伊達兵部太輔藤原実元は当家14世稙宗君の第3子。
母は会津主葦名修理大夫平盛高の女なり。天文中、外曽祖父越後主上杉兵庫頭藤原定実嗣無し。因て養子の約あり。
「実」の字を授け、其家に伝る所の宇佐美長光の太刀、及び幕(紋竹雀)等を贈る。故有て遂に果さず。
奥州信夫郡中31邑、名取郡中2邑を領し、信夫郡大森城に住す。天正の初、16世輝宗君の命を受て二本松主畠山修理大夫源義継の支城八町目を攻て之を取る。
其後家を嫡男藤五郎成実に譲て八町目城に隠居し入道して棲安斎と号す。
此時棲安斎の謀慮を以て二本松境は戦も無く事静なり。其故は二本松義継、大内を援くれども元来強に附き勢を恃み、今度も当家の弓箭強きに於ては、和を請うべき志あり。
又棲安斎は「会津仙道より塩松への援勢、田村は敵地なれば通路し難く、二本松の領地を往来す。我若し義継に懇切たらば、彼援勢、義継を疑て往来すべからず」と思えり。
是を以て殊に義継に懇にせらる。其趣は君へは密かに告達せられ、其子成実には語られず。
只此境は此時戦に及ばば煩たるべき事を示され、二度誓詞を請い取らる。
惜い哉、智勇兼備の良将なりしに、其行実悉く伝わらず。其僅に存する者に因ても亦、其勇にして且智あるの一端を見るべきのみ。
天正15年丁亥4月16日卒す。年61、法名傑山英豪独照院と号す。