阿武隈の河口に近く、鳥の海と呼ばれる大きな浦がある。
名前のとおり、鳥の多いところで、亘理を領する伊達成実は狩場を設け、折々に狩りに出るのを楽しみにしていた。
その鳥の海に背を向け、阿武隈の河口に向けて荒浜がある。
慶長五年に仙台の築城と並行して、材木を輸送するための運河が作られた。阿武隈河口と名取河口を結ぶ堀で木曳堀という。
荒浜は阿武隈川を挟んで木曳堀に対面する。木曳堀を開削した際に、片倉景綱が取り立てた港である。新たに取り立てたゆえに「新浜(あらはま)」と呼んだが、波の荒さからいつしか「荒浜」の字をあてるようになった。
成実は荒浜につくと、すぐに船着き場に向かった。アジサシが群れ飛ぶ中、港の復旧作業忙しく立ち働く足軽たちが礼をとろうとするのを制し、足早に桟橋へ向かう。
昨年の海嘯(つなみ)で流された小屋や蔵は、足軽八十五人を常駐させたことが功を奏し、おおかた片付いた。新しく小屋をかけ、砂を掘り、桟橋を組んで急ごしらえながらもなんとか港の体裁は整ったところである。荒浜は対岸の蒲崎とともに、仙台藩水運の南の要であり、兵站の要所でもある。真っ先の復旧が必要だった。
桟橋で舟を降りた上背のある男が、成実を認めて頭を下げた。
「ああ、挨拶はいらぬ。よく来てくれた」
成実が声をかけると男は頭を上げ、日焼けした生真面目な顔を見せた。
「忙しいところを呼び立ててすまぬが、そちに見立ててほしいことがいくつかあってな」
「なんなりと」
この男、名を川村孫兵衛という。奥山出羽をもって召し出された長門浪人である。
政宗が五十貫文を知行しようとしたところ、この男の言ったことがふるっている。
「御領内を見ますれば、野(の)谷地(やち)が大変多く見受けられます」
そこで息をつぎ、
「私を御取立くださるならば、何ほどなりとも新田を起こした分だけ、拝領つかまつりたく存じまする」
臆することもなく、いたって大真面目な顔でそう言ってのけたものだから、政宗は大笑して、もっとも、と手を打ち、当座の苗代田にと十貫文のみを知行した。
果たして、孫兵衛の才は確かであった。
仙台築城が決まると、奥山出羽とともに木曳堀の開削を進言したのが孫兵衛である。仙台城がわずか二年半の工期でともかくも完成したのは、この堀を使って材を運べたことが大きい。
木曳堀がもたらしたものはもう一つあった。
この話を成実にしたのは、成実の前に亘理を領していた片倉景綱の嫡男・重綱である。
「安房さま、面白い話がございまして」
それが奥山出羽が領する岩沼の話だった。
木曳堀が始まる名取・岩沼はその名のとおり、沼が無数にある湿地である。交通の要所ゆえに重く見られていたが、野谷地が多く使いづらい土地であった。孫兵衛が拝領した十貫文もその地域にある。
奥山出羽の岩沼城は長沼と丸沼を水堀として防衛の役にたてていたが、孫兵衛はそこに堀を回し、水路をめぐらし、木曳堀につないだ。結果、岩沼の野谷地は水のめぐりがよくなり、劇的に田が増えたのである。
もっとも、開発したのは奥山出羽とその家中だから、孫兵衛は相変わらず十貫文の知行でいる。実高は自らの水利事業でもっとあがっているだろうが、元が少ないから知れている。それでも不平一つ言わず、楽しげに命ぜられた所、呼ばれたところをかけずり回っているところを見れば、知行よりもなによりも、思うさまの費えをかけて利水の技をふるえるのを喜んでいるのであろう。
「誠に、奥山さまはうまくおやりになりました」
と重綱はいたづらそうに笑った。奥山がひとかどのものであるところは、その才を私せずに政宗に引き合わせ、伊達の直臣としたところである。
木曳堀を舟運の堀と見ていた成実は重綱の話に驚いた。
「亘理をお渡しいたしますのに、申し上げねば、と思っていたのです」
岩沼の成果に目を見張った重綱は、亘理の地を孫兵衛に見せたのだという。
