伊達成実と合戦

「成実人となり、英毅大略あり。一時勇武無双と称す」
仙台伊達家に仕えていた作並清亮が著した史書『東藩史稿』に記された伊達成実の人となりである。
伊達家において、成実は武の象徴であった。しかしながら成実には、加藤清正のような個人の武勇のエピソードは知られていない。
ではその成実の「武」はどのようなものであったのか。「武」の根拠となる合戦および軍事行動を、主に本人の著作である『政宗記』(戦国史料叢書収載)・『伊達日記』(群書類従収載)によって紹介しながら、考えてみたい。なお、一次史料をほぼ使用しないのは、筆者の能力の限界によるものであるので、ご容赦を乞う。

■伊達成実の合戦

伊達成実は、天正十二年の伊達政宗の家督と歩を合せて、親類衆の筆頭であった「大森伊達家」をついだ。成実の初陣については残された記録がなく、確認できるのは家督後のものに限られる。
合戦を語るとき、一つの合戦——たとえば関ヶ原合戦、摺上原合戦といった、一つの会戦——を指して語ることが多い。しかし、会戦とは、言うまでもなくそれにいたるさまざまな政治的軍事的動きによって生まれたプロセスの一つにすぎない。
本稿では、成実の行っていた軍事行動のうち、伊達家が豊臣家に従属する前のものについて、紹介をする。
対象とする軍事行動は以下のとおりである。
①天正十三年五月 檜原合戦
②天正十三年夏〜秋 四本松攻略戦
③天正十三年秋〜天正十四年夏 二本松包囲戦
④天正十五年夏〜天正十六年四月 大内定綱調略
⑤天正十四年末〜天正十六年 田村騒動
⑥天正十七年 夏 会津攻略
⑦天正十七年 秋 須賀川合戦
なお、この時期の政治的状況および合戦をめぐるより広範囲の外交については、小林清治『伊達政宗の研究』-第五章「政宗の和戦—天正十六年郡山合戦等を中心に—」(吉川弘文館)に詳しい。本稿文中の日付等は、成実の著述を元にしながら、この小林論文及び治家記録によっておぎなっている。

①天正十三年五月 檜原合戦

伊達政宗は家督直後、檜原口からの会津攻めを企図した。成実も陣触れに応じて、五月八日に大森を出立、翌九日に檜原に到着している。二本松境を心配した政宗によって即日帰城を命じられたため、成実は合戦に参加していない。
しかし、この檜原で成実の提案により、芦名氏重臣猪苗代盛国の内応を誘うという打合せがなされる。成実の家老羽田実景と猪苗代盛国の家老石部監物が親しいという手筋からであった。これはこの時には調わなかったものの、後に実現し、伊達家が会津を得る要因になる。

②天正十三年夏〜秋 塩松攻略戦

【青木修理の内応】

伊達政宗が先述の会津攻めを企図した理由は、先年秋に政宗に出仕を願い出て許された大内定綱の離反である。

「頃日会津ヨリ使者を以テ、大内ガ罪ヲ赦シ召シ使フニ於テハ、会津ヨリ介抱スマジキ由申シ越サレ、又大内ニハ内意ヲ示シテ、当家ヘ参間敷ト申シ拂ハスル由聞及バル」
(治家記録)
大内の態度の急変は会津芦名氏の差し金によるものという判断であった。
しかし、猪苗代盛国の内応がならなかったため成実は、塩松の大内定綱を直接攻撃することを提案する。
なお大内定綱は政宗の舅である田村清顕ともたびたび合戦に及んでおり、田村氏からも大内退治の依頼があった。
成実は
「大内家中ニ一両人モ御奉公仕候様ニ可申合」
(伊達日記)
と、大内家中に内応者を作る。成実の家中には元塩松譜代の大内蔵人・石井源四郎がおり、かれらが刈松田城主・青木修理を内応させることに成功する。刈松田は塩松側で伊達領に接する境目の城であった。
八月に入って青木修理が大内定綱と手切れすると、政宗は即座に成実・小梁川盛宗・白石宗実・原田宗時を差し向けて刈松田の後詰を行い、政宗は杉目で青木修理を引見した。

【小手森合戦と塩松制圧】

青木修理の手切れを知った大内定綱は、小手森に自身籠って守りを固める。小手森は川俣から塩松領を経て田村へ向かう要地である。
大内退治を依頼した田村清顕も出陣し、ともに小手森城を攻めた伊達勢と田村勢であるが、間の大山にはばまれて連携がとれず、二十四日に攻城を開始したが、二十六日が暮れても城は落ちなかった。
成実は二十六日夜の軍議で、成実勢が城の南の「竹屋敷」に移動し、援軍と城との通行を遮断することを提案する。この移動によって、成実勢と田村勢が連携できるのも提案の理由であった。ただ、城方と援軍の双方に挟撃される危険があることから、この案は承諾されることなく軍議は終了した。
二十七日未明、成実は政宗に無断で竹屋敷に移動し、留守政景もこれに続いた。
気づいた政宗は総勢を移動させ、小手森城は援軍との通行を完全に遮断された。
ここで城方からの降伏交渉が行われる。城から出てきた石川勘解由という者が成実の家臣遠藤下野を指名し、

「日頃懇なれば、対面の上申度ことあり」
(政宗記)
と申し入れるのである。大内定綱は二十五日夜に小浜に引き上げており、開城するので城方一同も小浜へ引き上げたい、というのがその希望であった。
数度の交渉があったが、政宗は城方の小浜引きあげを容れず、遠藤下野がまだ城内にいる間に攻撃を開始する。本丸までは落ちなくとも、攻撃でおどせば小浜へ引きあげることをあきらめ、伊達側に引き除くであろうという判断であった。
遠藤下野が命からがら帰陣したあと、成実勢は城に火を放つ。折節の強風で小手森城は全焼、落城し、撫で斬りが行われた。
小手森の落城を知った新城・樵山城も自焼して伊達勢の手に渡った。
翌二十八日。政宗の命で築館に向かった成実は、城内より出てきた一騎の武者と出会う。服部源内という塩松牢人で、以前成実に仕えたことがあり、今また塩松に帰参して築館に籠っていたものだ。服部源内は
「築館モ引除候間、早々追懸可申」
(伊達日記)
と告げる。成実勢が城に押し寄せると、果たして塩松勢はすべて引き除いた後であった。 その後、政宗は黒籠を拠点に、また成実・片倉景綱・白石宗実・桜田元親は築館を拠点に塩松領を制圧し、九月二十五日、大内定綱は小浜を自焼して会津に奔った。
この夜、小浜の火を見た成実が何事かと築館から急行したところ、大内定綱からはぐれた大内我斎が成実を頼って懸け入ってきた。成実の助命嘆願により、大内我斎は死罪を免れている。

③天正十三年秋〜天正十四年夏 二本松包囲戦

【粟の巣の変と二本松籠城】

政宗の塩松領制圧に伴い、大内に援軍を出していた二本松の畠山義継は伊達家との講和交渉を始めた。交渉にあたっては、取次役であった大森伊達家——伊達実元・成実父子——が深くかかわるが、結果的に十月八日、伊達輝宗と畠山義継の双方が不慮に落命する「粟の巣の変」が起こる。詳細はwebサイト「成実三昧」の「粟の巣の変—輝宗の死をめぐるいろいろ」を参照されたい。
この事件により、塩松制圧段階では伊達家の馬打ち——軍事的従属下——となるはずであった畠山家と二本松領は、完全に伊達家と敵対することになる。
当主義継を失った畠山家は、遺児国王丸を家督に、親類筆頭の新城盛継を指揮官に、周辺の支城から人数を引き上げて二本松城に籠城した。
十月十五日、政宗は粟の巣からほど近い、高田に陣を張り、二本松攻城を開始した。成実の陣場は大森領と二本松領の境目、硫黄田である。軍議のため成実が硫黄田を離れた間に、城方からの攻撃があり、双方多数が討死した。同日夜から大雪となったため、二十一日には年内の攻撃をあきらめて政宗は小浜へ引き上げた。

