伊達実元。直山公(稙宗)第6子。母葦名盛高女。天文11年、上杉氏の養う所として、まさに越後に赴かんとす。中野常陸、逆を謀るに会い、直山保山(晴宗)二公父子隙を構う。6月20日徒衆西山に據り、実元、直山公を翼けて戦に出、利を失う。伊達梁川に退く。遂に鎌倉に趁ず、従者数人と漂泊す。この時、信夫大森城主遠藤隠岐、八丁目城主堀越能登、相語りて曰く、「実元流寓し、家無し。大いに憐れむべし。蓋し力をあわせ助け給わん」。二氏、実元を迎え、約半歳こもごも二家に寓す。隠岐、勇を好み、妻妾あらず。酒を醐(?)し放縦。人心帰せず。しかして実元名族、仁慈人を愛す。衆、戯れに実元を翼けんと思う。実元これを聞き、まさに有為とす。衆、或は曰く、「吾、隠岐の恩を以て生存す。吾その虐党となるを欲さず」。従者内崎右馬頭・遠藤駿河・羽田右馬助・遠藤下野・真柳長■・舟迫新左・伊場野遠江・牛坂佐渡・萱場肥前・菱沼伊勢等、隠岐家衆と協謀す。隠岐近臣源蔵、その酔い臥し候を、刀を奪いて出る。伊場野遠江、長刀を善く用う。衆、先ず入る。隠岐、副刀柱に掛けしを持ち、起きてふせぐ。遠江、胸を傷し二刀奔出す。隠岐の力敵を知らず、夜に乗じて相馬に走る。これによりて大森を奪う。能登大いに怒り、謝絶し通じず。実元の勢力日に盛ん。八丁目また実元に帰す。畠山義継世二本松城、妹を以て実元女とす。すでにして直山公父子和を講ず。妻畠山氏の卒するに会い、保山公一家睦邱を欲し、女を以て実元女とす。永禄11年成実を生む。天正11年実元八丁目城に老い、棲安と号す。成実16歳、その後を襲う。天正15年16日卒。大森陽安寺に葬る。61歳。
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