その時に孫兵衛と重綱がたどった道を、亘理を受け取る時に成実は重綱とめぐった。
小堤城の跡地から亘理を見下ろすと、山と芦原に挟まれた、細く狭い土地に、街道と街場、そして田畑がはりついている。
「岩沼の野谷地は阿武隈の水でございます。ふんだんな水ゆえの湿田で収量が悪うございました。対して亘理は阿武隈の大曲(おおまがり)沿いの高地ゆえに、小坂と岩地蔵から潜(くぐり)穴(あな)を掘って川の水を引きいれております。この水が街道沿いの田を潤す」
重綱の説明に、成実はうなづいた。
この地の拝領の内意を政宗から受けたとき、成実は逡巡したのだ。
伊達家では湿潤の荒蕪地を「野(の)谷地(やち)」と呼んでいる。多くの臣を抱える伊達家では、先の移封以来、新田の開発が急務となっていた。
高麗御陣以来、十年近くを上方で暮らした。上方での交際や遠く高麗への出兵は、信じられぬほどの物入りで、陸奥に黄金花さくとはいえ追いつかない。あっという間に借金の山ができた。封土は広く、金銀山があるとはいえ、やはり生活を支える主食であり、一番の換金作物は米なのだ。
上方の生活の中で、一番の収穫は、すぐれた土木技術を知ったことであった。川の流れを変えて、城を水に沈める。城の周りに水堀を作る。あげくは町を作り、新しい田を拓く。この技を国許へ導入すれば、野谷地は沃野に変わる、と政宗は言い、見込みのありそうな場所を検地しては、野谷地のまま知行を加えていった。軍役などはみなその貫高によって決まるのであるから、開発せねばじりじりと貧する道理である。
成実に提示されたのは、当時片倉景綱が拝領していた、亘理郡二十三ケ村六一一貫文だった。この貫高に野谷地は含まれていないが、当然開発することを求められている。
片倉もそれゆえ、孫兵衛を招いたのである。亘理であれば漁村と漁村の間を埋める広大な芦原を田にできれば、どれほどのものになるかはかりしれない。
「引き入れた水は海へ下りまするが、これがくせものでございます。低地と海との間に高低がなく、水が流れない。また干満のたびに潮が滲み上がり、旱魃の年などは、地に塩がふくありさま。ゆえに田を拓くことは、なかなかかないませんでした」
多忙な孫兵衛はぐるりと地形を見て回り、細かな土地の高低を見極めると、利水の方法を教えてくれた。直臣である孫兵衛は直接工事に関わることはできないが、片倉は喜んで工事にとりかかった。
「高須賀と十文字の間が低うござりますゆえ、木曳堀同様、ここを掘り下げ、小坂の用水を鳥の海浦につないでやります。吉田からも悪水堀を掘り、鳥の海につなぐ、西からは鐙川を浚渫する」
工事途中でお渡しするのが、ほんとうは惜しくて惜しくてたまらぬのです、と重綱は工事現場を見ながら成実に云った。
成実は仙台から亘理に来る途に見た、岩沼を想起した。白石の役の時と比しても、通るたびに田の緑が増えている様を。
「どうぞ後をよろしくお頼み申します」
そういって重綱は亘理を去った。
海嘯が襲ったのは、昨年――慶長十六年十月二十八日であった。朝から小さな地震がいくつかあったのだが巳の刻を過ぎたころに大きな揺れが三度あった。
突き上げるような揺れで始まったその地震は、横に大きく長く揺れた。長くはあったが、昔、指月山伏見城が倒壊したときのような激しさではなかった。城の被害も少々壁土が落ちた程度で、町場も驚いて外に飛び出した者たちがたち騒いでいたが、倒壊したのは掘立小屋程度で、大方の家には障りなく、けが人はいたが人死にはなかったようであった。
念のために、と物見を境目へ走らせた。
三年前の地震では、揺れの後、不意に潮があがり、一部の舟が破損したり港の蔵に潮が流れ込んだりしたことがあった。古老に聞けば、地震のあとに潮があがることはよくあることだという。蔵の米など損じぬよう指示を出し、その程度で日常が戻ると思っていたのだ。
