競と幸 第3話 親しらずのこと

 父のことを聞かれたので、知らないと答えた。母のことを聞かれたので、覚えてないと答えた。
「じゃ、家族は?」
「きおうちゃん!」
  幸の抱いた人形の幸か、まっすぐ競を指している。競は頭を抱えこんで質問をかえた。
「自分の生まれた所は覚えてるか」
  うーん、と幸は考えこむ。
競は自分か人達いの家族だと承知している。幸が自分を慕ってくれるのは嬉しいけれど――。できれば本当の「きおう」に渡した方がいいだろう。そう思ってなにか手掛かりは、と聞いたのだが……。
「あのね、椿かさいてたの」
  幸が語りだす。
「海があって、がけがあって、……海があれるとにんぎょかでるの」
「人魚?」
「にんぎょ。でね、冬になるとゆきがつもるの」
「……冬に雪か積もるのは当たり前だろが」
  期待はしていなかったが、やはりなんの手掛かりにもなりそうにない。ま、いきあたりばったりの旅でもいいや、と競は思いなおした。
  このところ、ずっと海岸に沿って東に歩いている。魚や貝を取って食べ物には困らない。それに幸の人形操りが、白太夫の一座と別れてからも、思いのほか人に受けて小銭を稼ぐのは嬉しい誤算だった。おかげで顔も危ない橋を渡らずにすんでいる。
  遠くで雷公が暴れてい音がする。炎暑は海から熱気を立ちのぼらせる。街道の、松の葉影に六地蔵の堂があった。
「あついよぉ、きおうちゃん」
  泣き言を言いはじめた幸を堂に入れて休ませる。
  六地蔵は六道の衆を助ける地蔵菩薩。旅人を守ってくださると信仰を集めている。六体並んだその顔はいずれも柔和で優しい。土地の有徳人が建てたらしいこの堂は、まだ真
新しく白木の匂いがする。
「でも蒸すのは外と変わんねぇや」
と競は愚痴を言った。ひょい、と供え物の団子をつまんで、幸にもわけてやる。
  ごろごろと空が鳴る。湿気がずんと重たくなって、暗く妙に澄んだ空気が垂れこめる。
稲妻が雲を切り裂いたのきっかけに、桶をひっくりかえしたような雨が降り始めた。
  競は下帯一つになって、雨の下に走り出た。大事な朱鞘だけは背に負って、幸にも来いと言う。
  海辺の川は塩気を合んでいるので、入ってもべたべたするばかり。ときおり漁村の井戸を使わせてもらう他は、毎日の夕立がが行水の代わりだ。
  幸の背には火傷の跡か、肩甲骨のあいだににぶく光る痣があったが、それを気にするでもなく気持ち良さそうに雨を浴びていた。
  雨に追われた旅人たちが、次々に地蔵堂へ入ってくる。山伏、放下、行商人、牢人風の武士もいる。雨がやむまでほんの一時のかたらいが生まれる。行く先に戦は起こってないか。道のりの様子は。
「坊、どこまで行くんだ」
と、隣に座った薬売りが競に聞いた。
「東へ。どこまでかはわからん。この子の家を探してるから」
競は幸に服を着せながら答えた。
「ふ-ん、酔狂な坊主だ。だが東へ行くなら気をつけな。この先は、街道が絶壁の上を通る」
切り立った崖に、どうにか人一人通れる程度の桟道を通してあるだけの道。それは二里ほどの距離だが、ぐるりと岬を回り、荒波と風とがひっきりなしに襲ってくる。道連れを振り返る暇もなく、親や子を思う暇もなく、ただ自分一人を頼りに歩かねばならない難所だ。
「子供の二人連れでは難しいぞ」
「でもほかに道はないんだろ」
にっと笑った競に困惑したていで、ああ、と薬売りはうなづいた。
「やい、薬売り。黄檗(きはだ)はあるか」
間に割って入ったのは、赤く日焼けしたいかめしい顔の、五十がらみの山伏だった。
「はい、ございますとも。……ほかにご入り用は?」
「そうじゃの、沈香があればそれももらおう」
「申しわけございません。あいにく沈香は、あっしごときには手に入りませんで」
「では黄檗だけでよい」
横柄に答えた山伏は、ふと興味深げに覗きこんでいる幸に目をとめた。
