伊達成實、小字は藤五郎、又兵部、後安房と称す。稙宗公の子實元を以って祖とす。母は晴宗公の女なり。成實人となり英毅大略あり。勇武無双と称せらる。天正十三年人取橋の役、成實の一隊群を離れ敵軍環視の間に陣して功あり。政宗公書を賜ひて之を賞す。十四年二本松城陥り之を成實に賜ふ。是に於いて安達郡三十三郷三万八千石を領す。十六年郡山の役、十七年摺上、須賀川の諸役皆功あり。十八年大崎の役、成實出て蒲生氏郷の陣に質となる。氏郷京帥に適すに逮びて二本松に帰る。十九年改めて伊具郡十六郷、柴田一郷を賜ひて角田城に移る。文禄二年朝鮮の役に従ふ。四月公に従ひて伏見にあり、紀州高野に赴く。蓋し成實の功諸臣に冠たれども、位禄其下に在るを以って不平積んで此挙に出でしなり。是に於いて留守政景人をして慰諭すれども遂に聴かず。公屋代景頼に命じて角田城を収めしめて曰く、若し聴かずん伐ちて之を取れと。成實の臣羽田實景以下三十余人戦死す。後上杉景勝五万石を以て之を召せども応ぜず。此年秋昭光、政景、景綱の諸公命を以て之を招く。成實仍ち至る。白石の役寓して昭光の営中にあり。上杉氏の武将齋藤兵部、成實の威名を慕ひ信夫郡の士兵五千を卒ゐ、請ひて来たり属す。七年又亘理を賜ふ。元和元年大坂の役に従ふ。寛永十五年成實事を以て江戸に覲す。時に七十一。乗輿を以て門に入る。饌を千代田城に賜ふ。此時奥羽の軍事を談じ家光障を隔てて之を聴き頗る其勇略を歎称し時服二十、外袍十を賜ふ。正保三年六月四日没す。年七十九。法名久山天昌、雄山寺と号す。亘理郡小堤村大雄寺に葬る。辞世の歌に曰く
昔より稀なる年にここのつの余るも夢の中にそありける
(世親伝、東藩史稿)