「二本松市史3 原古代中世 資料編」 昭和56年 より作成。底本は続々郡書類従9とのこと。
※一部抜粋。読みやすいよう、漢字や仮名を書き改めています。
(前略)
一 右の通り、たびたび田村衆敗軍仕るについて、後は伊達政宗と清顕一身申され、輝宗父子清顕と両方より一度に塩松へ取り懸り申すにつき、塩松落城申し候。大内備前は若松へ引き籠り候。輝宗、心の儘に塩松手に入り申し候て、即ち居城として父子ともに御入り候。それより二本松義継と取り合い、出来申し候。義継の存念には、輝宗父子威勢強く罷りなられ候えば、ついには叶わず候えども、さりながら代々管領仕り候領地を、ゆえなく輝宗へ渡し、その上家来にならるべき段、無念至極のよしと、歯噛みを常々仕られ、内室は輝宗に由緒これあるにつき、和談を入れ候て、義継輝宗父子の御手につき出仕御礼、申すべき旨、内々より申し入られ候えども、政宗承引これなきにつき、内室よりさまざま輝宗へ申し入れられ候て、対面仕られ候儀、相調え申し候。義継わざと騎馬をも召さず、手廻りばかりにて小浜へ達せられ候えば、輝宗別て悦び、色々馳走これあり、数盃を尽くし、その上に一礼御座候て、玄関まで罷り出られ候えば、輝宗も見送り縁まで御出候処を、一体これあるふりをして、供に参り候鹿子田和泉と申す者と目くばせして、すなわち輝宗の胸ぐらを取り、小脇差を抜き、突きかけ申され候。鹿子田も同時に後ろより組みつき、縁より庭へ引きおろし、めた引きめた押しに引出し申し候。輝宗近習外様の侍共、あわてふためきたる分にて取り留めもうべき手だてもこれなく、跡より追々馳せつけ候て、鈴石村の内、粟巣と申すところまで両人にて引き付け申し候。その内政宗は近所へ鷹野に御出候。此の事急にに聞きつけ、走りつけ申され候えども、政宗も、ともこうも手指し仕るべき様これなく、あきれはて申され候。二本松は阿武隈川と申す川一つを隔て候て、早二本松へも此の儀相知れ、人数を出し申すを、政宗見届け、きびしく追い懸け、輝宗共に打てと呼びかけ申され候えば、家来衆さすが手出し仕る者これなく候。されども事急になり候ゆえ、義継、突きかけ申され候小脇差にて輝宗を刺し殺し、その刀にて自害仕り候。家老下々まで残らず主の供仕り候と呼び懸け、面々自害仕り候。政宗即ち二本松へ直に押し寄せ申され候えども、新城弾正と申す家来、城を堅固に持ち申すに、政宗もあきれ候て塩松に引き取り申され候事。
元和8年極月5日塩松小浜村 藤右衛門(66) 源左衛門(70) 和泉(70)
一 二本松義継は伊達輝宗父子と初めは入魂、その上内室は輝宗へ由緒これあるにつき、輝宗相馬への出陣の時、二本松より馬上50騎・鉄砲100挺加勢遣わし申され候。段々伊達家猛勢に罷りなられ、隣草の小城持ちは申すに及ばず、二千三千の大将分の衆も事故なく攻め落とし申され、皆々伊達の家来になりゆき申し候。これによりて、二本松塩松にも取り懸り申さるべききざし顕われ申すにつき、互いのためと申し合い、大内備前娘、義継の惣領義総(綱)へ取り合い、内外共に親しくなり候事。
一 伊達父子塩松へ出馬申され候は、天正12年乙酉9月24日、当年まで38年以前、塩松落城仕り候。それにつき、伊達家と二本松手切れ仕り候事。
一 義継死去に候えども、家老新城新庵と申す者、明くる7月15日まで義継の妻子を守り立て、兵糧弓鉄砲も尽き果て候えども、妻子達無事に会津へ引越申し候事。
(後略)
元和8年二本松之老人 大内体庵(70) 神主主馬(60)
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