その後何度か地震があり、未の刻近くになって、遠くで地鳴りがした。巳の刻の大揺れの際も地鳴りがしたので、身構えたが、いっこう揺れる気配がない。それなのに雷鳴のような音のみが長く不気味に次第に大きくなった。
境目の物見は、まだ戻らない。ひどく嫌な気がして唾を飲み込んだ。
櫓で遠物見をしていた番士が騒ぎ出したとの報に、前田図書を遣わすと、蒼白な顔で戻ってきて云った。
「大海嘯でございます――。櫓より見ますれば、それとわかる白波が押寄せ押寄せ、海が陸を喰らうがごとく――」
「なに、」
成実も櫓に駆け上がって見ると、波頭はすでに砕けて見えず、靄と見まがう土埃、海岸線がじわじわと此方へ押寄せる。かろうじて十文字の村は見えていたが、その南にあるはずの村々が海と化してゆく。
しばし、声もなく見つめたあと、
「小具足」
海を睨みつけて成実はうなった。図書が傍らで目をしばたたいた。
「小具足を持てと云うておる」
意を察した図書がはじかれたように駆けおり、
「かたがた、陣触れでござる、陣触れでござります――」
と叫びながら書院の方へ走って行った。
虎口に陣を置き、ある程度の人数が揃うごとに組を組んで沿岸の村へ派遣を始めた所に、坂元へ遣った物見が帰ってきて、同様の惨状を伝えた。岩沼と荒浜へ遣った物見は戻らない。海嘯に巻き込まれたものと見て相違なかった。
鳥の海浦が干上がるほどの引き潮の後、また、波が来た。この波に取られたものも数知れず、断腸の思いで派遣をとりやめ、自力で城下に辿りついたものの救護にあたらせた。
米蔵をひらき大松明を燃やして、命を拾った者たちに施す。十月(旧暦)の夜は薄氷のはる寒さである。この大松明を見て城下にたどり着いた者たちもいた。所々の松林にすがりついたり、運よく浮いた舟で流された者たちなど、運のよかった者たちである。
ようやく波が来なくなったのは、翌夕であった。
果たして亘理領は半ばが潮に浸かった。
孫兵衛が岩沼の在所へ来る、と聞いて成実はすぐに遣いをやった。
片倉重綱から聞いた話を思い出したからだ。
「そちの知行地も大変だったのではないか」
成実は孫兵衛を労わった。
はい、と孫兵衛はうなづいた。
「木曳堀を見て参りました。堤が少々えぐられましたが、皮肉なことに堀も深うなりました。土で留めて木を植えます。すでに倒れた松を片づけて堀は使えるようになっております。奥山さまのご城下がひどうござりますな。先年拓いたばかりの田が潮に浸かってしまいました」
自ら言及せぬが、孫兵衛の早股は岩沼城よりも海に近く、阿武隈の大曲(おおまがり)にほど近いところだ。かなりの被害があったと、既に成実は耳にしている。
「どこも同じよな。拓いた田に潮が入っては当分収穫は望めまいよ」
あれから十ヶ月が経つが、潮の入った田は打ち捨てられ、百姓の欠け落ちを防ぐための殖産に苦労している。作付けをした田もあるが、生育の悪さは否めない。
成実は孫兵衛を連れ、鳥の海浦に向かった。
海嘯のあと広さを増した鳥の海浦は、以前よりも鳥が増え、魚が跳ねている。舟を作りなおした漁師たちが網を打つ姿も見える。
荒浜の港の作事が終われば、漁船を河口へ出すことを認める積りでいる。秋鮭の季節までにはなんとかしたい――
そんなことを語りながら、緑濃く雲雀のなく浦の岸辺をすすんだ。夏の心地よい風が芦を揺らして吹き抜けてゆく。
「不思議なことだ」
成実は馬上で嘆息した。
「稲は育たぬが、芦は育つ。草も木も鳥も、まるで元の如くに見ゆる」
孫兵衛はただ、無言だった。水利の技をもって田を拓くべく仕えるこの男には、この海嘯は痛恨事であろう。
だが、塩をふいていた亘理の田は、彼の提案した水利によって明らかに成果をあげたのだ。此度も時間はかかるが、地道に水を流してゆけば塩が抜けるはず。問題はその間をどう食いつなぐかにある。