【人取橋合戦】

十一月十日。佐竹・芦名・岩城・石川・白川が二本松救援のため、安積表に打ち出たとの情報を得た政宗は、対応に追われることになる。
政宗は岩角へ。高倉へは、富塚宗綱・桑折政長・伊東重信。本宮へは瀬上景康・中島宗求・浜田景隆・桜田元親。玉井には白石宗実を遣わして防衛線を形成する。が、連合軍に対して伊達勢は無勢であった。年内の二本松攻城を断念したため、勢力の多くを在地へ返していたのである。
俗に連合軍三万、伊達軍八千というが、この数字の根拠は成実の著や治家記録にはない。ただ、政宗は二本松城の押さえのため、渋川に在城していた成実に、

「無勢故に小浜の留守にも人数を差置給はず、去程に小浜にも成実手勢を残置急ぎ参れ」
(政宗記)
と命じる。二本松-大森の境目から人数を動員し、また当時政宗が拠点にしていた小浜の手勢を全て動員して出陣しなければならなかったことに、彼我の兵力差が伺われるのみである。
成実は小浜に手勢三十騎余を残しおき、十一月十六日、岩角で政宗と面会する。この時連合軍は「前田沢の南の原」に野陣を構え、翌日には本宮か高倉へ働くと予想された。成実はその晩、糠沢へ移動、政宗も本宮に馬を移し、高倉への後詰として「本宮の西、太田原(青田原)」に陣を備えた。
翌十一月十七日。成実も高倉の後詰のため「海道の山の下」に陣を備える。
連合軍は大軍を三つに分け、入れ替えながら伊達勢に押し寄せた。
高倉城の富塚・伊東は、かなわぬまでも敵を押しとどめようと出撃するが、逆に城に押し込まれてしまう。前田沢からの敵軍は、観音堂の政宗本隊と戦闘となった。
成実の臣・下郡山内記が小山に上って見ると、高倉方面から白石・高野・濱田の三人の指物と、敵六-七騎に足軽百人余が本宮の方へ向かっているのが見えた。白石・高野・濱田の三人は成実の備えを通って本陣に向い、成実勢は残って迎撃を開始する。
「荒井より押ける勢は成実と戦ふ」
(政宗記)
とあるのはこの勢であろう。この時の成実の手勢は成実本人によると、小浜・渋川の二か所に人数を差し置いたため、残っていたのは七-八十騎であった。
青田原・観音堂の政宗本陣はこらえかねて、じりじりと敗色が濃くなってゆくが、亘理元宗・重宗父子、留守政景、国分盛重、原田宗時、片倉景綱らの活躍で大敗軍にはならなかった。
残った成実勢は孤立する。左は阿武隈の大河。直近の味方は青田原で敵と戦闘中で、そこまでの距離は七町余。
下郡山内記は成実の小旗を抜き取り、退却を勧めるが、成実は
「流石に爰を引退かば末代までの瑕瑾ならん、詮ずるところは是にて遂防戦、討死せん」
(政宗記)
と踏みとどまる。後世の軍記で成実の武勇として語り継がれるエピソードがこれである。 成実が陣を備えた山の「南の下より四-五町程」の人取橋の攻防での成実家中の活躍は割愛するが、成実勢が持ちこたえている間に、観音堂の敵は引き上げ、成実勢と当っていた敵も引き上げた。
「不思議の天道にて一芝も取ず」
(政宗記)
成実勢はこの合戦で、陣を守り抜いた。敵二五〇余人の首をとり、味方の討死は三十九人であった、と成実は記す(政宗記)。
連合軍は兵を引きあげた後、政宗の本陣から五-六町ほど離れた「高倉海道川切」に備えを立て直したため、もう一合戦あるかと警戒したが、何事もなくその日は暮れて、政宗は岩角へ引き上げた。この夜、政宗が成実に発給した感状はその後、亘理伊達家の象徴の一つとなって大切に伝来されてゆく。
敵陣に紛れた味方が、明日は連合軍は本宮を攻めると聞いてきたため、政宗は留守政景と成実に本宮への移動を命じる。
成実が翌朝、本宮へ向かったところ、物見が連合軍の解散退陣を報告した。
成実のエピソードとしては、もう一つ、『木村宇衛門覚書』に、政宗が馬に川の水を飲ませようとしたところに敵襲を受け、成実に助けられる話が載っている。「一方をまかせるに頼もしき大将なり」と政宗が成実を評する、面目躍如のエピソードであるが、成実の著述では、成実自身が陣所から離れたことは読み取れず、また政宗が成実陣所付近まで来たとも読み取れない。
ここで伊達勢は安達郡の南境を前線としていることに注意したい。安達郡二本松領は本城二本松を残して伊達家が掌握していた。この戦線を守ったまま冬に入ったことで、伊達家の安達郡支配がまずは固まることになったのである。

【渋川合戦】

人取橋の合戦後、成実は再び渋川城に戻る。渋川城は二本松の支城で、伊達家の大森領に対する境目の城であった。畠山義継の死没とともに、城主であった遊佐下総は、二本松へ引き退き、空城となったものを伊達家が接収したものである。
遊佐下総は畠山側で伊達実元に対する取次をしており、後に伊達家に内通する。成実の家臣にもこの時点で「近所の生まれ」である遊佐佐藤衛門が確認できる(政宗記)。
十二月十一日に渋川城は火災で全焼したが、二本松城に対する前線の城の一つであり、早々に復旧がはかられたと思われる。この火災で成実は右手に大火傷を負っている。
一月一日昼、鹿子田衛門を大将とした畠山勢が渋川城を攻撃する。
騎馬武者一騎、徒歩十余人が渋川城の水汲みの小者を追いまわしたので、城方からも兵が出て小競り合いとなった。退却するところを追いかけたところ、街道沿いの小山に伏せられていた畠山勢二百騎、徒歩足軽とも二五〇〇人ほどが現れ、城方は敗北する。
そこで成実は志賀大炊左衛門、遊佐佐藤衛門を遣わし、さらに他出していた羽田右馬助も参戦。八丁目からの援軍が到着したことで形勢は逆転し、鹿子田は崩れかかった兵をまとめて退却した。

【二本松落城】

天正十四年二月に入り、畠山の重臣、箕輪玄蕃・氏家新兵衛・遊佐丹波・遊佐下総・堀江越中の五名が伊達家に内通する。
このうち箕輪玄蕃の箕輪城は二本松城の一つの郭を形成する要地である。この五名は伊達勢を箕輪城に引きこみ、同じく郭内の支城である栗が作の内通を図るも失敗。城方の反撃を受け、狭い城内に多くの人数が籠ったために動きが取れず、五名と伊達勢は城外へ退却する。地形の険しいところであるため、この過程で谷に落ちた四-五十人の男女が踏み殺された。
二本松攻城は政宗が病気を得たため延引され、再び伊達家が兵を出したのは政宗が快癒した四月始めであるが、昨年十一月のような仙道諸将の出陣を警戒し、五日間の攻撃で切り上げている。城方は基本的に応戦せず、守りを固めていた。本城以外の二本松領は伊達家が掌握していたが、高玉・安子ヶ島から山を経るルートで会津から補給を受けていたため、落城させるのは容易ではなかった。
しかし、畠山側にとっても、これといった打開策があるわけでもなく、開城を考えるようになっていったと思われる。
ここで相馬義胤が伊達家-畠山家の中人として講和条件をまとめに入る。相馬義胤は伊達実元を頼んで二本松城の開城、城中の者の出城の条件交渉を行った。提示条件は開城と、二本松領を伊達家が得ることである。
政宗に異存はなく、七月六日、二本松城は本丸を自焼して畠山一統は会津へ、麾下の地下人は思い思いのところに引き退いた。城を受け取ったのは成実であった。二本松領はいったん、片倉景綱に与えられたが撤回される。最終的に二本松領は成実に、大森領は片倉景綱に、塩松領は白石宗実に与えられた。

