄棒か」
「御意に」
「ふーむ、この戦続きの世に、殊勝なことを申すものかな。よい! 一座の疑いは晴れた。先に使いを遣わいたとおり、奥へ入って芸を披露せよ」
  白太夫は五番の能を用意していた。, 、
  まず、翁。これと鬘物の井筒、切能の野守は白大夫が舞った。意外なことにこの座の副太夫はあの小六で、普段のお喋りはどこへやら、屋島で威厳ある勝修羅を演じた。猿は花月で間狂言をつとめていた。
  競とて演能中に騒ぎを起こしては、全てが水の泡とわかっている。おそれながらと突き出されて、盗人のかどでお仕置きをくらうだろう。
「白犬夫ッ」
  何度か刀のありかを問いただそうと楽屋へ戻ってきた白大夫に詰め寄ったが、そのたびにきれいに無視された。競は唇を噛んで辛抱するしかなかった。
  幸は座員にまとわりついて機嫌良くしている。舞や謡を見られるのが嬉しくて仕方がないらしい。ときおり人形を操って一緒に舞っては、楽しげに笑う。
  確かに白大夫の舞は絶品だった。持ち前の典雅な声と優雅な所作が、しんと澄みきった泉のような透明さを舞台の上に醸しだすかと思えば、怪力乱神を地面を踏み割るかと錯覚する恐ろしさで演じてみせる。
  芸能が好きなのはかの中尾の老父だそうで、正面奥に炯々とした眼光を放つ老人が座ってじっと舞台を凝視していた。それが舞台が進むにつれ、見物の侍たちと同じく、返す扇、引く扇に笑わされたり、泣かされたり。恐ろしいほどの的確さで、白太夫は舞台の上から見る人の感情を操っている。
  それがなんとも腹立たしいのだが、気がつけば舞台に見入っている自分がいる。それにまた腹を立てて、競はいらいらと楽屋を歩き回っていた。
  観能のあとは酒宴になった。一座の女と稚児は給仕に出され、競も酌をさせられた。女日照りの番卒たちが、日頃の欲求不満を晴らすかのように、身体をべたべたと触ってくる。昨日の打ち身が痣になっている競は、ひどい面体のはずなのだが、そんなことにはおかまいなしらしい。
  唇をどさくさまぎれに塞がれて、ついに競はかんしゃく玉を破裂させた。その武士の股間を思いっき蹴り上げ、広縁へ走り出た。後ろから猿の怒声と小六が武士に謝る声が聞こえてきたが、もうとりあわなかった。
  荷物をおいた納戸で、広袖の邪魔な水干を脱ぎ、もとの小袖に着替える。膝丈までしかないので、袴のように足にまとわりつかないのが、競には気持ちいい。すっきりした気分で箱の中から鎌を出して腰にさすと競は油断無く辺りを見回した。
  酔ってしまえば、稚児一人いなくなったところでどうでもいいのか、追いかけてくる者はいない。
  白大夫を探さなきゃ、と競は自分に言い聞かせた。すり替えられた朱鞘を取り返さなければ。
「陣屋の中で、白大夫を探して、刀を取り返す」
声に出して唱えてみる。鬱屈していた心が、わくわくと踊りだすのを競は感じた。
(今度は負けるものか――)
面白くなってきた、と競は唇をペろりと舐めて、廊下を歩いていった。
  一番奥まった部屋のほうから、艶やかな歌声が流れていた。幸の声だ。声を頼りに忍んでゆく。
  と今度は白太夫の声も聞こえた。
「お見苦しいものをお見せいたしました」
「いやいや、いたいけな童の傀儡舞とは珍しい」
  やんや、と膝を打って、老人は喜んだ。中尾父子は白大夫を奥へ呼んで、その芸を肴に飲んでいたらしい。そういえば宴席に幸の姿が見えないと思っていたが、ここに連れてこられていたのか、と競は得心した。
  中尾は幸を呼んで菓子を取らせると
「下がっていよ」
と部屋から出そうとした。老父がそれを押し止めて、
「こんな童を警戒することもあるまいて。どれどれ爺の膝へきやれ」
孫でも可愛がるように、差し招く。幸は素直に寄っていって、ちょこんと老人の膝の上に腰を下ろした。
  競はじっと気配を轡して∵整戸の陰から機会を伺っている。
  中尾は老父のさまに舌打ちして白大夫を近くへ寄らせた。
「して、どうじゃな」
  中尾の問い掛けに、白大夫はすらすらと諸国のさまを語る。猿楽者が間諜の役目を果たすのはそう珍しいことではない。にこにこと笑いながら、諸大名の情勢をつまびらかに話していった。
「黄母衣の大木が急病で死んだ、という話が聞こえた」
