木村宇右衛門覚書28

※一部抜粋。読みやすいよう、漢字や仮名を書き改めています。

我らも引き取る時節に、会津より猪苗代弾正心変わりの内通あり。内々この戻り足にすぐに会津へ出馬、この大敵をさえ従わせ候はば、残りは自ずから手に入ると望むところへ、猪苗代方より
「会津へ御先手随分つかまつるべく候間、まず小十郎一備早々遣わされ、これより御左右申し上げ候時、御馬は入り給うように」
と申すについて、
「さらば参れ」
と小十郎が手勢、猪苗代が使に差し添え遣わす。
「必ず一左右、早くまず」
と言い合わせ遣わし候へども、心もとなく候へば、出馬せんとするところに、親類衆始め家老の面々、
「即時に出馬しかるべからず。小十郎ご注進次第」
としきって止めらるる。諌めにつかぬは非義なりと思い、
「さらば使を越して一左右聞かん」
と、布施備後を、親類衆居られ候陰の座敷に呼び入れ、ひそかに
「そなたを唯今親類衆の前へ呼び出し、猪苗代と小十郎方へ使に越すべし。定めて返事に、出馬はこれより御左右申すべし。卒爾には無用と申すべし。必ずその通りに申すべからず。子細は心も知らぬ猪苗代が城へ、家来の小十郎を入れ候ては、ぜひ後詰に出馬せではかなわぬことなれども、しきりに無用との諌め。臣の諌め用いざれば礼儀違うなり」
と申し含め、
「早々出馬待ち申す段、申すべし」
とて、いずれも御同座に備後を召し、
「これより小十郎ところへ参るべし」
とて遣わしける。案の如く小十郎も、
「まずもって無用」
のよし申しけれども、かたく申し含めたることなれば、急ぎ馳せ帰り、
「御出馬遅しと両人御返事申す」
のよし言いければ、
「この上は思案に及ばず」
とて、その夜、取るものもとりあわせず、大雨降って暗かりしに、大山を越し駆け、猪苗代に馳せ着く。弾正も小十郎も思いよらざるところへ出馬候ゆえ、とりあわせずのもてなしなり。
さてまた会津方にては、猪苗代心変わりして小十郎を呼び入れたると聞き、
「これは籠の鳥、愚人 夏の虫なり。弾正とともに小十郎討っ取り獄門にかけん」
とて、その夜の明けるを待ちかね、会津より老若はらって出たり。これは見物事なりとて、在々町々の者ども、押し寄する勢の後に砌もなく続く。
さて夜明くれば、弾正父子、小十郎を奏者にて、一礼終わって、猪苗代と小十郎に申しつくるは、
「夜のうち、今朝までもだんだん駆け着きたる軍勢どもに、今日は4日の悪日なれば、こなたより仕掛け合戦する日にてなし。度々覚えのあることなり。必ず仕掛けたる方の負ける日なれば、戦は明日のこと、今日は人馬よく休むべし。さりながらいずかたへも違うべからず」
と触れさせ、明日の軍談合の最中に、南開の向うに櫓あり、その上より鳩2つ飛び来たり、庭前にしばしかける。その後に鴟(とび)生きたる大鮒を1つ板庇の前に落とす。すなわち自身これを取り上げ、ひとえに八幡大菩薩・愛宕大権現の御告げめでたし、と心中に礼拝し奉る。古の例を言うに、清盛、未だ安芸守たりし時、心中に願あって熊野詣の折節、舟に鱸の躍り入りたる事ありとて、御肴にして上下酒飲み祝うところへ、
「会津勢、砌もなく押し寄する」
のよし、しきりに告げ来る。今朝申し含め触れさするごとくに、今日は4日の悪日なり。かたく仕掛けたる方の負くる日なれば、味方一人も出まじきよし制すれども、押し太鼓の音近くして、色々旗色見ゆるほどなり。
「さては今日の合戦、勝利疑いなし。用意せよ。出でん」
とするところに、親類衆・家老の面々、我が乗りたる馬を取り巻き、
「敵は何ほどあるとも砌なし。その上猪苗代がことは、もとより会津台台の家臣。大敵へかかり給うあとより裏切り測り難し。御馬は城にたて給うて、猪苗代が人数、案内者なれば、先駆けを仰せつけられ候かし」
と皆、再三申さる。
「おのおの遠慮、理至極なり。さりながら昨日より猪苗代が心根いろいろ窺い見るに、忠節に心元なき事なし。会津勢取り寄する事、猪苗代が心変わり憎しと思い、また小十郎が3-4日この城にいたることも知るべし。しかるところを弾正に先駆けさするならば、いよいよ憎しみ強かるべし。無二かかって一戦を始め、我に忠ある猪苗代が中間一人なりとも、目の前に討たせては面目なし。その上心も知らぬ者どもに先をさせて、物驚き乱れなどすれば、旗本の足搦み、我が鉾先に錆をつけたるに同じ。馬を乗り出し、後より猪苗代が心変わりは是非なし。出て二度後へ帰ると思うべからず。裏切りあると見れば人数を二つに押し分け、先へ半分、後へ半分、最期所ここなりと覚悟すべし。運は天にあり」