④天正十五年夏〜天正十六年四月 大内定綱調略

天正十五年夏。会津にいた大内定綱が、政宗に服属したい旨を成実に打診してきた。大内定綱は最終的に天正十六年四月五日、成実らと対面し、伊達家に服属する。
この外交交渉の過程は、遠藤ゆり子「天正期における伊達家の外交と片倉景綱」に詳しいので省略し、本稿の主題である合戦に絞って記す。

【苗代田夜討】

天正十五年九月二十九日の政宗書状に「大内音信」のことが現れる。成実は大内の旧領・塩松を拝領した白石宗実と相談の上、片倉景綱を通して政宗に大内の服属交渉を取り次いでいたが、この話は白石宗実から会津に漏らされた。
このため、会津における大内定綱の立場は大変危ういものとなり、「此分ニ候ハバ切腹仕候儀モ難計」くなり(伊達日記)、いったん交渉は棚上げとなった。会津への言い訳のために、天正十六年二月十二日未明、大内定綱は二本松領の苗代田を襲撃する。
苗代田は前年七月にも二本松・塩松の残党と思われるものから夜討を受けていたため、百姓は古城に集住し、警固の物頭に本内主水というものが詰めていた。
大内定綱の襲撃により、古城に居た百姓約百人が死亡し、本内主水は切腹、苗代田の古城は火を放たれた。
大内定綱は、会津への言い訳のためやむを得ず手切れをしたのであるから、引き続き交渉を取り次いでほしいと言ってきたが、成実は「我等申次罷成マジク候」(伊達日記)と拒絶する。
ところが、定綱から成実への使者は、本内主水の親類であり、玉井に居たその他の親類たちもともに、大内定綱の伊達家出仕を乞うたため、再び成実は大内定綱の服属交渉を取り次ぐことになる。

【玉井草調義】

奥州の戦言葉で、敵領へ忍んで兵を出すことを「草調義」「草を入れる」「草を伏す」などと言う、と成実は書く。
高玉・安子ヶ島からは矢沢川沿いに山中を通って玉井に出る道が通じていた。
天正十五年三月十三日。玉井から四-五里離れた西原に高玉城出た敵勢が現れ、玉井へ往来するものを討ち取ろうとしたが、玉井から兵が出てこれを追い散らした。
会津方の高玉太郎衛門は再度の出兵を企図する。この時点で大内定綱・片平親綱の伊達家服属は既に決定していたが、まだ会津への手切れをしていなかったため、大内・片平兄弟は会津方としてこの出兵に人数を出した。平行して二十二日晩、本宮に来て成実に、高玉から玉井に三月二十三日夜に草が入ることを通知する。
これを受けて三月二十三日朝、本宮・玉井の人数、および成実自身も出陣して敵を探したが見つからないので、誤報かと思ったが、昼になって玉井の近所に二-三十人出てきているのを発見、引き上げるところを追いかけけ、台輪田というところで追いついてせりあいになった会津勢はここでわざと劣勢に見せて伊達勢を引込み、矢沢の小山の陰に居た伏兵二百で挟撃を図る。このため伊達勢は崩れかかって川切まで押しつけられ、三-四人が討たれた。
ここで会津勢の大将高玉太郎右衛門が敵味方の間を通りかかったのを、成実の徒歩小姓志賀三郎が見つける。志賀三郎は鉄砲の上手であったので、川柳に鉄砲を固定し、高玉太郎右衛門が小川を隔てて乗り返してきたところを狙撃した。
果たして二発のうち、一発は馬にあたり、一発は高玉太郎右衛門の臑に当った。これをきっかけに伊達勢は反撃に転じ、会津勢は退却にかかる。
会津勢のしんがりを務めていたのは、もう一人の大将太田主膳であり、崩れずよく勢を保って退却していたが、小さい坂を登るところを、やはり志賀三郎に狙撃される。これにより重傷を負った太田主膳は弟に自らの小旗を渡してしんがりを代行させ、退却後に死亡した。
高玉太郎右衛門・太田主膳が退却したことで、他の会津勢は崩れかかり、最終的に伊達勢は首五十三を取る。成実はこの首の鼻を削いで米沢の政宗に送った。

天正十六年四月。大内定綱・片平親綱の出仕が確定し、成実とともに対大内の交渉を担当してきた片倉景綱が二本松へ出迎えにきた。
四月五日。大内定綱の甥・鍛治内弾正が景綱の宿所へ来て、定綱は今晩会津に手切れして本宮へ来ることを告げる。片平親綱も六日に手切れの予定であることも伝えられた。
このため、成実・景綱は本宮へ行き、四月六日、大内定綱と対面する。しかし片平親綱は、兄定綱と意見の相違があったのか、親綱が定綱を討とうとしたため、定綱一人の服属となった。
成実らは多くの人数を率いていたわけではなかったが、大内定綱が服属したのになんの軍事行動を起こさないのも外聞が悪いと考え、同日、成実・景綱・白石宗実の三名で安子ヶ島城を攻撃した。城方は応じなかったのでその日は引き上げた。翌日も同様に攻撃を行う予定であったが、百目木の石川弾正が相馬と通じて白石宗実領に対して手切れを行ったため、七日の攻撃は成実と景綱だけで行った。やはり城方は応じず、成実らは引き上げた。景綱も八日には大森へ戻っている。

【石川弾正の草入れ】

天正十六年四月十五日。相馬方となった石川弾正が、白石領の西というころに草を入れ、自身出馬してきた。白石宗実も駆けつけて合戦となり、宗実が勝利した。
成実はこの合戦の鉄砲の音が二本松まで聞こえたため、成実自身で駆けつけたが合戦には間に合わなかった。喜んだ白石宗実は、宮森で成実に馳走をしている。

【本宮合戦】

さて、大内定綱の伊達服属はすぐに会津に伝わり、会津芦名の衆とと須賀川二階堂の衆が共同して安積表へ働くとの情報が入った。成実はこれを片倉景綱に伝え、景綱はすぐに大森を出立、二本松から信夫の衆に陣触れを行った。
だが急のことでほとんど集まらなかったため、成実と景綱の手勢ばかりで本宮へ移動、高倉へ警固の兵を入れたかったが、無勢のため急きょ八丁目から十騎余と鉄砲五十ばかりを呼んでこれにあてた。
高倉城主高倉近江も四月十七日に本宮に来て、成実・景綱・高倉近江で軍議を行った。高倉近江はもともと、二本松畠山氏の譜代である。
会津も須賀川も、他の境目の人数は動かせないであろうから、両軍あわせて一〇〇〇騎にもならないだろう、また明日の敵の攻撃も本宮には及ばず、高倉どまりであろう、との 見通しを高倉近江が示した。そこで景綱と成実で
「敵が高倉を攻撃するのであれば味方は観音堂へ打って出て高倉へ助け入ろう。しかしこれは敵の動き次第である。もし敵が本宮まで働くのであれば、味方が応戦しなければ、敵は観音堂に備えをたてるだろう。こちらから少し人数を出して敵を誘い、本宮の町口までひきつけて、せりあいをはじめ、成実の郎党・羽田右馬助を先手に景綱と右馬助で応戦する。成実はその合戦には構わずに観音堂へ向かい、敵軍を分断する。そこで高倉からも兵を出して敵の退路を断つ」
という作戦を立てた。
高倉は山城なので、敵の動きがよく見える。敵軍の攻撃が高倉であれば城の西に狼煙をあげ、本宮への攻撃であれば城の東へ狼煙をあげることを申し合わせて、高倉近江を高倉城に返した。
翌十八日明け方。高倉城の西に狼煙があがった。高倉への攻撃と判断し、成実・景綱は観音堂へ打って出た。
ところが観音堂の下まで来たところで、再び狼煙が、今度は城の東に上がる。
さては敵は本宮へ向かったかと、打合せの通り兵を戻そうと成実は言ったが、一度出た軍兵をもどすのは士気に関わると景綱が言い、成実・景綱はそのまま観音堂に備えを立てた。
敵は次第にせまってきたが、その中に元畠山一族の鹿子田右衛門が足軽四-五十人を連れて一騎先駆けてきた。成実は家臣の石川弥兵衛に、鹿子田を観音堂下まで引きつけてくるように命じる。
石川弥兵衛と羽田右馬助、足軽三十人余は鉄砲をうちかけ、敵味方の境を乗り分けながら、うまく鹿子田を観音堂へ釣り出してきた。この時には鹿子田勢も増え、十騎余と足軽百余人となっていた。
ここで観音堂からの勢が山上から降りて敵を追いたて、作戦通り敵は崩れ、人取り橋を通って逃げ帰った。橋向こうの敵勢が入れ替わりに観音堂へ向けて攻めかかり、観音堂下まで伊達勢は押されたが、羽田右馬助・牛坂左近・石川弥兵衛が反撃し、人取り橋まで追い返した。
雑兵ともに敵五十六人を討ち取り、伊達勢の討死は十四人であった。
この戦の傍ら、会津勢は片平親綱の母を人質に取っていた。本来の目的は人質の接収であったが、軍事行動なしでは外聞が悪いと安積表へ働いたのだと、成実は後に判断している。

