傑山君世廟記

  仙台叢書所収の「仙台金石志」に掲載されている、実元のお墓の碑文です。
野崎さまより頂戴いたしました。(読み下し=武水)
君諱実元。以伊達為氏。幼名時宗丸。既冠称藤五郎。実我稙宗公之第五子。妣会津葦名修理大夫平盛高之女。君以大永六年丁亥某月日生。天文壬寅君年十六。外曾祖上杉貞実嘗約為養子因授其偏諱。又附以長光所鋳宝刀及竹雀記号。夏六月使其大夫来迎。時姦臣桑折中野等窃謀乱。事方発覚。倉卒騒擾。以故不果行。後竟居信夫大森城。食其十一邑及名取二邑。天正甲戌奉我輝宗公命攻畠山義継抜其属城八丁目後因居焉。乙亥叙従五位下兵部大輔無幾退休。薙髪自号棲安斉。丁亥四月十六日卒。寿六十一。葬干信夫郡小倉村陽林寺。僧侶加謚独照院傑山豪英大居士君実稙宗公之子晴宗公之弟。而其子孫世々食邑於国中。則禮所別子百世不誂之主者也。独以其時属戦争始定之際。不能稽旧典。以備禮制。降及数世大率守成率旧而巳。以故報本之制不能及遠也。今茲天保丙申之歳。距君卒恰二百五十年矣。
適十二世之孫宗賀君。嘗誠篤好禮於追遠報本之道。尤盡心焉。於是輿其子宗恒君相謀。詳考禮制酌時之宜。採地於祖塋之側。創建祠創一宇。歳時聚其支属虔修其祀。世々勿堕。以予辱下問参預末議也。使予記其事以伝裔孫。嗚呼夫報本追遠之道。在上者窮率厥先。則民徳之帰厚有不期然而然者矣。是則政務之本。風化之源。予安得不為之記耶。天保七年夏四月。仙台桜田質仲文敬誌。

君、諱は実元。伊達をもって氏となす。幼名時宗丸。既に冠して藤五郎と称す。実は我が稙宗公の第5子。母は会津葦名修理大夫平盛高の娘。君、大永6年丁亥某月日に生まる。天文壬寅、君年16、外祖父上杉定実、かつて養子と約し、因りてその偏諱を授く。また、附くるに、長光の鋳するところの宝刀、及び竹雀の徽号をもってす。夏6月、その使いの大夫来迎す。時に姦臣桑折中野ら、ひそかに乱を謀る。事方発覚し、倉卒騒擾す。よりてゆえに行くを果たさず。後、ついに信夫大森城に居し、その十一邑及び名取二邑を食む。天正甲戌、我が輝宗公の命を奉じ、畠山義継を攻め、その属城八丁目を抜く。のちによりて居す。乙亥、従五位下兵部大輔に叙し、幾無く退休し、薙髪して自ら棲安斉と号す。丁亥4月16日卒。寿61。信夫郡小倉村陽林寺に葬る。僧侶、謚を加して独照院傑山豪英大居士とす。君、実は稙宗公の子にして晴宗公の弟。しかしてその子孫、世々国中に邑を食む。
(以下略)

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