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桜の館

「隠居屋敷にするのだ」
と伊達政宗が若林に屋敷を作ると云い出したのは、還暦を迎えた年である。
仙台城は青葉山の断崖の上、家臣の登城の便を理由にしたが、なによりも政宗が大儀だったのだ。
 つぎの春そうそうに、幕府老中より許可がおり、初冬には落成した。
大手を西の奥州街道に向け、虎口を三つと内堀を備えた本丸と、外堀を回した二の丸からなる平城である。
 仙台城を嫡子忠宗にゆずり、ここに隠居するのだと盛んに云っていた若林は、作事に政宗の数寄が存分に反映されていて、剛健な仙台城とは違った趣を見せていた。
うらやましいことだ、と云っていると
「なんだ安房。そちも隠居するのか」
とひょうげた声で云われた。
 亘理の領主、伊達安房成実は政宗よりも一年年少、これまた還暦を迎えたからには、確かに隠居してもおかしくない年ではある。
「さよう、隠居領を賜へばそれもよかろうと存じまする」
と少しばかり腹立ちまぎれに云うと
「わかった。隠居領だな」
 政宗はそう笑って、さっさと参勤で江戸へ行ってしまった。
「何が隠居だ」
 成実は苦笑した。父実元が隠居した歳はとうに越えた成実だが、大坂の陣の年に嫡子を亡くしている。政宗の九男・治部宗実を猶子としたが、まだ十五歳。手元へ引きとってもおらず、嫡と正式に決まったわけでもないのに、隠居など考えようもない。
 そのままそんな話をしたことは流れ去っていたのだが、寛永七年の五月になって、佐々若狭から政宗の黒印状が下された。知行宛行状である。
みれば、宇多郡十ケ村が記され、
「都合二百貫文、加増として進じ置き候。以来隠居分の為、この如くに候。亘理知行とは各別なるべく候。よって件のごとし」
とある。
 まさか本当に隠居領が与えられるとは思いもせず、亘理とは別の知行と云われても亘理を継ぐ者もおらぬが、ともかくも「ありがたき幸せ」と拝領して、新地へ赴いた。
 新地と駒ケ嶺は伊達と相馬の藩境たる境目の城である。
「何が隠居だ」
 成実はもう一度つぶやいた。亘理に自分が配されたのは、もともと相馬への備えだが、さらに新地というのは、要は最前線をはれということだ。
 現に丸森の筆甫村で相馬との境論が起こっている。
「どこかであったなぁ、こんなことが」
 隠居といいつつ最前線にいたのは、父実元だ。政宗が家督をつぐと同時に、大森を成実に譲って隠居を決めこんだ先が、二本松領との境目の八丁目城だ。あの時成実は十七歳だった。同じ構図を考えれば、忠宗が仙台に、宗実が亘理に。政宗は若林に、成実は新地に、ということになる。
「まぁ、それにしても早い、か」
とひとりごちて、嫡と決まっておらぬといいながら、宗実に亘理を継がせるつもりになっている自分に驚いた。
 新地城は慶長の頃まで坂元城主の大町主計が預っていたが、今は廃城となり、境目を守るのは新田下総が拠る駒ケ嶺城だ。
 実は「新地城」は二つある。大町主計が預っていた山城の蓑首城、そして蓑首城築城時に廃された平城の谷地小屋城である。谷地小屋城はもともと地頭の在郷屋敷であったのだが、永禄の頃、相馬盛胤が伊達方の亘理元宗に対抗するために、丘陵上に築き直し、門馬雅楽介を城代に置いたのが蓑首城である。
 駒ヶ嶺は新地と相馬中村の繋ぎの城として取り立てられた城だが、天正十七年に両城とも伊達氏が奪い取り、そのまま今に至るまで伊達領となっている。
 南北に通る浜街道は新地の宿駅から西へ向きを変え、蓑首城の山裾を回って、また北へ向かう。
 隠居屋敷を取り立てるにあたり、成実は谷地小屋城を選び、実際に隠居するまでの城代に門馬雅楽丞を置いた。
 門馬雅楽丞は、かつて相馬盛胤の城代として蓑首城に在った門馬雅楽介の孫である。雅楽介が病死した後、その子は故あって伊達へ出奔し、実元を頼った。
「蓑首ではなく、谷地小屋ですか」
 門馬は怪訝な顔をした。そもそも谷地小屋は要害――前線基地として不向きとして放棄されたのである。
「うむ。蓑首も手入れは怠らぬようにはしてほしいがね」
 足軽を置き、土塁が使えるように草木を刈る程度でよい、と成実は云った。
 それでも谷地小屋を再整備するにあたっては、大手を南に向け、浜街道が西へ屈曲するところへ正対するようにし、街道と城の間に新地に在郷する家中の屋敷をおくことにした。
 政宗が若林へ帰ってきたのは、寛永七年霜月晦日であった。
 月が変わって成実は、新地拝領の御礼に若林へ登城した。
 挨拶がすむなり政宗はにやにや笑って
「おれの真似をしたそうじゃないか」
ときた。
「真似とは心外でございますな」
 成実は大げさに眉をあげてみせた。そもそも規模が全く違うではないか。
「山が大儀で平城にしたんだろう」
「隠居屋敷でござるゆえ。駒ヶ嶺は難攻の要害、その上に新地もでは偃武の時代に角が立ちましょうが」
「武勇隠れもないそちがそう云うたところでなぁ」
 政宗はまだおかしそうにしている。
「谷地小屋の周りはまだ荒地でござってな」
成実は続けた
「ああ、慶長の海嘯で古屋敷が流されたのだったな」
「城周りは家中屋敷とその給地。開墾させれば、周りは稲穂の海に変じまするよ」
「――なるほど、それで蓑首ではなく谷地小屋か」
と政宗は膝を打った。
「恐ろしくはないか」
「何が、でござる」
「海嘯だよ」
 慶長の大海嘯の後にも、大きな海嘯があったことがある。
また流されるかもしれぬ場所を拓くのが恐ろしくはないか、と政宗はいうのだ。
同じ平城でもこの点、若林と新地は決定的に異なっている。若林は広瀬川の自然堤防の上にあり、海からの距離も新地より遠い。
 城ができれば町場もできる。成実一人の命の問題では当然なく、いざ海嘯が起これば城があったばかりに失われる命は数しれないだろう。
「……お屋形、災厄は海嘯だけではござらぬ」
 海嘯は恐ろしい。だが、と成実は云い、政宗もうなづいた。
凶作に飢饉。噴火に戦。ざっと数えるだけでこのようになる。