⑤天正十六年 田村騒動

天正十四年十一月田村清顕が急死し、田村家中は清顕後室(相馬氏)・田村梅雪・田村右衛門の相馬派と田村月斎・橋本刑部の伊達派に分かれて緊張が続いていた。田村領とめぐって相馬と伊達は対立を深めてゆく。

【大越紀伊守出入り】

大越紀伊守は相馬義胤の従兄弟であった。ある時、田村月斎・橋本刑部から宮森城主白石右衛門宗実に、
「大越紀伊守は相馬と通じて逆心が明らかなので生捕りにしたい」
と相談があった。白石宗実がこれを政宗に知らせたところ、事情に詳しい者をひとり米沢に派遣せよという指示が政宗から成実にあった。そこで成実は遠藤駿河を米沢に派遣した。
政宗は相馬派と伊達派が拮抗していることが田村領の安定につながるとの判断から、田村月斎・橋本刑部の相談には反対であった。が、もしかれらが先走ったことをすればまずいと思い、大越紀伊守にこのことを知らせるよう、大越紀伊守の伊達方の取次であった成実に指示をした。
成実の家臣内ケ崎右馬頭が大越紀伊守と親しく、大越紀伊守からはいつも親類の大越備前というものが内ケ崎右馬頭のところに来ていた。
そこで大越備前を呼び寄せ、成実と対面した。
成実はまず田村の情勢を詳しく尋ね、打ち解けてから政宗のいうとおり伝えようと思ったが、大越備前は田村情勢を語ることはしなかった。あとから内ケ崎右馬頭を通じて伝えたところ、大越備前は大越紀伊守にこれを伝え、以来大越紀伊守は三春に出仕しなくなった。
田村梅雪・田村右衛門・田村月斎・橋本刑部の四人の家老がこれを詰問したところ、大越紀伊守は
「三春へ出仕すれば生捕りにされるだろう、と成実が知らせてきたからである」
と回答した。四家老はこれを成実に抗議するが、成実はしらを切る。四家老はこれを大越紀伊守に伝えると、大越は
「成実は内ケ崎右馬頭を通じて知らせてきた」
と反論する。成実は
「内ケ崎右馬頭に確認したところ、親しくしている大越備前に私見として言ったのであって、成実よりの話とは言っていないとのことだ」
と返す。
この相違を、内ケ崎右馬頭と大越備前を対決させてどちらのいうことが正しいか判断することになった。一度は検使が出なかったため流れ、仕切り直して対決したが、埒のあかないまま終わった。

【石川弾正の離反と政宗出馬】

天正十六年四月七日。築山の城主石川弾正が相馬方に転じて伊達から離反する。石川弾正は田村の軍事指揮下にあったものだが、安達郡の伊達領国化に伴って、伊達政宗の指揮下に入ったものである。
田村家中は先述したとおり、伊達派と相馬派に分かれて緊張が続いていたため、石川弾正を退治するため政宗が出馬するだろう、ともっぱらの噂であった。しかしこの時政宗は最上境・大崎境に戦線を抱えており、容易に動くことができなかった。
伊達派であった田村月斎・橋本刑部は、田村の過半は相馬に親しいが、伊達に手切れをしないのは政宗を恐れているからであるから、と白石宗実を通じて政宗の出馬を乞うた。
もっともである、と政宗は四月二十九日に米沢を出馬、五月四日には築館に着陣する。
対して、築山には相馬義胤、小手森には石川弾正が籠って政宗の攻撃に備えた。
五月六日。政宗は小手森を偵察に出る。成実も築館へ参上していたが、安積方面の用心のため二本松へ帰された。政宗も梅雨の悪天候のため、翌七日に大森へ戻る。
偵察だけで戻ったことに不満を抱いた田村月斎・橋本刑部から白石宗実と成実を通して、
「一日だけの働きでは、田村よりも最上境が大事なのであろうと、今伊達派の者も心変わりしてしまう。大森への御在馬は、田村へも最上へも早駆けができるからだと解釈してよいか」
と言ってきた。政宗は、その通りであるから安心するよう回答した。
こうして大森には政宗、築山には相馬義胤が在陣して田村をめぐって睨みあうことになった。
ここで田村の四家老は伊達衆も相馬衆も田村には入れないことを申し合わせる。
五月十二日、相馬義胤は三春入城を企図するが、田村衆の上記申合せにより追い払われ、そのまま相馬へ戻った。
この件を田村から知らせられた白石宗実はすぐに政宗に報告、政宗は即出立し、十三日には宮森着陣、それより二日にわたって築山への攻撃を行った。田村に援勢が必要かもしれない、という政宗の命で成実は田村の内白岩というところに陣をはり、この攻撃には参加していない。
五月十六日には小手森攻撃、落城。成実はこの城攻めでは築山の押さえを担当した。
これをきっかけに田村領内に残っていた相馬衆も撤退、田村の内相馬に傾いていた城館三か所が政宗の手に帰した。宮森へ帰陣した政宗に、田村の四家老のほか、相馬派の田村衆も参向して石川弾正退治の御礼を述べた。

【大越紀伊守攻撃と佐竹義重出陣の風聞】
さて、田村の四家老から、このたびの相馬義胤の三春入城未遂は、三春に出仕しようとしない大越紀伊守の策略であろうから、これを退治願いたいとの依頼が政宗にあった。
政宗は、安積表に佐竹義重が出陣するという噂がある、としてこれを断ったが、一働きだけでも、という四家老の嘆願に、成実を代官として大越に派遣することにした。
成実は船引へ打ち出で、大越を攻撃するが、城方は応じずその日は引き上げた。政宗も忍んで出陣してきたところ、共に攻撃をしていた田村衆と城方が後方で戦闘となり、伊達勢もこれに参加。敵を追い散らし首三十余を取って物別れとなった。
さて、佐竹義重安積表出陣の噂は、安積の担当であった成実は知らぬことであった。成実が政宗に尋ねたところ、政宗は情報源として須賀川の須田美濃守と石川昭光の使いの山伏を挙げている。

