伊達世臣伝記による伊達成実の伝記

  

伊達安房藤原成実は、初め藤五郎と称す。兵部大輔実元の嫡子。母は当家15世晴宗君の女。当家の一門(当家の公族、古昔より唯一家一族の称有て一門の称無し。政宗君の時、初て一門の称を命じ、一家一族の列に別たしむ)なり。材明果断にして大志あり。無双の勇将なり。17世政宗君の世に当て、会津仙道其余所々の役に戦功あり。初め信夫郡大森城に居住せらる。二本松落城の後、二本松城を賜て移住せられ、其後伊具郡角田城に移らる。其行実詳なる事伝わらず。僅に当家の記録に載する所を考るに、天正13年乙酉11月17日、人取橋の役に成実は士卒1000余を率い、高倉本宮の間の路傍小山に拠て備らる。高倉を来る敵は成実の陣に向えり。其陣所の前に山少しく高き所あり。下郡山内記、馬を乗上げ見るに、白石宗実・浜田景隆・高野親兼3人の指物見えて、馬上6-7騎歩卒140-150許り高倉の方より馳来る。其後より又大勢推来る。誰かと怪むに其間1町余にして、鉄砲を打掛たり。扨は敵見方の境なりと思い、馬を乗返して
「敵来る。早く指物をさせ」
と呼かけ。何れも指物を指て相待つ。3人共に成実の陣に馳入り、直に本陣を差て打通る。此時観音堂前人取橋の戦最中なり。因て内記、成実の陣に乗返し、
「観音堂の人数と此方の勢の間を敵に推切られたり。早々退きたまえ」
と云て馬上より纏の旗を抜て歩卒に授く。成実聞て
「縦い引退くとも討死疑なし。一向此処にて討死すべし」
と謂て踏留り、士卒に下知し、又纏を立て待しに。敵間もなく山下に推来る。人数を出し相戦い、追下し追上られ、数回奮戦時を移す。家士伊場野遠江73歳大剛の者なりしが、終に討死す。既にして観音堂の戦、武別して敵引揚たるを以て、成実も人数を引挙らる。君も成実今日の挙動大敵両軍の間、本陣に隔たる所に於て合戦敗軍せられざる事、前代未聞無比類の旨、書を賜て称美せらる。同14年丙戌正月元日成実の陣城渋川へ二本松勢来て相戦い、首260余級を獲らる。同16年戌子3月23日成実領地玉井へ高玉より草調議あり。成実、■和田と云う処まで追駆一戦し、物主高玉太郎左衛門義直鉄砲に中て創を蒙り、太田主膳と云者も討死し、玉井日向を首とし、首150余級を獲らる。

(以下、作業中)

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