畠山義継の旧臣・山口猪之丞の回顧録
「二本松市史3 原始古代中世 資料編」 昭和56年 より作成。底本は仙台叢書収載とのこと。
※一部抜粋。読みやすいよう、漢字や仮名を書き改めています。
天正13年の頃、伊達輝宗政宗と畠山義国義継と御仲よくして、相馬と伊達の御合戦の時、両度まで二本松より伊達へ人数を遣わされ、御別懇にて、信夫郡八丁目の城主伊達兵部大輔実元(政宗の叔父にて、安房守成実の父)、この実元は義継御懇意にて、絶えず双方より御音信あり。義継の御内、遊佐下総は兵部大輔かねて御懇ろなりとて、たびたび使いに遣わされ候なり。
(中略)
天正13年8月、田村殿と政宗仰せ合され、大内備前を御責め潰し、大内、城を退いて岩角の城へ移り、それより二本松へ入て会津へ退き申されけり。
これによりて政宗は大内の居城、四本松小浜の城へ御移り、また4-5町隔てて宮森という城へ輝宗居城なり(天正15年には備前も助右衛門も政宗へ奉公なり)。
輝宗は義継へ久歳の御懇意なれば、義継の御身の上を御苦労に思召して、なにとぞ和談を御入りなされたしとて、義継へ仰せいられけるは、
「ただいまの通りにては、世間広くもなり申すまじ。政宗方はずいぶん取持ち申すべく候間、よくよく御分別御返事参りたし」
と再三委細の御使いなりければ、義継も御一族新城弾正・同大和を始め、そのほかの歴々、鹿子田を先として御相談に御呼び、
「輝宗よりこのごとく、たびたび申し越され候えども、代々相続の家を我が代に至って伊達へ降るも無念なり。所詮、伊達の大勢を引取り、合戦し、運尽けば腹を切るよりほかなしと思うなり。ただし各存じよりあらば遠慮なく御申し候え」
と仰せける。
暫時誰もことばを出さぬところ、真庵・大和そのほか歴々一同に申されけるは
「御諚もっともに存じ候えども、政宗ただいめ米沢よりこの辺まで20里ほど東西南北ともに手に入られ、あまつさえ此方お抱えの小城、大方手に入られ、大内も城を明け退かれ、御譜代の大身小身ともに伊達へ心を通じ申すと風聞つかまつり候。その上、此方抱えの城々、もってのほか手詰まりなり。輝宗より再三四仰せ遣わさる、上は杉田川、下は油井川限りその内にて五ケ村を客人分に御取り、そのほかの城持ち舘持ちはただいまの如く、その城その館に居て、本知高一を取りて伊達へ奉公といい、首尾ばかりの事候上は、御同心遊ばされしかるべく候。ただいまも会津を御慕いなされ候へば、証人を遣わさらぬばかりにて、会津の旗下も同然の御事なり。御和公方の内を、折々米沢へ少し内御礼に遣わさるまでにて、当城に御座なされ候上は、別して世間のいわれもあるまじき」
と再三諫言申しければ、義継も同心ありけるとなり。
義継より輝宗へ御返事には、
「度々御懇の御使御深切なる義、辱候。只今迄我らに奉公の輩は本知にて政宗へ召し抱えられ、我らには堪忍分に上下川切に其の内の5ケ村を賜り候様に」
との御返事なり。輝宗は御無事調い候を御悦び、政宗へ御対談、前々より義継、父子へ御懇意なされ候を仰せ立てられ、宿老中へも仰せ合され候趣を仰せられ候えば、政宗仰せけるは
「相馬と御弓矢の時分は義継より二度まで加勢指し越され候の覚え申し候。然る処、近年、大内・石川へ度々の加勢後詰は口惜しき次第に御座候」
とて御得心これなきを、輝宗種々仰せけるゆえ、政宗も御得心なされ候。此の使は伊達安房守成実年若なれども、義継へ由緒あれば(父伊達実元は八丁目の城主にて二本松界へ互いに懇ろなり)、相勤められける。義継も悦んで、天正13酉年10月7日未刻、二本松より不図小浜へ御越し、伊達安房守陣所へ御出、此間かれこれの御礼仰せ述べられ、時移り暮れに及び候間、
「今晩は輝宗へ御対面はなりかね申すべし。明日御出しかるべし」
と挨拶につき、義継は宮森より御帰り、翌8日早朝義継より安房守へ御使にて
「いよいよ今日参りて諸事万端の御礼をも申したき」