「……そなた、どこかで会ったかな」
  薬売りに代金を支払うと、無遠慮な目つきでしげしげと眺め、得心したように何度もうなづいた。
「なんか、用か。その子は俺の連れだけど」
警戒心をあらわにして競は言った。山伏はいやらしい愛想笑いを浮かべる。
「わしは、出羽は羽黒山の甫祥坊。ただいま本山へ戻るところじゃが……。豎子(こぞう)、この子との道連れはいかほどかな?」
「二ヶ月」
「そうか、そうかJ
  うなづいた後、今度は幸に話しかける。
「久しぶりだのう。その人形をまだ持っておったか」
甫祥坊は幸の頬を撫で、人形の頬を撫でる。幸はきょとんとして目をしばたかせた。
「幸、このお山伏を知ってんのか?」
  競は不機嫌な声で言った。なんともこの山伏は気に入らない。
「幸、知らない」
ふいっと甫祥坊から目をそらして、幸は言った。競は胸をなでおろす。
「そうかそうか、覚えておらぬか。覚えておらぬならそれでよい」
  そう穏やかに言った甫祥坊は、やんわりと幸の手を掴んだ。
「わしはお前をこの十年、探していた。一緒に来てくれような?」
  そのまま手を引いて立ち上がる。
  きおうちゃん、と戸惑う幸の声がした。
  刹那、子供の手を引いた右手に鋭い痛み。思わず手を離すと、競が朱鞘を抜いて睨みつけていた。刀の向きと手の無事で、みね打ちとわかる。
「……その子は俺の連れだって言ったろ」
  甫祥坊は小癪な邪魔者を睨み返す。
「なにも知らぬ豎子が。黙っておれい」
競はひるまない。太い眉をきゅっと引き寄せて一気に言う。
「その子は今年七才だ。なんで十年も前から探せる。……なにも知らない小僧でも、それぐらいの勘定はできる。衆人の中、かどわかしたぁ……馬鹿にすんない!」
  甫祥坊は激昂するかと見えたが、ふと肩の力を抜いてかわりに嘲笑が漏れた。.
「なにがおかしい」
  競は□をとがらせた。
「豎子、やはりなにも知らぬと見ゆる。この子の正体を知らぬとな」
「知りたいことなら、自分で勝手に知る」
かっとなった競は刀を振り上げた。甫祥坊は錫杖をじゃらん、と鳴らして受けの構えを取る。いあわせた旅人たちが騒然となる。
「これ、坊。さっさとあやまりな。行力自在のお山伏に逆らって、なんになる」
  心配そうに薬売りが言う。
「悪いのは向こうだ」
言い捨てて飛びかかろうとしたとたん、刀の柄をしたたかみぞおちにくらって、競は床にかがみこんだ。今まで黙って座っていた牢人が冷やかに競を見下ろしていた。
「……喧嘩は外でしろ。みなの迷惑だ」
「いや、かたじけない。とんだ豎子で……」
  礼を言おうとした甫祥坊をその牢人は一蹴した。
「御坊も出てゆかれよ。今のはどう見てもかどわかし。どんな事情があるかは知らぬが、これ以上わしの機嫌が悪くならぬうちにの」
  鯉口を、ぱちんと鳴らす。甫祥坊は舌打ちして、そそくさと堂を後にした。雨音はいつのまにか止んでいる。
「きおうちゃん、だいじょうぶ?」
  幸がそっと競の背をさする。
「ああ……大丈夫だ。でもまたあいつに会ったら剣呑だから、出発は明日にしよう」
幸はにっこり笑ってうなづいた。競は体を起こしながら、暴発を止めてくれた牢人を見た。
  総髪を茶筅に結い、少し影のあるすらりとした細面に不精髭が生えている。着用した黒の小袖と袴の汚れ具合で、相当の長旅とわかる。見たところ壮年のようだが、先に甫祥坊を睨みつけた眼光は、ずっと年長のはずの甫祥坊が怯むほどの威圧感があった。
  一人、二人と雨上がりの路へと、堂を後に出発していく。雨が湿気を持ち去ってくれたようで涼風が松林のほうから吹いてきた。薬売りが
「じゃ、坊。気をつけてな」
声をかけて出ていき、堂内は牢人と競、幸だけになった。
  その牢人も網傘をかぶり、ただ一つの荷物である弓を持って出ていこうとする。
