摺上原の合戦

天正17年6月5日

天正17年6月1日、伊達成実が年初から内応交渉を再開していた猪苗代盛国が芦名と事切れに及んだ。
これに応じて政宗は、新田義綱・原田宗時を檜原へ、伊達成実・片倉景綱を猪苗代へ派遣した。
芦名盛重は当時、岩城・佐竹・相馬とともに田村領への進攻を企図しており、須賀川に駐在していたが、猪苗代盛国離反の急報に接し、6月3日に本拠の会津黒川に馳せ戻る。
相馬勢はこれに先立つ5月中旬に北辺の駒ヶ嶺城・蓑首城を落とされており、動きのままらならない状態だったが、佐竹義重は中通りに、岩城常隆は浜通りに留まり伊達軍主力を牽制する姿勢を取った。
芦名盛重は帰還翌日には猪苗代へ出立、磐梯山麓の猪苗代盆地に集まった猪苗代・成実・片倉勢を狙う。伊達軍が後詰をしなければ猪苗代方面軍は孤立無援のまません滅され、また後詰めをすれば中通りの佐竹勢に挟撃される危機である。
政宗は猪苗代への後詰めを行おうとするが、傍近くの重臣のみならず、肝心の猪苗代方面軍(成実・片倉)に反対される。
しかし、政宗は猪苗代方面軍の意見を「援軍要請」と偽り、6月4日深更、自身と主力を強引に猪苗代へ移動させ、後詰を行った。佐竹・岩城のせまる田村境目の城にわずかな守備軍を残すのみである。

6月5日、朝より合戦開始。
当初は芦名軍優位に合戦が推移し、先陣・猪苗代隊、二陣・片倉隊が打ち破られる。

以下、執筆中。

参照

この合戦を題材にした管理人の作品

「成実合戦記」へ戻る

Page Top