  と中尾が言った。黄母衣の大木というのは隣国山城で音に聞こえた荒武者だ。岸辺とも度々戦をしているが、大木は負け知らず。手痛い目にあって軍を引くのはいつも岸辺の方だった。
  とたん、白大夫の眼が氷の冷たさに変わった。口はまだ笑みを浮かべ、にこやかな調子で祝儀を述べる。
「それはようございました」
「恐ろしい男だ、お前は。いつのまに猿楽一座など作ったのだ?」
「よい隠れ蓑でございましょう」
  差し出された盃をおしいただいて、飲む。中尾はそれを見てフン、と笑った。
「では次の仕事だ」
ヒソと声を落として白大夫の耳にささやいた。
「承って候」
白太夫の固い声とともに中尾は前へ倒れこんだ――。
「む?」
怪訝な顔で老父が白大夫を見る。白太夫は中尾の身体を柱へ持たせかけ、
「お酒が過ぎられたようでござります。さて此度は御老父さまのためにひとさし1」
穏やかに笑って舞扇を開いた。
  羽衣だ。美しい天女が座敷に舞い降りた。老父の間近まで天女は近寄り、とろけるような声で謡う。
「いや、いつわりは人間にあり。天にいつわりはなきものを――」
  光が一閃して、消え、
「天の羽衣 浦風にたなびきたなびく――」
  白大夫か舞終わって、留め拍子を踏んだ。
  老父の身体から首が転げ落ちた。
  血が吹き出して、幸の衣を赤く染める。
「白太夫……ッ」
  我を忘れて踏みこんでみたものの、どうしていいか競にはわからなかった。
「あ、きおうちゃん」
  幸があどけなく競に笑いかけた。
  白太夫の、中尾さまは酔いつぶれられたご様子、という言葉を、侍たちは素直に信じた。ずっと出入りの白大夫を信じきっているのだろう。幸はもう血で汚れた縫箔を脱いでもとの辻ヶ花に着替えていた。
  一座は事もなく辞去してその晩のうちに峠を越えた。
  それから一日行程の浜辺で、白太夫は酒宴をはった。美しい、満月の宵だった。
  身内だけでの気の置けない宴で、座員たちはこころおきなく酔っていった。
  白大夫はみなから少し離れた松の根元に腰を下ろして、低く謡っていた。競はしばらくそれを聞いていたが、思い切ったようにツカツカと詰め寄った。
「きおうか」
  白大夫は微笑した。
「おまえにはとんだところを見せたな」
「見たのは幸も一緒だ。……気にしてないみたいだけど。それより」
刀、と競は催促した。
「すり替えてすまなかった。鞘はおまえに渡したのが本物だが」
言いながら抜き身をわたす。競は黙ってそれを受け取った。
  ひゅん、と一振り。手に馴染んで軽々と空を斬る。競はもう一度確かめるように振って鞘に収めた。
「あれは不思議な子だな」
  幸のことだが、と白大夫は言った。
「目の前に首が落ちて、顔色も変えない」
「幸は変わっているんだ」
「なぜあの子と旅を?」
  競はこれからの旅に障りにならない程度に、かいつまんで経緯を話した。
「幸はきおうを探しているのさ」
そう、きおう、と名乗っただけで無条件に懐いてきたのだ、幸は。
  白大夫は少し考える顔になった。
「そういえば、丹波猿楽に鬼王丸という舞上手の稚児がいた」
  競は目を丸くした。そいつだ、と直感した。幸の求めているのは――。
  白大夫は幸を呼んだ。
「なぁに? また舞ってくれるの?」
「いや‥‥」
  白大夫が静かに幸の頬を見つめる。
「儂がその、鬼王丸だとしたらどうするね?」
  競は息を呑んだ。まさか、まさかと胸が鼓動する。
(ばか、これでめでたしめでたしじゃないか)
競は自分の心を叱咤した。これで気楽な一人旅に戻れる。
  幸はそんな競の心を知ってか知らずか、不思議そうな顔で白大夫を見上げた。
「白大夫は白大夫でしょ?」
  少しの間を置いて、白大夫は「ああ」と答えた。
「ああそうだ。呼んですまなかったね。みなのところでご馳走を食べておいで」
うなずいて歩いていく幸を、哀しそうに白大夫は見送った。ぱらりと舞扇を開いてじっと見つめる。
「むかし、飢饉でなにもかもなくした孤児がおっての。中尾善右衛門という武士に拾われて、持ち前の勘の良さを買われ、忍びの術を仕込まれた」
  問わず語りに、白太夫は訥々と話した。
「情報集めもしたが、主な仕事は暗殺だったよ。身を隠すため、猿楽者に化けて……」
  話に聞く伴天連の告解というのはこんなものなのかも知れない、と競は思った。人知れず胸に秘めてきた、重い固まりを少しずつ放してゆく。聞いているのは天と地だ。そうれば風が罪の穢れを祓ってくれるだろう。
