この記事は野崎さまより、情報・詞章を紹介いただきました。イラストも頂戴しました。ありがとうございますm(_ _)m
能楽の盛んであった仙台藩では、江戸期にいくつかの新作能が作られていますが、この「摺上」もその一つ。
作者は仙台藩士の平賀蔵人義雅で、伊達重村に詞章を御覧に入れたといいます。初演は代が代わって、伊達斎宗の世です。
藩祖の事跡を題材にしていることから、上演には厳しい制限があったそうですが、岩出山伊達家では春藤流で保存し、正月に謡う例になっていたそうですから、それなりに人口に膾炙したものと思います。
。(※春藤流:能楽ワキ方の流派の一。流祖は春藤六郎次郎とされるが、異説もある。金春座付きとして栄えたが、明治以後衰えて、昭和20年(1945)廃絶。 by Yahoo! 辞書)
作者の平賀蔵人義雅は、「私本仙台藩士事典」平賀氏の項にある平賀出雲義雅と思われます。平賀氏は100貫文の知行で着座に列する家柄で、伊達尚宗の代より伊達家に仕え内馬場山口在家に居を構えたことから、延宝年間までは馬場氏を称していました。
能は成実をシテとして摺上原の合戦を物語る、勝修羅夢幻能の形式をとります。
(前場)
伊達家新春恒例の七種連歌に参加した法眼(猪苗代氏)が京へ帰る途上、先祖ゆかりの猪苗代は小平潟天満宮を訪ねようと思い立ちます。猪苗代へ到着し、黒川城を遠望して、七種連歌の濫觴となった政宗の詠歌
「七種を一葉に寄せて摘む根芹」
を思い起こしていると、どこからか翁が現れ、歌の心を問います。
「春の七草のことだろう」
と法眼が答えると、
「それはそうだが、七所の御敵を黄門君(政宗)が従えた歌なのだ」
と翁は教えます。
この翁に法眼は小平潟天満宮への道を聞き、その案内によって無事天満宮へ着くと、そこは梅の花盛り。互いに梅を見て楽しみながら、仙道の名所教えとなります。
やがて夕方。夜もすがら共に楽しもう、と音楽を乞うと、翁は夕霞にまぎれて消えてしまいます。
(中入)
(後場)
翁の望みどおり法眼が音楽を奏でていると、華やかな武者が月影の中に現れ、
伊達成実であると名乗ります。
成実は摺上原の合戦の様子を語り、仙台藩の栄を祝います。
『宮城県史』一四 文学・芸能 三原良吉「能」所収 能「摺上」
作:仙台藩士平賀蔵人義雅(伊達重村治世)、初演:文化十二年二月四日仙台城ニノ丸表舞台
前シテ:所の翁、後シテ:藤原成実(伊達成実)、ワキ:法眼某(猪苗代氏)
所:陸奥会津、季節:3月
(中入り )
注)黄門君 伊達陸奥守政宗
藤原成実 伊達藤五郎成実
景綱 片倉小十郎景綱
宗実 白石右衛門宗実
義広 葦名義広
盛国 猪苗代弾正盛国
親成 平賀出雲親成 作者平賀義雅の先祖
仲綱 大町仲綱
黒川城 会津若松城の古名
あの時代に藩祖を題材にした歴史創作をしてしまったところがまたスゴイと(笑)。
きっと、こういうのを書くのが大好きな人だったんだろうな、作者は。本職の人ではなく、好事家の書いたモノだ、というのはなんとなく納得できます。
さすがに政宗をシテにすることははばかられたのか、はたまた「成実記」を記したところから抜擢されたのか、とにかくシテは成実になっています。
ただ、詞章からはシテが成実である必然性は全くありません。ちょっと人物を出しすぎ、叙事に流れすぎかなー、と思います。詞章にでてくる武将たちの誰がシテでもおかしくない。
政宗を顕彰するなら、政宗をシテとした方がすっきりできあがると思うのですが、やっぱ遠慮があったんでしょうねぇ。
成実は政宗のことを後世に伝えた立役者ですから、次善の策としては適任だと思います。でも成実を選んだことから、後場の詞章が「語り」的な書き方に流れちゃったんでしょうねぇ……。間語りでこれ(後場の内容)をやって、後場のキリにはもっとこう、陶酔できるようなカケリにふさわしい詞章を……。(←欲張りすぎ!)
前場の道行きや名所教えは陸奥の歌枕オンパレードで、居ながらにして旅行が楽しめるしかけになってます。
陸奥の歌枕はこのサイト「蝦夷・陸奥・歌枕」を参照。詞章本文にもリンク貼っておきます。
会津盆地から仙道の名所は見えないけど、それを突っ込むのは野暮ということにしておきましょう。ちゃんと「山越えに」と言ってますし。
猪苗代で翁に会わずに、仙道で会って道行しながら名所教え、というのはダメなのかな……。(しっかり突っ込んでいる(^^A)
あと、鼓と笛は一人で同時にできないから、ワキツレを出せよ、という突っ込みもありますが、ワキツレに独自の台詞があるのは少ないので、上演時にはちゃんと従僧がいたかもしれません。
通常演出では、後シテを若武者で。そして老武者姿で演じる小書があったりなんかすると萌えます。