元和元年 飢饉
元和二年 七月二十七日 巳下刻、大地震。仙台城の石垣崩れる。三陸に大津波。
元和三年 凶作
元和六年 蔵王山噴火
元和七年 刈田嶽噴火震動(この噴火は断続的に寛永元年まで続いた)
元和九年 蔵王山鳴動。降灰
寛永元年 飢饉、刈田岳噴火
寛永二年 蔵王山鳴動
寛永四年 一月 磐城、刈田郡に大地震。
五月 降雹凶作
七月 大暑。人多く死す
寛永六年 暑烈疫病流行人死す

慶長津波と洋船の建造、それに続く大坂の陣で仙台藩は多額の借金を負った。そのため仙台藩では米を江戸へ回送して売りさばいている。
新田開発は足りない給地を補うだけではなく、藩の借金を返すためにも、また飢えぬための食糧増産の面からも喫緊の課題なのだ。
災害そのものだけでなく、後でやってくる飢えは事態をさらに深刻にする。
「とにもかくにも、米、だな」
今度は政宗が云い、成実がうなづいた。
海嘯に対しは、海岸沿いの浜堤に松を植え、防潮林を作り、それを藩または領主の管理する御林としてむやみな伐採ができぬようにした。
「まぁ、早く隠居とゆきたいものでござるよ。新地とはよい所を下された。釣師浜の海の幸、今泉では塩もとれる」
「おや、もう塩田の作事をしたのか」
「米の他にも稼がねばなりませぬからな」
そしてもう一つ、特産が新地にはあった。高波の後などに浜に出ると、白砂が洗われ、黒く光る砂浜が現れることがある。砂鉄である。
この砂鉄を普段から採掘し、鉄を得る。
「若林にはそういう楽しみはないな」
政宗が少し羨ましそうな顔をした。
「実は少々真似もさせていただきまいた」
成実がそう云うと、政宗が身を乗り出した。
「若林に梅をお手植えになりまいたな」
高麗の役の際、彼の地から持ち帰った梅を挿し木で増やしたものである。
「それがしも花木を植えさせていただきました」
成実は微笑んだ。
「何を」
「桜を」
桜の花は、種を蒔き、田を打つ稲作の季節を知らせる。

成実が新地城に隠居する日はついに来ることがなかったが、門に植えられた桜はその後も植え継がれ、ために谷地小屋要害は「桜の舘」と称された。


 

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