鳥の海に突き出した岬付近まで来ると、百姓らしき男たちが塩を汲んでは運び、砂浜に撒いている。
「塩田でございますか」
孫兵衛が聞いた。
「ああ。前々から百姓どもが細々と藻塩焼をしていたのだが、同じ潮に浸かるならばと本格的に手を入れ始めたところだ」
塩が売れれば、大きな収益になる。領主が課税するのは塩釜に対してだ。収量が上がれば地場の経済が潤う。
見てほしいのはこれだ、と成実はその塩田を指した。
「はるか昔のことで、しかと覚えておらぬのだが――汲みあげるのではなく潮を導いて塩を採るのだと聞いたことがある」
「それはどちらでご覧になりました」
「高麗御陣の際、瀬戸の海で、だ」
孫兵衛は馬を下り、岸辺に立つと注意深く植生を見た。満潮時に潮があがる高さ、干潮時にひく高さ。岸辺を少し掘って、砂と土の質を見る。
「確か、干潟でやっていたように思うのだが」
「仰せのとおりでございます」
成実が見たのは「入り浜」と呼ばれる塩田だという。干満を利用して砂浜に潮を浸みこませ、その砂を集めて鹹(かん)水(すい)を作る。
人力で汲みあげた海水を撒くのではなく、自然の干満を利用するため、労少なくして多くの塩が採れるが、どの海岸でもできるわけではない。
まず、潮が浸みこむのに十分な干満の差があること。
波が穏やかで、浜の削られない遠浅の海であること。
そして雨が少なく、適度な風があること。
「それがしの見るところ、鳥の海浦はこの要件をよくみたしております。潮を浜に導くための作事でござりますが」
孫兵衛は申訳なさそうに言葉を切った。
「潮の扱いとなれば、それがしの手にあまります」
郷里の長門ではこの「入り浜」が多くあるので腕のいい者を探してみると孫兵衛は云った。
「頼む」
力を込めて成実は云った。
「ところで、雄勝の方はどうだ」
成実が聞くと孫兵衛は少しく嬉しそうな顔をした。
「材の切り出しが順調に進んでおります。それがしは船渠をつくるために大原川の川筋を違えております――水を貯めるための川(かわ)違(たが)えというのは私もこれまで経験がござりませぬが」
雄勝を初め北の海岸は海嘯の害がなおひどく、一村全滅したところもあるという。
厄介なのは、時折来る地震のあと、海嘯というほどではないが、潮があがることがあり土留めに苦労している。
「水をためねば進水できぬような大船が、まことできるのかの」
「できますとも」
孫兵衛の顔が紅潮している。
南蛮交易の話は前々からあったが、一気に具体化したのはこの海嘯の直後だ。
このようなときに途方もないことを、と成実は反対した。
「このようなときだからやるのだ」
と政宗は云った。
なるほど、材を切る、運ぶ人足は近在の百姓や漁民である。川を違える土木工事に従事するのもかれらだ。海嘯で全てを失ったかれらには願ってもない賃仕事だった。
最近では堺や江戸から来る船大工や商人の姿もあり、人が集まると金も集まる。
「出来上がったらぜひ見に行こう。こちらの塩田もしかと稼げるようにしてゆかねばな」「しかとお頼み申し上げます。船も見事なれば、船渠も恥じぬものを作って見せます。それに雄勝へゆく途中にみた石巻――これも水利の工夫で大化けをするかと――。亘理名取はこれまでの悪水路を――」
いつになく饒舌に孫兵衛が笑った。そしてそんな自分に気付いたのか、あ、と小さく頭を下げる。
つりこまれて頬があがるのを成実は感じた。久しぶりの感覚だった。
亘理に長州出身の伊藤三郎左衛門が訪れ、鳥の海浦は鳥屋崎浜に仙台藩初の入浜塩田を拓いたのは元和六年のことである。
あいついで亘理には箱根田浜・大畑浜・長瀞浜に塩田が拓かれ、先の鳥屋崎浜と併せて亘理四ケ浜と称し、仙台藩で重要な塩の産地となった。