【郡山対陣】

政宗の聞きつけた噂のとおり、佐竹義重・義宣父子に芦名義広(佐竹義重次男)、白川義親、石川昭光、二階堂、岩城の各勢を合せた連合軍八〇〇〇余が、安積表に出馬した。
六月一日、岩城家中の親伊達派・志賀甘釣斎武治からこの情報を得た政宗は、七日ごろから安積方面へ派遣していた(前掲小林論文)。
政宗は、連合軍は高倉もしくは本宮へ働くと判断、本宮への後詰として十一日に宮森城を出立、杉田へ馬を移す。
当時伊達家は、田村領をめぐる相馬との緊張のほか、最上・大崎への戦線を抱えており、安積へ動員できた人数はようやく六百騎であった。
連合軍は安積のうち、政宗に従っていた郡山付近を攻撃、本宮は当面の目標ではないと判断した政宗は、高倉を拠点としながら、六月十二日、十三日に窪田の山王山まで偵察に出た。この時、郡山城主・郡山太郎左衛門も政宗と対面している。政宗は郡山城に援軍として、三十余騎に鉄砲二百を派遣した。
翌十四日、連合軍は陣地を構えて郡山城を包囲した。
郡山太郎左衛門からの情報を得て、やはり山王山から連合軍の様子を確認した政宗は、安積山で評定を行った。参加したのは、成実のほか、相伴衆の桑折宗長・小梁川盛宗、家老の浜田景隆・原田宗時・富塚宗綱・遠藤宗信、そして原田休雪斎・白石宗実・伊東重信・片倉景綱の十一人であった。
十四日の評定で桑折宗長らはこの対陣には反対の意見を述べたが、十五日政宗は日の丸の小旗を押し立て、わざと目立つように偵察を行い、その日の評定で
「敵も政宗の小旗を見知っているのに、対陣せずにむざと郡山を落城させるのは家の恥である。戦の勝ち負けによって滅亡するのは珍しいことではない。是非対陣したい」
と述べた。小梁川盛宗は田村家中の相馬派が手切れを行うことを危惧したが、政宗は阿武隈川を隔てた田村家中の手切れは実効性が少ないこと、郡山・窪田・福原・高倉の各城は味方でありかつ人質をとってあること、成実領の本宮まではほど近く退却が容易であることを理由にあげ、対陣への強い意思を示した。それでも反対するものはいたが、戦って滅亡しても家の名誉こそが大事であるという政宗の意思に、対陣することに決した。
郡山には援軍を派遣してあったので、窪田・福原・高倉の各城には代官として、それぞれ飯坂宗康・大峰信祐、瀬上景康、大條宗直を派遣、各城主は入れ替わりに政宗軍に合流することになった。
伊東重信は
「この対陣は郡山城の救援のためなので、無理に合戦を挑まず防戦を重んじ、勝機を見て郡山城内の味方を窪田に引き取るべきだ」
と述べ、これが伊達勢の基本方針となった。政宗陣所は、地形と除き口のよいところを選定し窪田城と福原城の間と決まった。
ここに、郡山城をめぐって四十日余の対陣が始まる。
十五日夜は本宮へ戻った政宗は、十六日朝に陣所に入り、水城の窪田は攻めにくいので、連合軍は足元のよい山王山をせめるであろう、と政宗は成実に山王山への布陣を命じた。
成実は山王山へ布陣し、応戦しやすいよう差配をしたが、連合軍は案に相違して郡山と窪田の間へ進出し、そこから山王山へ寄せてくる。無勢であるから合戦には慎重にの方針に従い、成実勢はこれに応じず、敵を警戒しつつ陣所の普請を進めた。陣屋をかけるのは後回しにし、前面にあった用水堀を利用、その日のうちに五尺余りの土手を二重に築きあげる。翌十七日も普請を進め、前日の土手の上をさらに八尺余に増強、陣所の周りには堀二重を巡らせた。
窪田の水田の前には田村宗顕・田村月斎・片倉景綱が布陣、他の味方は成実陣の後方に布陣していた。
六月十八日。成実勢が普請を続けていたところ、敵の行動があった。会津の尾熊因幡という者が三百余人を率い、山際の用水堀を埋めて道を造成していた。成実は、敵の応戦があったら構わずに戻れと命じた上で鉄砲七-八挺を派遣、発射した弾は尾熊の腕に命中した。このため敵は道普請を中止、敵陣は惣の鉄砲を集め、つるべ打ちを行って引き上げた。
この日連合軍の総大将・佐竹義重は須田美濃・矢田野伊豆ら二階堂勢に先陣を命じていたが、二階堂勢は応じなかった。伊達勢に手を出して面倒なことになるよりも、郡山を落すことが優先であるという意見が佐竹家中から出たため、つるべ打ちを行って引き上げたのであった。
六月十九-二十日は何事もなく、伊達方と郡山城は自由に往来できた。
六月二十一-二十二日、連合軍は郡山と窪田の間に堀を掘り、郡山城に鉄砲を打ちかけ、城との連絡は断たれた。
この頃政宗は、大和田筑後を岩城へ派遣している。調停依頼の使者の可能性を小林論文は指摘する。
二十三日、連合軍は城との通路遮断を確かなものにするため、城に対する砦の普請を始める。政宗はなさじと窪田まで出馬したが、無勢のためかなわず、留守政景と足軽とが敵と小競り合いをするにとどまった。
二十六日には連合軍の砦二か所が完成、片平親綱が定番として詰め、添え番に会津の家老が日替わりで詰めることになった。成実は「敵の砦が完成し、城との連絡を断たれたからには、今までの慎重姿勢を改めて一戦に及ぶべきだ」と主張したが、原田休雪・伊東重信らの反対により退けられた。
伊達勢もこの砦に対向し、窪田城の外矢来を逢瀬川沿いに築く。川沿いに堀、土手の上に垣を備えたこの陣所は七月一日に完成し、籤によって二人一組の輪番を行うことになった。籤取りの結果、成実・田村宗顕一組、白石宗実・片倉景綱一組、浜田景隆・原田宗時一組、遠藤宗信・高倉近江一組となったが、片倉景綱が成実と組みたい旨申し出たので、成実・片倉景綱一組、白石宗実・田村宗顕一組となった。なお、成実はこの籤取りには直接参加していない。
七月二日、三日は何事もなく過ぎ、成実・片倉景綱の当番であった七月四日。陣中はこの二人が当番であれば、合戦は必定であろうと仕度に余念がなかった。成実は景綱に、
「郡山城との連絡を断たれ、手詰まりとなったからには、合戦をしなくては対陣の意味がない」
と述べる。対して景綱は
「敵は多勢であるから合戦には慎重であるべきだ。城との連絡は不自由になったが、手詰まりというほどではない。いよいよ打つ手がなくなってから合戦に及ぶべきだ」
という意見であった。
そのとき、成実の家臣・遠藤駿河が、
「敵の砦の当番は、芦名の家老の平田左京です。何回か会津へ使いに行ったときに昵懇になったので、あの小旗を知っています」
と言った。景綱が、
「それならば矢文を出してみよ。平田左京のとこに敵から矢文が来たとなったら、きっと平田に疑いがかかるだろう」
と言った。そこで景綱が文案を書き、
「先年会津へ伺ったときは、懇意にしていただきました。そちらと戦になりましたので、今日は近くにおりますけれども、時節柄お目にかかれず、昔がしのばれます。伊達方の当番は伊達成実と片倉景綱です。和睦がなったら貴殿とお会いしたいものです」
と書いて矢文を送った。敵の砦からの返信の矢文には、返礼と会えない無念がかかれており、景綱の推量どおりのようであった。景綱はこの返信を政宗に見せるために自分の陣所に戻った。
そうしているところに、長沼の城主・新国貞通が馬上五-六騎と徒歩の者百ばかりを連れて、敵の砦と窪田矢来の間を通りかかったので、成実は兵を出して新国貞通を敵の砦に追い込んだ。景綱も同じく兵を出し、敵味方の砦から兵が出て合戦となり、敵は総勢でかかってきた。
この時本宮にあった政宗は、鉄砲の音を聞いて、伊藤重信に様子を見てくるよう命じた。
伊藤重信は敵味方の間で奮戦したが討死し、これを聞いた政宗も本宮から駆け付けた。
この日の合戦は八時頃から十四時ごろまで続き、敵を砦に二度まで追い入れ、味方の陣は全く取られなかった。敵の首を雑兵まであわせて二百余取り、味方の討死は五十余人であった。
日暮れに政宗から当番の交代を命じられ、成実・景綱は窪田矢来から引きあげた。政宗は家老の面々と成実・田村月斎藤を召し出し、
「今日の合戦に勝った上は、後代の聞こえのため、明日は佐竹・会津の陣場に押し寄せよう」
と言った。原田休雪斎は
「無勢なのだからそのようなことをするべきでない」
と言ったが、政宗が折れないので
「それでは押し寄せても合戦はぜったいなさらぬように」
と言った。田村月斎も
「今日は思わぬ大勝であったが、万一のことがあればこの名誉も消え失せてしまう。明日の攻撃はお止めになられた方がいい」
と言い、多くの者がこれに同調して、明日の攻撃はしないことになった。晩に、成実のもとへ政宗の感状が届き、成実・景綱勢の奮戦を賞し労わるとともに、臆病な意見で明日の出陣をとりやめなければならないのは残念だ、とあった。
この対陣は、岩城常隆が石川昭光を誘って中人となり、和睦を調えた。
小林論文によると、窪田矢来の当番が始まった七月二日、岩城常隆調停の意思が伝えられ、成実と景綱が合戦を行った七月四日には、岩城の使者が伊達方・佐竹会津方双方の陣所に入って内談を続け、調停者である岩城からの申し入れによって、五日には弓・鉄砲は止められた。同日、政宗は常隆に調停への感謝を伝える手紙を発している。この間の内談には大越紀伊守の問題も話し合われた記録が残っている。七月十六日には和睦の条件がととのい、前田沢・日和田は伊達領に、富田・成田は芦名領になることになった。七月二十一日、両軍は陣を払い、政宗は宮森に馬を納めた。

