大永7年(1527)誕生。通称は藤五郎。従五位下兵部大輔。入道して棲安斉と称する。一説には初めは直元といったとか。 父は伊達家14世稙宗。母は正室芦名氏。ただし、母については異説もあリ、上杉側の資料では揚北衆中条定資の娘とされる。稙宗の三男で、晴宗より8年下。
天文年間、生来利発で勇敢だという話を聞きつけた外曽祖父・上杉定実に乞われ、定実の養子と定まる。この際、定実から「実」の一字と「竹に雀」の紋を贈られ、実元と名乗った。元服は天文9年(1540)。
天文11年(1542)、越後の上杉家へ出発する3日前、父稙宗が兄晴宗に拉致監禁される「天文の乱」が勃発。迎えにきていた上杉家の臣は実元を置いて越後へ帰ってしまう。実元も越後行きどころでなくなり、稙宗から大森城をまかされ、城主となる。一時、大森城は晴宗側に奪われ、実元は梁川へ落ちたという。一方、越後でも揚北衆を中心に入嗣反対運動が起き、内紛となった。
天文17年(1548)、稙宗の隠居という形で天文の乱は終結。その2年後には上杉定実は越後で没し、越後守護の上杉家は絶える。守護代・長尾景虎(上杉謙信)が関東管領・上杉憲政から名跡を譲られ、名実ともに越後国主となった。ちなみに上杉謙信は実元より一年年少である。
乱が晴宗の勝利の形になったため、実元は当時の大森城主・遠藤隠岐の客分となって臥薪嘗胆の日々。ところが実元のには人望があったらしく、まもなく遠藤隠岐を追い出して大森城主となってしまう。晴宗もなぜかこれを黙認した(大森城の歴史)。
「仙台志料」によると、天文の乱終結の前後に畠山義継妹が実元の初めの室となったとある。陽林寺にある実元の墓碑(慶応3年建立)も、実元の室を畠山氏とし、伊達氏(鏡清院)を継室とする
この後、実元は仙道筋の抑え、及び取次ぎとして活躍する。およそ仙道筋の諸侯で、伊達家と話をする際、実元を通さなかった者はいないといってよいほど。
天正2年(1574)八丁目城を攻略する。二本松城を狙うも、二本松の畠山義継が田村隆顕を通して輝宗に泣きついたため、和睦。
天正12年(1584)ごろ、成実に家督を譲り、八丁目城に隠居。隠居とは名ばかりでその後もいろいろと情報戦をしていた形跡がある。また八丁目城は伊達家南端の最前線基地であった。
天正15年(1587)、八丁目で没。61歳。信夫郡小倉村陽林寺に葬る。墓標として松を植えたといい、現在新たに建立された五輪塔の横に、切株が残る。法名 独照院殿傑山豪英大居士。
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法名 鏡清院円心妙鑑大姉。父は伊達晴宗。母は岩城氏久保姫。伊達輝宗のすぐ下の妹として生まれた。留守政景よりも年長なので、1545-1547のどれかがの生まれ。晴宗のように奥さんが一人だと、子どもの年が計算しやすくていい(笑)。 永禄年間に叔父・伊達実元に嫁いだ。大塚薬報の「古城めぐり」で、結婚を永禄9年、といっていたけれども、出典の記載がない。仮に輝宗より2年下として、永禄9年には20歳。晴宗が娘を20歳までほっとくかなあ。あ、永禄9年だと、当主は輝宗か。
実元には後添いらしい(仙台市史 昭和4年版)。実元の年齢を考えると、その方が自然だろう。
永禄11年(1568)伊達成実を生む。
天正19年(1591)10月3日没。おそらく40才ぐらい。どこで没したかは定かでない。この年の秋、政宗は岩出山に追われ、信夫・大森は木村吉清が領した。時期的には角田と思われるが、微妙なところである。
法名 玄松院殿慈輪貞峰大姉。父は亘理重宗。母は相馬盛胤の娘。涌谷の伊達定宗の姉にあたる。大河ドラマでは「登勢」と名づけられていたので、その方が通りがいいかも。
