永禄11年(1568)、おそらく信夫郡大森城に誕生。政宗より一歳年少。
幼名・時宗丸。通称は藤五郎、兵部、安房。
「藤五郎」は父・実元の通称と同じ。「藤」は藤原姓に因る。後に政宗の元を出奔するまでは、一貫して「藤五郎」と称している。文書では略して「五郎」と記されることが多い。
「兵部」は慶長5年(1600)の帰参後、亘理に移る前までの短期間の通称。
亘理に移る前には既に「安房」を称しており、没するまでこの通称を用いている。この「安房」と「藤五郎」は亘理伊達家代々の通称となった。
元服は天正7年(1579)と書いた本がある。「常盤定牽文書」では烏帽子親を輝宗、場所は大森城とする。初陣の時期は不明。
一説には、政宗元服の際、宝刀を捧げ持ったという。
天正12年(1584)政宗家督の前後に、成実も大森城主となったと思われる。17歳ぐらいか。数え年なので現代の学年でいえば高校2年。
人取り橋の合戦、小手森の合戦、窪田の合戦、摺上原の合戦などに大功があり、自ら「勇武無双」と称したという。政宗の仙道制覇にあたってはさまざまな謀略にも貢献し、智勇両面で活躍した。
天正14年(1586)、二本松攻略後、二本松城主となる。
天正18年(1590)、政宗の小田原参陣の際には、会津留守居を勤め、小規模な反乱を鎮めている。
秀吉の奥州仕置きにより、政宗は岩出山に転封となるが、それにともなって成実は角田へ移る。
文禄の役に参加し、政宗らとともに朝鮮に渡る。
文禄4年(1595)豊臣秀次失脚の際、政宗も連座の疑いをかけられた。その際、秀吉に、政宗の19人の重臣連名の誓詞を差し出しているが、成実はその第二番、石川義宗の次に名を記している。
秀吉没の前後、政宗の元を出奔。高野山に入り、後に相模糟谷に陋居するという。政宗は成実の居城角田を召し上げた。この際、抵抗する家臣らが討ち死にした。
慶長5年(1600)、関が原合戦に伴い、奥羽でも豊臣方の上杉氏と徳川方の伊達氏が合戦。白石城の攻防において、石川昭光の陣にて帰参。
慶長7年(1602)、亘理城主となる。
大阪冬の陣、夏の陣に参加。
山形最上氏改易の際、出陣して野辺沢城を受け取る。これが最後の出陣となる。
江戸城二の丸石垣普請の指揮をとる。
晩年、政宗の伝記を著す。「成実記」「政宗記」「政宗公御名語集」などが成実の著作とされる。
江戸将軍家へ御礼言上の際、城中での駕籠の使用を許され、将軍家光に御簾越しに奥羽軍談を語る。
正保3年(1646)、隠居、没。79歳。法名 雄山寺殿久山天昌大居士(後に殿号を大雄寺殿に改める)。
辞世 古来より稀なる年にここのつのあまるも夢の中にぞありける
政宗の九男・伊達治部宗実を養子とする。
二子がいたが夭折した。