【田村仕置】

郡山の対陣は、田村領をめぐって伊達政宗と対立していた相馬義胤が、佐竹義重らに出陣を依頼し挟撃を諮ったものであった。岩城常隆にも出陣依頼が出されていたが、相馬義胤の三春入城失敗を政宗から伝えられた岩城常隆は出陣勧誘にのらず、中人となって相馬義胤を牽制した(前掲小林論文)。
郡山対陣の結果は田村領への相馬の影響は減弱し、相馬派であった田村清顕後室は船引城へ隠居、田村梅雪斎父子は三春を退去した。田村の当主は清顕の娘である愛姫の子息——すなわち政宗の子息とし、その誕生までの名代として田村宗顕が定められた。
政宗は三春に約四十日滞在し、田村家中への仕置を行った。ここに田村領は事実上、伊達領に包摂される。

⑥天正十七年 会津攻略

【片平親綱の帰順と大越紀伊の死】

天正十六年十一月。岩城への使者に立っていた景綱を、成実は大森に訪ね、片平親綱と大越紀伊の調略を提案した。
十二月。政宗の同意を得て、成実は大内定綱をして、片平親綱を誘わせた。定綱から親綱へ使者がだされ、成実も添え状を遣わしている。十二月二十日には片平親綱から承諾の返事が届いた。
政宗出馬時に片平親綱は芦名と手切れすることになっていたが、政宗の落馬事故による怪我で延引、芦名からも伊達への手切れを指示された親綱は、困惑を成実に訴える。
三月になり、政宗は親綱に手切れを指示したが、これが岩城常隆に聞こえた。郡山対陣の調停を反故にされた常隆は立腹、田村に向かって手切れをし、田村領小野を落し、ここに滞在した。これを恐れた大越紀伊は、田村宮内を通じ、白石宗実・成実を頼んで伊達への帰順をはかる。
岩城より大越の警固に来ている大将二人を討ち果たすので、本領を安堵してほしい、というのが大越紀伊の要望であった。
田村宮内は従来の田村家中での対立から、大越の要望を不快に思ったが、成実と宗実に諌められ、大越紀伊の帰順は政宗の内諾が出た。しかし、これも岩城常隆に漏れ、大越紀伊は小野へ呼び出されて殺害された。

【安子ヶ島開城】

天正十六年四月。片平親綱の芦名手切れを受けて政宗は米沢を出馬する。未だ怪我が痛み、その歩みは遅かった。四月二十七日、成実は片平親綱を大森に同道し、親綱は政宗に御目見えする。
五月三日、政宗は本宮まで進み、四日には安子ヶ島を攻撃、町構えから二-三の曲輪を落す。ここで一度攻撃を休止したところ、城主安子ヶ島治部から成実へ使いが来て、城を明け渡すので出城させてほしいとの要望があった。政宗がこれを承諾し、成実家臣遠藤駿河が証人として城へ入る。政宗は軍勢を東の原に引き上げ、成実勢のみが残って警戒にあたった。城の衆の一部は高玉に入ったが、政宗はこれを容認している。

【高玉合戦】

天正十六年五月五日六時頃。伊達勢は高玉城へ攻撃を開始した。当初成実は先陣の予定であったが、政宗が先に城へ乗り掛けて軍の配置を再度検討、成実は城の北方へ配置された。伊達勢主力は南から東へ回る形で城を包囲、山続きになっている西側はわざと明けている。城主高玉太郎左衛門は討死、明けていた西から落ちたものはなく、敵勢はみな討死した。なお、この時政宗は撫で斬りを命じている。
政宗は五日は本宮へ納馬、六日には大森へ戻った。

【摺上原合戦】

岩城常隆は田村領内の攻撃を続けていたが、相馬義胤も田村領に入り、これに加わっていた。政宗は田村への警固に、大條宗直・瀬上景康・桑折政長を派遣していたが、相馬義胤が田村領にいる間に、相馬領北方の新地・駒ヶ峯を取ることを発案する。
五月十四日、大條ら三名と成実・白石宗実・片倉景綱を入替え、政宗自身は十六日に大森を出馬、新地・駒ヶ峯へ向かった。十九日に駒ヶ峯、二十日に新地は落城し、政宗は二十四日に大森へ戻った。
田村領は、岩城常隆・相馬義胤の攻撃を受けつつも、田村勢のみでの防戦で戦線は安定していた。ここで成実は、猪苗代盛国への再度の調略を白石宗実・片倉景綱に提案。二人は同意し、三人は五月二十六日、田村を発ち、それぞれの在所へ戻った。成実は翌二十七日、大森の政宗にこれを提案。政宗は即諾し、成実・景綱で同書で猪苗代盛国への文を送った。果たして猪苗代盛国からもすぐに応じる返事が届いたのであった。
一方、岩城常隆は、佐竹・芦名に対政宗の出陣を依頼する。これに応じた佐竹・芦名・二階堂の各勢は五月二十八日、須賀川まで出馬、田村へ攻撃の姿勢を見せた。政宗はこれを迎撃するため南進、成実・片倉景綱には猪苗代の警固を命じた。
景綱は六月二日、成実も六月三日には猪苗代に入る。
猪苗代盛国の伊達帰順は須賀川の佐竹・芦名・二階堂に聞こえ、芦名義広は同じ六月三日に会津黒川へ帰城し、猪苗代を攻撃する姿勢を示した。
これ以前から芦名勢の猪苗代攻撃の噂は聞こえていたので、成実・景綱は摺上から日橋付近を偵察した。
安子ヶ島まで馬を進めた政宗は、猪苗代の成実・景綱と合流し、会津へ向かう意思表示をするが、除け口のまったくない猪苗代の地形を危惧した評定衆に止められる。そこで成実・景綱の意見を聞くこととなり、六月四日、政宗の使者が成実と景綱のもとへやってきた。成実は、
「佐竹義重が本宮へ働くかもしれぬから、政宗は本宮に留まるべきだ」
と意見をのべ、両人とも猪苗代への政宗出馬はご無用、もし有事があれば安子ヶ島までは三十里なのですぐに報告する、と返した。
しかし、政宗の猪苗代出馬の意思は固く、使者に申し付けて成実・景綱とも出馬要請と返事を改竄、六月四日に夜駆けで猪苗代に入った。
六月五日の評定中、摺上原に展開する芦名勢を発見、伊達勢も出陣した。先陣・猪苗代盛国、二陣・片倉景綱、三番・成実、四番・白石宗実、五番・旗本、左備・右備に大内定綱・片平親綱、後備に浜田景隆である。
まず、猪苗代盛国・片倉景綱が敵と合戦を開始し、白石宗実と成実は盛国・景綱の後ろに詰めた。盛国・景綱が崩れかかったところで入れ替わり、今度は伊達勢が会津勢を崩す。両軍の旗本まで含めた押し合いがあったが、最終的に伊達勢が摺上原の上から敵を追い降した。
六月六日、周辺の諸城を落した政宗は三橋に在馬。六月十日に芦名義広は白川へ落ちてゆき、十一日政宗は黒川に入城した。
一方、田村では佐竹義重・岩城常隆が攻撃を続けていた。政宗は、大町三河・中島宗意・宮内常清を派遣したが、佐竹義重は田村領大平、岩城常隆も同じく門沢を落とし、大町・宮内はかろうじて退却、中島は討死していた。
政宗はさらに、浜田景隆・富塚宗綱・遠藤宗信を派遣したが、浜田は猪苗代入りのために呼び戻されている。
この後も政宗は田村への増援を続け、黒川入城後すぐに成実・白石宗実を三春に在陣させ、さらに原田宗時・会津新参の平田周防もこれに加わった。
田村領での小競り合いのうちで、岩城常隆、相馬義胤がそれぞれ敗北、会津での芦名義広の敗軍もあり、佐竹義重も七月二十日には陣払いをした。
以上は成実の著述による摺上原合戦の流れであるが、本合戦については松岡進「城館研究からみた戦争と戦場——磨上原合戦を事例として」という論考がより詳しく正確であるので、そちらも参照していただきたい。