天正元年(1573)生まれ(「涌谷伊達文書11 天童内記書状」記載の没年齢から逆算)。天正14年(1586)冬に成実に嫁いだ。ちなみにこの年、父の重宗は35歳。治家記録によると、亘理・実元から婚儀の調った報告を政宗にしている。なお。翌15年に実元は没する。
文禄4年(1595)6月4日、伏見で死去したと言われる(記念誌)。10年ほどの結婚生活であった。年齢は20代半ばぐらいか? 成実は秀吉から伏見に屋敷を賜ったというが、伏見城下図には載っていない。政宗邸の一角なのかも知れぬ。現在の角田長泉寺寺域に葬る。近年まで墓地は「亘理御廟」と称されていたが、墓地の整理等により、現在の所在は不明である。
父は二階堂盛義。母は伊達晴宗の娘、阿南姫。成実の従姉妹にあたり、芦名盛隆は実の兄弟である。母の阿南は二階堂盛義亡き後、須賀川の女城主として、政宗をてこずらせた人物。
二階堂氏は初め岩城常隆に嫁いだ。天正18年(1590)、岩城常隆は小田原参陣の中途で急逝。岩城家には佐竹から能化丸(貞隆)が入嗣した。この時の二階堂氏の動きは明らかでない。
さて岩城家には常隆の実子・政隆がいた。岩城政隆は「常隆の遺腹の子」と表現されており、母親については正室説と側室説があるが、「史料仙台伊達氏家臣団事典」は正室説を採る。 慶長12年(1607)岩城政隆は仙台藩を頼り来て、家臣となっている。政宗はすぐに政隆を親類として遇し、政隆は栗原郡清水に知行を得た。後の岩谷堂伊達氏である。この際政隆は母親とともに仙台に来ており、母親は命により伊達安房成実に再嫁した。これが二階堂氏である。亘理では岩城御前と呼ばれた。
元和6年(1620)10月23日没。法名 仏性院殿天巌妙真大姉。大雄寺亘理伊達家墓所の成実廟の裏、小高いところが彼女の墓所であるらしい。
正史には登場しない。が、篠木巳三郎氏のお話によると、成実の室の「ワタリ氏」というのは福島市の渡利だとする伝説があるという。この渡利は大森からみてちょうど阿武隈川の対岸にあたる地域で、安寿と厨子王の伝説が残っている。ここには椿館(椿山館)という城跡があり、伊達成実の居城であったという(日本城郭大系)。
成実には二人の実子があったが、いずれも夭折している。
小僧丸は慶長19年(1614)、成実が大阪冬の陣に亘理を出立する、その日に死亡。4歳。
一女があったがこれもそれより前に死亡している。
喝食丸。治部大輔。安房。政宗の九男。母は柴田(芝田)氏。慶長18(1613)仙台生まれ。寛永2年(1625)11月元服。寛永10年(1633)栗原郡真坂領主・白川右京義実の娘を妻とする。承応元年(1652)治部を改め、安房と称する。
鹿の角を折る大力で、水練をよくし、鉄砲も兄・忠宗に習い皆伝の腕前だったという。
この人のトピックは「承応事件」。宗実は亘理郡荒浜で魚網をひかせ、丘の上で昼食をとっていた。そこへ荒浜港駐在の山形藩足軽が前を通りかかり、制止した宗実の小姓・柴田彦兵衛と喧嘩になった。彦兵衛は相手に切り傷を負わせが、山形藩ではこの負傷者を切腹に処した。そのため亘理の奉行衆は、山形との均衡をはかるため彦兵衛も処罰すべきとしたが、宗実はうんと言わない。やむなく忠宗に報告したところ、忠宗も処罰を支持し、彦兵衛の切腹が決定した。この事件によって宗実は亘理を立ち退こうとしたが、周囲の説得により、国分寺院主へ入ることとなった。もっとも、形だけだったのか、一日で寺を出ている。なお、彦兵衛は宗実の母方のイトコ。
寛文5年(1665)6月5日没。53歳。法名 円照院殿徹山利通大禅定門。
なお、仙台伊達家系の文書では、宗実の妻は白川宮内義綱(右京義実の父)の娘とする。(伊達政宗文書3220)。
宗実の嫡男。寛永13年(1636)、政宗の死んだ年の生まれ。母は宗実側室・長寿院。正保4年元服。万治3年(1660)涌谷城主・伊達安芸宗重の娘と結婚。寛文5年(1665)亘理城主となるが、わずか5年で逝去。