よし、仰せ遣わされ候ゆえ、安房守さっそくその旨を輝宗に申し上ぐる処、
早々御出候様、仰せ遣わされ、折節政宗には近在へ鷹狩に御出につき、御迎えに両三度御使立てけれども御帰りなし。伊達上野介そのほか家老衆数多宮森へ参りて、二本松御和睦首尾よく落着、めでたきよし申し上げ候。義継も早々宮森へ御出なり。義継御供には、高林内膳・鹿子田和泉・大槻中務、3人座敷へ召し出され候。和泉座に着き申す時、和泉へ義継の士、何をか囁き申し、これは後に知れ申し候。誠に妖は下より起こると申す世話、此の時に思い当りけり。天魔の所為か、苦々しきうたき事どもなり。義継の御供の下郎、厩に参り、見候えば、中間1人、脇指の寝刃を合せおり候を、傍輩の中間申しけるは、
「何をいたすぞや。今日、二本松殿も御和睦に御出、御弓矢もなく、上下めでたしとて、御座敷にては御酒宴のよしなり。よしなき事をいたすものかな」
と云いければ、かの中間申しけるは、
「其方は知らぬかな。二本松殿の御帰りの時、1人も残さず打ち殺せと隠密の御触れあり。我も高名して士にならんと、その用意をするなり」
と語るを、義継の御供の下々聞きて、殊の外に驚き、侍衆に申せば、
「さては謀に合って討たれんことの無念さよ」
と、先ず鹿子田を呼んで、いちいち知らせ、
「下々もっぱら、その用意しける」
と申しければ、和泉も義継に告げて、
「御分別あそばされ候え」
と申しけるとなり。輝宗仰せけるは、
「昨日も今日も御出、誠に祝着斜めならず。政宗は鷹野に参り候間、迎えに追々遣わし候。料理を進じたく存じ候えども、時分がら、もし御気遣いなさるべきも、難きばかり。わざわざ祝儀までに御盃を出し候」
と仰せければ、義継も前後の御礼御申しあって、輝宗御盃を義継へ遣わされ、その御盃を輝宗へ御返し、それより鹿子田へ下され、あとの2人へも下され、伊達の宿老衆納められ候。その後双方御雑談もなくて御立ちなり。玄関まで何心なく御送り候処、義継手を地に御つき、
「今度御馳走御懇意過分至極に存じ候処、只今我らを生害なさるべき趣を承り候」
とて、輝宗の御襟を左の手にて取り、右の手にて脇差を抜き、義継の御供の侍7-8人御後に回り候。両方竹から垣にて狭く、伊達の宿老衆・其の外、何とも仕るべきようなく、
「門を鎖せ」
と呼び候うち、早や門より外に出て、くるりと取り巻き退き候ゆえ、伊達衆も周章、皆素肌にて
「やれやれ」
と云いて跡を慕い、あきれたる体にて参り候。義継の供の半沢源内は槍を持ち、遊佐藤九郎は弓を持ち、そのほかは抜刀にて輝宗を中に取り巻いて、小浜より大平の内、粟の巣という処まで(小浜より1里半の内)、参りし処、伊達方にて鉄砲を一度に二つ放し打ち申し候えば、誰の下知ともなくそのままばたばたと討ち果たし申し候。義継・御供の士36人、そのほか雑兵50余人、1人も残さず討死なり。政宗も早速に御後より御駈け着き候えども、なさるべき様なく、その夜は高田という処に(二本松より15丁。阿武隈川の舟渡なり)、御陣を御取り御座候。義継の御死骸は、小浜の町頭、小川の端に磔にかけられけり。此処に松の木を植えてあり。庶民疱瘡の者は此の松を削りて飲めば癒るなり。また、粟の巣を生害場と名づけて、松柳10本ばかり植えてあり。此処に在家4-5軒ありて7月は火を焼くという。
二本松城の留守居に新城弾正おられ候ところ、鉄砲二放し急に聞こえ候えば、
「心もとなし。自身迎えに参るべき間、いずれも具足をつけ候え」
とて、面々その用意をし、城を出、南の方、高田と申す処の舟渡まで参り候へば、向いより味方歩行士2人、大息をつき来りて、
「かようかようにて、御大将を始め、1人も残さず御討死なり。我らは罷り帰りてその段申せと仰せつけられ、遁れ参り候」
よし申しけり。新城驚きて
「又粟の巣の様子を見て参れ」
と申しつけらる。此の使い(名は失念)急ぎ川を渡り、高田山の上、物見石と云うに上って見れば、算木を乱したる如く討死なり。