⑦天正十七年十月 須賀川合戦

須賀川二階堂家は、当主二階堂盛義が天正九年に没し、二階堂の家政を取り仕切っていた芦名盛隆(二階堂盛義長男)が没して後、盛義後室大乗院(伊達晴宗女)が城主となっていた。永禄九年から芦名氏の軍事的従属下に入っており、政宗が会津を得た後も佐竹・岩城を頼んで伊達氏とは敵対関係を継続していたが、家中は親伊達派と反伊達派に割れていた。親伊達派は保土原江南斎・浜尾漸斎・矢部下総ら、反伊達派は大乗院・矢田野伊豆・横田治部・須田美濃らである。
会津を得てから、芦名旧領の調略を進めていた政宗は、二階堂氏にも帰順を進めるが不調であった。
そこで天正十七年十月二十日、政宗は黒川を出馬し、二十二日片平着陣。田村宗顕をはじめとする田村勢と合流し、二十五日に矢田野・横田を攻撃し、横田城を見下ろす松山で評定を行った。この評定には二階堂家中の親伊達派・保土原江南斎らが加わっている。保土原江南斎の「須賀川本城を先に攻め落とせば、他の小城はたやすく落ちるであろう」という提案に、翌二十六日から須賀川城を攻めることに決した。攻め口は地形に詳しい田村月斎の案が採用され、西の原及び雨乞口から攻めることになった。
二十六日未明。伊達勢は須賀川へ押し寄せ、西の原に陣を取った。
政宗は家老の者ほか四-五十騎を召し連れ八幡崎から雨乞口にかけて偵察に出たところ、城からこの両口に鎧武者十四騎と足軽三百余人が川の際まで出て鉄砲を打ちかけてきたので、政宗は攻撃を命じた。
八幡崎の先陣は、会津新参の新国上総、須賀川の親伊達派である保土原江南斎・浜尾漸斎・矢部下野、二陣白石宗実、三陣四保(柴田)宗義、雨乞口の先陣は、大内定綱、片平親綱、二陣成実、三陣片倉景綱であった。
政宗の攻撃開始命令とともに、合戦は始まった。雨乞口の大内・片平が崩れたので、成実勢はこれと入れ替わり、城の虎口へ押し入り、長禄寺に火をかけた。成実勢は雨乞口の敵兵が引き退くのにぴたりと付いて内町まで乱入したが、八幡崎の戦況は膠着していた。成実勢の放った火は、強風にあおられ、本丸に延焼し、須賀川城は落城した。
八幡崎の城方は本丸に構わずに合戦をし果たし、その場を離れずに討死した。
なお、須賀川方の軍記である藤葉栄衰記では合戦の流れにやや違いがある。藤葉栄衰記によってこの合戦を紹介しているwebサイト「戦国大名二階堂氏の興亡」によって紹介する伊達勢の攻め口は三ヶ所、
・大黒石口(出城八幡崎に通じる)
先陣 新国貞道
二陣 白石宗実
三陣 四保宗義
・雨呼口
先陣 大内定綱・片平親綱
二陣 伊達成実
三陣 片倉景綱(同陣していなかったとの説あり)
・南ノ原口
先陣 保土原江南斎・浜尾善斎ら須賀川勢、猪苗代盛国ら会津勢、遊佐丹後守ら畠山勢
二陣 田村宗顕ら田村勢
後陣 屋代解景頼、後藤信康、大條宗直、瀬上信康、飯坂宗康、田手宗実、大嶺信祐
であった。
雨呼口では大内定綱・片平親綱が崩れ、二陣の成実がこれに代わり、外曲輪の木戸から北町まで進入。
大黒石口・八幡崎館では、新国貞通の手勢が徒歩になり大黒石の池より岩の間や田の畦を伝い、会下町小路の南の辺りに乱入し、付近の民家に火を掛けようとしたがこれはならずに撃退された。
南ノ原口では守将須田盛秀がよく死守していた。
日暮れ近くになり、かねて政宗に内応の約束をしていた守屋俊重が、家臣に命じて本丸の長禄寺に火を放ち、本丸への延焼が落城につながった。