「おっさん」
  競の声に、牢人は足モ止めた。
「さいぜんは、すまない。恩に着る」
「……その程度の分別は持っていたか」
「あんな喧嘩、しても負けるだけだ。やったってしょうがないよな」
  競にしては珍しく、沈んだ調子で言う。牢人は傘をかぶりなおした。
「用がそれだけなら、行かしてもらう」
「名前、教えてくれよ」
「行きずりだ。知ってどうする」
「――俺は、競だ」
「競か。覚えておく」
牢人はそれだけ言うと、最後に幸を一瞥して、ふん、と笑った。そのままぴしゃりと扉を閉めて、立ち去った。
  競は感嘆のため息をついてそれを見送った。鮮やかな印象が胸に残っている。
「すげぇなあ……」
思わずつぶやいた競に、幸はちょっと首をかしげ、□をとがらせて言った。
「でも、幸、あの人きらい」
「でも、今の恩人だ」
  言って競は、腰の朱鞘を抜いてじっと刀身を見た。元の持ち主の岸辺が魚妖を斬ったというこの刀は、ときどき魅せるように刃紋がゆらいで見える。
――軽くて持ちやすいんだけど・
  俺には過ぎる刀なのかな、ときどき考える。どうも自分が刀に振り回されてるような気がして。持っていると妙に気が大きくなる。使ってみたいと衝動にかられる。
――それで今日みたいな喧嘩してたら、世話ないや
  競は刀を鞘に収めた。幸がまた謡っている。人形の裾から手を入れて、すいすいと舞わせるさまは、普段の幼い幸とは別人のようにも見える。
  そういえば幸は妙に旅憤れている。いきなり屋敷から連れだされて、野宿の続く辛い旅のはずなのに、たいしてこたえている様子もない。
  ひょっとしたら、旅の傀儡一座の子かも知れない、と競は思った。白太夫の一座は知らなかったようだけれど。
  じゃあ家を探しても無駄かも知れない。あの連中にはもともと家らしい家はないから。ずっと旅をしている着たちだから。
「くすむひとは 見られぬ ゆめのゆめの、ゆめのよを なにしょうぞ くすんで いちごはゆめよ ただくるえ」
  幸の声が朗々と響く。
  もしそうなら、幸とずっと旅を続ければいい。人違いでも身代わりでも、幸は自分のもとにいるのだから。
  競には自分が誰かと一緒に旅ができるなんて、今もって信じられないことのように思える。そもそも、やばくなったら幸を見捨てればいい、と思って連れて歩いていたのに、なんとなくずっと――離れられずにいる。
  ずっと旅を続ければいいなんて、なんで思うのか。自分でも不思議で仕方がない。あの幸を欲しがった白太夫の気持ちがわかる気がした。今の削那の夢ならば、その夢に狂っていたい。
  競の膝を枕にして、幸は眠る。その安心しきった寝顔に、ときどき腹だたしくなる。もし、自分が裏切ったら、この子はどうするんだろう。
一度聞いてみたことがある。
「俺がいなくなったら、どうする?」
すると幸はにっこり笑って明快に断言した。
「きおうちゃんはいなくならないもん」
  戻ってきたきおうちゃんはもう幸のもの、と言って首にしがみついてきたので、肩車をしてやった。幸の身体は羽のように軽かった。

 あくる朝はすがすがしく晴れた。蝉の声に目をさます。カナカナカナとさみしげな声でひぐらしが鳴く。夏はもっ終わりに近づいている。
海ほおずきを拾って、ビィイーツと吹き鳴らす。幸がねだったので、もう一つ拾ってやった。
「今日は急ぐからな、幸」
競はそう言いながら、人形を幸の背にくくりつける。日の高いうちに桟道を越えたい。
  道が次第に上り坂になって、崖上へ向かう。風がきつい。高波が砕けて潮を吹く。細かいしぶきが霧となって頬を濡らす。
  松の材で作られた桟道はつねに柔らかく濡れている。海側にはてすりが一本作り付けてあるが、競はともかく幸には届かない。
  幸を先に立たせ、崖にへばりつくようにして歩いた。ときどきすべってよろめくのを支えてやる。