  本当に私は猿楽者になりたかったのだ、と白大夫は今にも泣きそうな声で言った。
  舞台に立てば、自分の素性を忘れられる。罪も報いも後の世も、忘れ果てて……天女にも鬼神にも大自在に変化して、思うさまの世界を描きだし、観客もそれに酔う……。そうしてはかない浮世で生きていく力を生み出せる。こんな素晴らしい稼業がまたとあるだろうか……。
  白大夫は水を得た魚のように、あちこちの座で舞い踊りながら、自分の仕事を呪ったのだろう。そっとそっと気の遠くなるような我慢を重ねた。忍びの任から抜け出すための、足場を築き、また中尾を油断させ信頼を得るために。そうして中尾が関番を仰せつかって、城下から離れたそのときに、父子ともに殺して自由を得たのだ。
「したが猿楽者は誇り高い民よ。かれを騙って人殺しをしてきたこの身を許しはすまい。だが独りではいかにも寂しい……」
  幸の、舞い上手な無垢な魂は、それこそ白大夫には天女に見えた。幸と道連れならば、どんな辛いことも慰められる。そんな気がしたのだ。
「儀はあの童が欲しかったわ‥‥」
「幸はやれないよ」
  ぽん、と競は言った。
「そうだろうな。幸はおまえと一緒がいいようだ」
「でも白大夫には一座があるじゃないか」
  白太夫は競の言に顔を歪めた。
「猿楽者は誇り高いと言ったろう」
「小六も猿もみんなそんなことには気づいてない。白太夫は舞のことしか考えてない、飄々としたヤツだと言ってたぞ」
「まだこの上に嘘を重ねろというのか?」
「ばーか、あんた弱気になりすぎてるよ。嘘も方便って言うだろ?」
  あんまり明るく競が言うので、白大夫は思わず日を丸くした。
  競の目は真剣そのもの、そして二ヤと笑って片目をつぶる。本気で競はそう思っているのだ。自分が上手くやるためには、嘘も駆け引きももちろんありだ。そしてまわりも上手くいけば、それが一番いいに決まっている。
  白大夫は競の顔をまじまじと見つめて、ついに、うふっ! と吹き出した。そのまま呵々と大笑する。いつも見せていた、人を喰ったようなにこにこ笑いではなく、腹の底から笑っている。
「ばーか」
と競はもう一度言って、自分も思いっきり笑った。
  浜のほうから小六の酔った謡声が潮風にのって流れてきた。月影が明るい。
  白大夫は宴の方へ歩きながら、競を招いた。
「お前も早く来い、酒がなくなる――」
競はうなずいて駆け足で追いかける。
「競――。おまえも座に入らぬか。筋はよさそうだ」
と小六。
「やだね」
  競は舌を出した。
「きままにふらついてる方が、性に合ってるよ」
  猿がもともと赤い顔をさらに赤くして、木曽踊りを踊りだす。寄せ来る波は鼓の音。酒に酔い、月に酔う人々の高歌放吟。黙々と酒を口に運んでいた白大夫が微笑してつぶやいた。
「夏の月にこれだけ浮かれるやつ-毒しい!」
「それは違う、太夫」
小六が歌うように言う。
「月に浮かれてるんじゃないんで。浮世に浮かれて狂うんで」
  さんざんに酒を飲む。この場の空気自体が美酒となったよう。競もそれに酔って夜の中に包まれていった。
  次の朝――。
  波の音で競は目覚めた。
  白大夫の一座は影も形も早や消えてなくなっていた。まるであれが夢であったかのように。
  ただ荷車の轍とかれらの足跡が西へ向かって続いていた。
  幸がいつのまにか起きてきて、競の裾を引っ張った。
「白大夫、いっちゃったね」
「うん‥‥」
  競は足跡の続く方を見つめた。
  昨夜、白太夫は出雲へ行く、と言っていた。出雲にはおもしろい巫女舞がある、と。芸の道をひたすら歩むのが、かれの贖罪なのだろう。
「あみだ仏よや、おーいおーい」
  競は西に向かって唱えてみた。
  また縁があったら会えるさ、と競は小石を拾って、海へ向かって力一杯投げた。
(あみだ仏よや、おーいおーい)
  こだまが岬にはねかえって、おーいおーいと海岸に響いていく。
  競は踵を返して東へと歩き始めた。幸がちょこちょことついてくる。
  さてどこへ行こうか、と考えながら、競は太陽に向かって歩いた。

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