■伊達成実の武勇の本体 -人脈と外聞-

 前節で長々と、成実が参画した軍事行動の数々を紹介した。天正十年代の政宗の版図拡大は主に仙道方面への南進であるが、上にあげた軍事行動はそのほぼすべてを含むといって過言ではない。仙台藩祖政宗の偉大さを語るときに、仙道制覇と南奥の支配は欠かせぬ要素であり、仙道方面の取次を担っていたのは、伊達領国の最南端を構成する大森伊達家であった伊達領国の最南端を構成する、というのは、二本松移封後も変わらない。成実は父実元から仙道方面の取次役を引き継いて政宗の仙道制覇に深く関わり、かつ自らそれを書き遺したものが仙台藩士に膾炙されたゆえに、政宗の覇業への貢献者として強く記憶されたものであろう。
すでに書いたように、成実には合戦における個人の武勇伝は存在していない。
各合戦では成実勢だけで一備を構成し、有力な軍団長として働く一方、草調義——偵察とそれにともなうゲリラ戦——には、政宗の指示を仰ぐことなく成実や宗実ら城領を持つ大身の裁量下で対応していたことも読み取れる。ただし、草調義は手切れを伴うことも多く、状況は速やかに政宗に報告されている。
実際の合戦場での成実の動きであるが、政宗・成実ら指揮官が、戦場の軍配、即ち地形や要害、敵味方の部隊の配備を確認する描写が複数出てくる。軍配を確認した後、敵勢の動きを予想し、評定の上、自軍の配備を見直して実際の動きを打ち合わせる。基本的には一つの備——たとえば成実勢——が単独で勝手な行動をすることはなく、他の備と連携しつつ作戦行動を取ることになっていた。小手森合戦の成実勢の竹屋敷への移動はイレギュラーなものとして特記されている。また、郡山対陣でも成実は、合戦を仕掛けないという基本方針を破って、戦闘の口火を切っている。先に挙げた竹屋敷への移動も、両口の合戦が予想される敵の勢力圏への移動である。一方、偵察・ゲリラ戦である草調義では敵に誘い込まれて不利に陥ったと読める場面がある。(玉井草調義等)。
人取橋合戦で退却の進言を退けたエピソードといい、概して成実は戦闘には積極的である。ただし、竹屋敷への移動は軍配を分析した上での判断であり、また戦闘時においても敵味方各備の距離や動きを把握しており、決してがむしゃらに突き進む人物でないことも同時にうかがえる。
時には軍令違反を伴うほどの成実の積極さは、父実元以来唯一の有力一門である自信から来たものと想像する。成実は大森にあっては信夫郡の南半分、二本松に移っては安達郡の西半分を知行した。南奥では大名に匹敵する規模である。成実の兵力は、人取橋合戦への参加が七-八十騎、須賀川合戦での保土原江南斎の、おしなべて「一騎に三十人連」という計算を借りれば二四〇〇人ほど。人取橋合戦の伊達勢を通説どおり八千とすると、その三十%に相当する。この時、小浜の守備隊として残ったものが三十騎。渋川・八丁目・大森にも同数が残ったと仮定すると、これらを合せればおおよそ百七十騎五一〇〇人となろうか。ちなみに、亘理領主であった寛永十年の兵力は「馬上歩共に一一六九人、並馬数百五十五疋」であった。
成実の著作には、これら成実勢を構成する各家臣たちの合戦での活躍がさまざまに描かれるが、槍や鉄砲を取って敵と戦う勇武の姿に劣らず描かれるのが、合戦に至る前に他の大名の家臣や国衆らと、あるいは合戦時に成実勢から出て敵陣と交渉する家臣たちの姿である。彼らはたびたび政宗の元に参向し、政宗から成実への指示を受ける使者になることもありまた担当先の使者や当主本人に付いてゆくこともあった。
前者は調略の実務の担当者である。猪苗代盛国に対する羽田実景、青木修理に対する大内蔵人・石井源四郎、大越紀伊守に対する内ケ崎右馬頭らが見られる。
後者には、小手森合戦における遠藤下野、郡山対陣・高玉合戦における遠藤駿河が見える。
彼らは交渉先の当主あるいはその家臣と懇ろであったことから、これらの役目を担ったとある。
懇ろであった理由のいくつかは成実の著作から読み取れる。
ひとつは古傍輩——もともと同じ領主に仕える間柄であったもの——が、それぞれの事情により、立場を分かったものである。青木修理・大内蔵人・石井源四郎はもともと塩松に仕えていた傍輩同士であった。立場が変わっても人脈は維持されていたのは、成実家臣の石川弥兵衛が、安子ヶ島に籠っていた荒井杢之丞が高玉に向かうのを見送るエピソードからも察せられる。この二人は二本松畠山氏に仕えた傍輩同士であった。
また、一つは使者に行った先で知己を得る例である。郡山対陣で遠藤駿河が矢文を送ったのは、会津に使者として赴いた時に平田左京と親しくなった故であった。
また、大内定綱が片平親綱の内応を誘ったように、親族内で立場を異にしているゆえに、仕える主は異なっても懇ろであることもあるであろう。畠山氏家老遊佐下総と同苗であり、在所も同じとみられる遊佐佐藤衛門が成実の家臣に確認できる。懇ろであったか、なんらかの交渉があったのかは成実の著作に見えないが、遊佐下総ら五人の重臣は二本松落城に先だって伊達家に内応するのである。なお、遊佐下総は「兵部大輔(実元)かねて御懇ろなりとて、たびたび使いに遣わされ候なり」と山口道斎物語にある人物でもある。
このように張り巡らされた彼らのネットワークは、成実の著作にあるように、合戦の趨勢に多くの寄与をもたらした。
まさに佐藤貴浩が指摘するように、仙道方面への強い人的交流と仙道に対する地縁の深さが、成実の活躍の前提にあった。この人脈・地縁こそが、「武勇」として語り伝えられた成実の活躍の本体なのである。
この人脈を維持するために、外聞は大切なものであった。成実の著作にはしばしば、政宗・成実が外聞を理由に軍事行動を行う場面がある。また、田村の家老衆が、やはり外聞を理由に政宗の出陣を乞い、政宗がそれに応じる場面がある。外聞の悪い大将は頼まれぬ大将である。外聞が悪いままであれば、田村家中は雪崩をうって相馬方につくであろう、と田村の家老衆は政宗に言う。
外聞において、臆病と思われることや援軍を乞う国衆を見捨てることはもっとも忌避すべきことであり、ゆえに政宗・成実らは軍議において積極姿勢を示す必要があった。
これがよくわかるのが郡山対陣の記載である。
無勢での対陣を敢行した伊達勢にあって、政宗・成実は外聞を理由に戦闘を行おうと発言するのに対し、桑折宗信・伊東重信・片倉景綱らは多勢に無勢であるという現実において実利を重視した発言をする。窪田矢来の当番に成実があたった時に、陣中に合戦は必定という期待があふれたように、積極姿勢は士気の鼓舞にも重要であった。
しかし、政宗・成実は決して外聞の重視のみで行動していたわけではない。小林論文にあるように、窪田矢来の当番が始まる日には政宗は岩城に調停を依頼し、成実・景綱が戦闘を行い、伊東重信、ついで政宗が駆けつけたとされるまさにその七月四日、調停を担う岩城の担当者が両軍の陣に入っている。以下は推測に過ぎないが、この調停の動きは当然成実も知っていたはずであり、成実も含めた評定で決議されたもののはずである。翌七月五日には調停による一時停戦が成立するので、結果的にこの日の成実勢の抜け駆けから始まる戦闘が郡山対陣における最後の戦闘となり、期待される外聞を行動で示した名誉ある状態で本格的な調停交渉に入ることができたのではないか。
成実のこの姿勢は、政宗記の著述に際しても貫かれたのか、岩城常隆の調停は窪田矢来の当番のエピソードとは章が分けられた上に日付の記載が省略され、政宗が合戦への積極姿勢を示しつつ、平行して調停交渉行っていたことが一見わからない体裁となっている。

 以上、政宗記・伊達日記を材料に、成実の武勇の内容の再検討を行った。
外聞・名誉という言葉は繰り返し成実の著作に登場し、成実および当時の武士の行動規範の一つとなっていることがわかる。それは倫理であり美学であると同時に、版図拡大—— 武勇——の源泉である人脈の維持にかかせない実利的なものであった。
人取橋合戦は無勢で多勢を退けた名誉の合戦である。これによって、それまで若輩ゆえに(会津に比べて)頼まれぬ大将であり、大内定綱の離反を招いた政宗は、この合戦によって頼むに足る大将であるという外聞を得たのではないか。政宗・成実の武勇として、決して政治的転換点には見えない人取橋合戦が第一に取り上げられ、仙台藩士に膾炙したのはこのためではないかと考える。
成実の「武勇」は個人的武勇ではなく、父実元から引き継いだ人脈を生かして政宗の仙道制覇に貢献したものであり、またその「武」の評価は、自らが政宗の武勇を顕彰するために書いた政宗記などの著述によって定着したといえよう。

参考文献
webサイト「成実三昧」より「大森伊達家の成立と解体」  http://shigezane.fc2web.com/majime/nazo/oomori-dateke.html

webサイト「成実三昧」「粟の巣の変—輝宗の死をめぐるいろいろ」http://shigezane.fc2web.com/majime/nazo/awanosu/terumune-deth.html

遠藤ゆり子「天正期における伊達家の外交と片倉景綱」 平成25年12月2日発行 白石市文化財調査報告書第47集「片倉小十郎景綱文書」収載

仙台市史 伊達政宗文書135

2004年11月25日発行 小林一岳・則竹雄一編「【もの】から見る日本史 戦争㈵ 中世戦争論の現在」(青木書店) 収載 

webサイト「戦国大名二階堂氏の興亡」 http://www.muratasystem.or.jp/~hideyuki/welcome.html より 「須賀川城籠城戦」http://www.muratasystem.or.jp/~hideyuki/sukaraku1.html

佐藤貴浩「伊達領国の展開と伊達実元・成実父子」 2013年2月発行 戦国史研究第65号

伊達天正日記 天正十六年三月二十四日条 戦国史料叢書収載

大日本古文書家わけ第三 伊達家文書之二 939号

仙台市史 伊達政宗文書167

治家記録 天正十六年四月十日条 「藤五郎殿ヨリ使者遠藤駿河相添備前ヲ差遣サレ」

註7に同じ

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