「大丈夫か、幸」
「うん、だいじょうぶ」
  幸はときどき海を見やっては、波に見とれている。
「ねえ、きおうちゃん。あんな大きななみ、入ってみたらきもちよさそう」
「ばか。気持ちいい前に死んじまう」
「そうかなあ」
ふふふ、と笑って幸はよろめきながらも楽しそうに歩いていく。
  桟道のちょうど半分、岬の鼻をまわったところで幸は立ち止まった。
「どうした」
聞いてもむっつり黙っている。崖の方へ幸を押しやって前へ出ると――
  甫祥坊がそこにいた。錫杖が風にカランカランと鳴っている。
「待ち伏せかよ、おっさん。汚ねぇなあ」
睨みつける、く赤ら顔をにたりと笑わせて甫祥坊が言う。
「おう待ったとも。十年の歳月を思えば、これしきなんとも思わぬわ。さ、その娘をこちらへ貰おう」
「……売りとばそうってロか、それとも自分で楽しもっってロか? どっちにしろやだ
ね」
「この徳の高い甫祥坊が、そのようなことをすると思うか。もっともっと、遥かに素晴らしいことに、その娘が必要なのだよ」
「悪いけど、 この子は俺と一緒がいいって言ってんだ」
「この子と言うが、その娘はお前より年上ぞ。いいや、わしよりも年上かもしれぬ」
「なんだって?」
「その人形を見てみろ。娘に似ているとは思わぬか」
  甫祥坊の目は真剣だ。競は幸の背の人形の、顔を見る。
  十七八の若い娘の顔。黒目がちの大きな瞳。うっすらと桃色の頬。白磁の肌――。
  くすっと笑う声が聞こえた。幸の声だが、一瞬人形が笑ったのかと思った。
  幸が大きくなると、きっとこんな顔になる。
「わしがまだ師について修行をしていた頃のことだ。師は一人の若い娘を連れてきた。美しい娘だった。男が放っておかないような――。事実そのとおり、娘は身体を売って牢
人の父の暮らしを立てておったのだ。そこまではよくある話。ところが――娘が年を取
らぬとなれば、話は別だ」
  甫祥坊はそこで息を継いで、反応を確かめるかのように競の顔をじっと見た。べろりと唇を舐めてゆっくりと言う。
「娘は、人魚の肉を、喰ったのだ」
「めでたいやつだ。そんなこと、本気で信じてるのか」
  競は言下に否定した。幸の手をぎゅっと握る。
「どけよ。先を急ぐ」
  甫祥坊が大きな体躯で道を塞ぐ。
「師は年を取らぬ娘を哀れに思い、せめて身体を売らずともすむように、娘を七つの幼女の姿にした。その時年を封じたのが、それその人形よ」
  幸は目を伏せて唇を噛んでいる。しぶきが痛いほどに頬を打った。間近にある、甫祥坊の赤い顔。
「事実その娘は、あの時から変わっておらぬ……!」
「他人の空似だ」
「可能性があれば、それでいい。不老不死の人間を呪法に用い、わしは、永遠の命を得る……」
  甫祥坊の手が、幸に伸びる。刀に手をかけようとして、一瞬競は戸惑った。
  刀に振り回される――。
  その間に、甫祥坊は入った。競はしたたかに突き転ばされ、刀は鞘ごと桟道に転がった。
  とっさに鎌を、手に持つ。けれど甫祥坊の身体で、幸が見えない。
  幸は後ろにふわりと避けた。甫祥坊の手か空を切った。
  てすりの間に、幸の袖が舞った。
「――馬鹿な」
  甫祥坊は顔を歪めた。呆然と手を見る。次の瞬間、競に突き飛ばされて尻餅をついた。
  競の足がてすりを蹴った。
  幸が落ちる。それしか考えていなかった。しぶきのむこうに幸の辻ケ花が見える。それにむかって思い切り手を伸ばした。届くほずのない、手を――。
  巻き上がる波が見えた。全身に感じる衝撃とともに競は海中に呑まれた。
  競の身体は波にかき回されて、もう上下の感覚がない。まつわりつく泡と、暗くなる意識。□の中に辛く潮と血の味。
  ――幸、
  と少女の名を呼んだ。
  暗い視野の中にほの白い顔が浮かび上がった。
  ――幸?