とて乗り出す。
かくて摺上の原を見渡せば、グミの木の間々に色々の旗指物、砌もなく続きたり。ここは手立てあるところ、と思い、惣鉄砲の中より100丁選り、摺上の原の降り口・小坂のある沢に。我ら自身乗りまわし、足軽一人ずつ置きつけ、二つ玉につかせ、
「向うの高みより1-2間も人馬を降ろし、膝体にてよく試して放すべし。放しあけたる者は、鉄砲腰に差し、刀を抜き、後先見合わせ、一度に喚いてかかり、坂口に敵の支ゆるようにすべし。そっとも恐ろしきことそっともなし」
と言い含め、成実の手勢旗本少々つけて、
「鉄砲伏せたるところを、横筋違いに見て、まんまるに纏を立て、坂口に支ゆると等しく、横懸りに後をしきり給え
。我らは寄り合い鉄砲の者5-60、徒立の者ばかり召し連れ、磐梯山の後ろを回り、山より降ろし、敵の後をしきり討つべし。惣旗本は坂口を守り、本道をすぐに馬を並べて懸るべし。そのほか纏を立つる衆は、一纏一纏に先を見合わせ、正兵奇兵の二つを面々心に思い、先衆一戦い疲るると見候はば、面々鉄砲を放しかけ、入れ替え入れ替え、敵に息をつかせぬように、味方は休め休め懸りて戦うべし。小十郎は猪苗代と一つになって心を離さず、見合い肝要なり」
と申し含め、我が身は磐梯山に上がり見渡せば、摺上の原広しといえども、砌も見えぬほど敵続きたり。
「合戦の場はよし、今日の合戦勝利疑いなし」
と思い、黒脛巾の者4-5人申しつけ、
「この山の腰につけ、何事あるともかまわずに日橋へ駆け着き、何とぞ才覚をもって、日橋を焼き落とせ」
と言いて遣わし、絞りて持たせたる日の丸の小旗を山先に張り立つる。
後に聞けば、会津衆、
「猪苗代が城に小十郎一人呼び入れたると思いつれば、おびただしき人数にて政宗公の御出馬。磐梯山に日の丸の旗見ゆるは案に相違したる」
と一人二人言うこそあれ、後より崩れかかる。しかるところに、坂口の鉄砲なると思えば、横懸りに成実の手懸るを見て、崩れたちたるほどに、大勢の敗軍なれば、ともこうもいたすべきようなく、逃ぐるものの、馬に踏み倒され、諸道具を投げ捨て、命を限りに逃ぐる。山よりも降ろし駆け、
「首な取りそ。討ち捨てにせよ」
と下知して、田舎道20余里追い打ちにして、日橋へ追い詰めければ、橋は焼け落ち先へは行かれず、後より敵には追わるる。よりどころなければ、馬上も徒者も命を限りに川へ乗り入れ跳び入れ、この川は近国にかくれなき山川の水速くして、大石多く、瀬枕打って滝のごとくなれば、越すべきようなく、人馬流れゆくこと数を知らず。いろいろの旗指物、鎧の金物に入り日のうつろい、川の面の面白さは誠に歌人立田川の秋を見て「神代も聞かぬ」と詠みしもこれに勝るまじきと、橋詰にて勝鬨取り行い、首実検するに、討っ取りたる首鼻集めさせ候へば、2999もなし、3001もなし。首鼻の数3000なり。追い打ちのことなれば、そのほか、のめり隠れ逃げたる手をば、川に跳び入り、水に流れ沈みて死にたるものは数しらず。持ち来る首鼻を重ね集め、
「後代のため塚をつけ」
と言いけれども、終日の戦なれば、夫丸までも疲れたる体なれば、塚つくまでもなしとて、その夜は川端にあげて、落ちたる城のありけるに一宿して、明日は会津へ働くべしと、惣人数に、
「今宵は前の難所、大河はあり。心安く休み、夜明けて兵糧使い、辰の半ばに打ち立つべし」
といかにもゆるやかに味方を休め、
「橋はいかに」
と尋ねければ、
「板焼け落ち、ところどころ残り候。行桁はよし」
と言う。
「さらば在家に人を遣わし、夜すがら橋をこしらえさせ、翌日会津へ取りかかる。城はかくれなき要害よし、人数は立てこもるべし。よほど手間取るべし」
と思いければ、安に相違して城主落ちらるるによって、侍は申すに及ばず、町人までも、取るものもとりあえず逃げ散り、一人もなし。

(小井川百合子著「伊達政宗言行録 木村宇右衛門覚書」 新人物往来社 1997 より作成)

「人取橋の戦い」に戻る
「成実合戦記に戻る

Page Top