  十七八の若い娘の顔。そこから白い細い手が差し伸ばされる。ゆったりと娘の身体がうねる。腰の辺りが、きらりと煌いた。
  夢を見ている、と競は思った。あいつがあんなに言うもんだから、人魚の夢。
  そこまでで夢も途切れた。意識のなくなった身体が、ただ海中で揉まれていた。
  甫祥坊は海に落ちる二人を呆然と見ていたが、気を取り直して潮の流れを見定めた。豎子は死ぬだろうが、あの娘が本物ならば、不死だ。流れ着いたところを捕まえればいい。
  かえって好都合、とほくそえんで振り返ると、目の前に地蔵堂で邪魔をしたあの牢人が立っていた。
  浪人はゆっくりと朱鞘を拾い上げた。
「この刀は、もとわしの物でな。請われて岸辺に渡したが、やはり岸辺は気に入らぬと見ゆる」
  ひとりごとのように言う。
「見ていたのか」
  甫祥坊は呻いた。牢人は静かにうなづき
「ああ、全て見た。面白いものを見せてもらった。これであの小僧のほども知れる」
嬉しそうな笑みを浮かべる。その笑みに圧倒されて、甫祥坊は後ずさった。
「……一つ御坊は聞違っている。あの娘は人魚を喰ったのではない。人魚そのものだ」
  一歩、前へ出る。また退いた甫祥坊の背に、てすりがとんと当たった。
「師にしかと聞いておくべきだったな。もっとも利用法は同じだが」
  食すればよいのだ、わしのように。と、乾いた笑いを洩らして牢人が言った。その目に、酷薄な光が宿る。
  ひっ、と甫祥坊は息を詰めた。
「その若い娘の、『父』の顔は覚えておらぬか。――いずれにせよ、あの娘は御坊には過ぎたものだ」
  牢人は朱鞘を抜いた。競が抜いたときとは比べ物にならぬ殺気がこぼれ出る。
「――限られた生を有り難く生きるか、あくまで不死を求めるか」
さらに一歩。
「わ、わ、……わ…しは…死にたく……ないっ」
  あえぎあえぎ言った甫祥坊の足元で、濡れた丸太がずるりとすべった。巨体が真っ逆さまに海に落ちる。最期の叫び声だけが、長く尾を引いて崖にこだました。
「つまらぬことよ。悟りにははど遠い」
牢人は甫祥坊の消えた海面に冷たく言い放って、相手を失った刃を静かに朱鞘に収めた。
  真っ白な闇の中に、波の昔が聞こえた。逆巻く波の立弓身体に触れる、暖かい人肌の感触。するりとそれが離れたので、無意識に身体をひねって後を追った。
  離れかけていた手を、つかむ。とたんに闇が切れた。
「あ、きおうちゃん、おきた」
  幸が嬉しそうに笑っていた。競は幸の手を撮ったまま呆然とした。
  幸を追って、崖から落ちて、そして……
「幸、おまえ、怪我は?」
  半身を起こし、小さな肩を掴んで、思わず強い語調で聞いた。一瞬きょとんとしたあく幸はゆっくりこ首を横に振った。     ㌻
  競が寝かされていたのは、浜辺の納屋らしい。網や櫓、魚籠やあか汲みなどが無造作に片づけてある。波の音は先までの荒々しい音ではなく、調子良く打ち寄せる軽快な音。
「小僧、目が覚めたか。よくよくこの娘に気に入られたと見える」
  そう言って入ってきたのは、あの牢人。無表情に競の着物を放ってよこした。袖を通すと、心地よい太陽のぬくもりがある。浪人が干しておいてくれたものらしい。
「……あんたが、助けてくれたのか?」
遠慮がちに競が聞くと、
「早合点だな。わしはここまで運んだだけだ」
牢人は競の横にどっかりと腰を下ろした。この男を嫌いだ、と言っていた幸が、眉をき
ゅっと寄せて間に割って入る。競を守るかのように。
「じゃ、誰が……」
  競の問いに牢人は答えず、懐から朱鞘を取り出して差し出した。
「これはおまえのだろう。桟道に置き去りだった」
「え――」
  競は一瞬、眩しいものを見るかのように目を細めた。二三回目をしばたかせたあと、今度度は目玉をひんむいて、しげしげと見る。
「……うん、俺のだ。あんがと」
  競はじっと朱鞘を握りしめていたが、やがておずおずと聞いた。
「あの……、鎌は、なかったか?」
「いや、なかった」
「そっか……。じや、海ん中だな」
  少し寂しげにうつむく。
「腰に差していた、あの年季の入ったやつだな」
牢人の声に競は黙って、ただうなづいた。
「惜しいことをしたな。道具とはいえ、長年の愛着は断ちがたいものだ」
  端正な顔は相変わらず毎表情だが、声は穏やかになっている。
「その刀を大事にしてやれ。鎌と同じようにの。……今はまだ扱いきれぬようだが、使い慣れるとそれほどいい刀はない」
  競ははっと頭をあげた。
「おっさん、この刀知ってんの?」
「ああ、もと使っていた」
  さらりと答えが返ってきた。驚いて競は刀を突き返す。
「じゃ、これ、おっさんのじゃないか!」
助けてもらったのに、これ以上刀まで自分のものにはできない、返す。と主張したのを牢人は退けた。
「でも助けてもらったし」
と再三言うとやっと牢人は受け取った。が、それを自分の腰ではなく、競の腰に差す。
  また外そうとした競の手を、牢人は押さえつけた。幸がじろりと不機嫌にその手を睨んだのだが、競は気づいてはいない。ただ戸惑って牢人の顔を見つめる。
「昔、人に譲ったものだ」
  淡々と牢人は言う。
「それが、巡り合わせのすえ、今はおまえの手にある。ちょうどこの娘と同じように。それだけのこと」
  しばしの沈黙のあと、ゆっくりと手が競から離れた。立ち上がった牢人に、少し躊躇しながらも聞く。聞くべきではないかもしれない。――でも。
「おっさん、ひょっとして幸も知ってる?」
  自嘲的な笑みが牢人の顔にひろがった。
「……娘だ」
むしろ、突き放すような言い方。
「なんで、なんで……っ?」
  親子なら、なぜ幸は一人で放っておかれたのか。岸辺になぐさみものにされたのか。出会っても名乗らないのか。一緒に暮らそうとはしないのか。
  親を知らない競だけにその疑問は奔流のようにあふれいで、混乱へと導く。その底にある熱い感情は、ひょっとして怒りか? それとも……
「幸、こんな人知らない」
  幸が競の腕にすがって訴えた。そのまま横目に牢人を睨む。
「二度も幸を殺した……。こんな人は知らない」
その日はぞっとするほどに、冷やかで美しい。これがいつもの幸とは思えないぐらいに。「と、いうことだ」
  牢人はこともなげに幸の言を肯定する。競は反論しようとして絶句した。
  競は幸のことも牢人のこともなにも知らない。言い返したくても言い返すだけのものを持たない。――たとえそれが憎しみであっても二人の間には競の入る一分の隙もなく、やりきれない気持ちだけが苦く胸を満たす。
「おまえも競といったな。なぜ『きおう』を探す」
「幸が探しているから」
「幸はもうおまえを見つけたろう。幸とは関係あるまい」
  無意職に、腕の中の幸を抱きしめていた。
「……俺のけじめだ」
初めて幸と会った時に感じた予感は、もう半ば現実になっている。自分を慕ってくれる者がいる。それがどんなに嬉しいことか。それだけで、こんなにも幸がいとおしい。その感情は困惑しながらも、次第に競の心に根を張ってくる。
  もし、もう一人の『きおう』と出会ったら、幸はどちらを選ぶのだろう。
  人違いならば、早く決着を着けたい。本当に離れられなくなる、その前に。
「――菅野惣右衛門だ」
  牢人は名乗った。
「覚えておけ。『きおう』を探すならば、いずれ役に立つこともあるだろう」
「おっさんは、どこへ行くんだ?」
  競の問いに、惣右衛門はそっけなく答える。
「勝手次第」
  惣右衛門の姿が消えるまで、競は浜で見送った。
  カモメが嫌になるほどうるさかった。膝にまとわりつく幸の頭を撫でてやる。手を握る。幸の抱いた人形が手に触る。人形の、若い娘の顔は夢で見た人魚にそっくりだ。
  幸が競の顔を不思議そうに見上げて、にっこりと微笑んだ。
  街道の行く先は松原が広がっている。後ろに、あの桟道。
  ――その娘の正体を知らぬと見える
  甫祥坊の声が打ち寄せる波に乗って耳に響く。
  ――けれど、今は俺と一緒にいる
  幸の手をぎゅっと握って、一歩踏みだす。朱鞘は背に負った。腰だと鞘が幸の肩に当たるので。
  子供から少しずつ自分の中の男に気づいていく、競の夏が過ぎていく。

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