「東藩野乗」(仙台叢書八巻所収)による成実の伝記

「東藩野乗」巻之上より(原漢文を書き下し)

亘理邑主
  亘理邑主、伊達成実君。初め藤五郎、更に安房と称す。兵部大輔実元の長子なり。勇略絶群、頗る文雅を好む。貞山公に少きこと一歳。戦い毎に必ず従う。仙道会津之役に最も功あり。我が創国之業、此の人に掛かること多し。伊具郡角田邑を食む。慶長二年旨に逆らひて出奔す。公、屋代景頼を遣わし往きて其の邑を収めしむ。遺臣ら出て降る。独り家宰羽田右馬介拒みて戦ふ。家を挙げ三十余人之に死す。君相州小田原の糟谷村に隠る。上杉景勝之を招く。五万石を以て応ぜず。東照公。歳俸として廩米百口を賜ふ。既に石川昭光、伊達政景、片倉景綱等。数へて其の異心無きを明にす。公亦た心を解き。慶長五年召還さる。後封を亘理郡に移し。二万八千石を食む。寛永十五年。大猷公より銀五千貫を賜る。君登城して拝謁す。大猷公曰く。嘗て堅を被り鋭を執りし者、方今僅々数輩のみ。汝宜しく往日の戦略を談ぜよ。我之を聴かしむと。時に伊豆守松平信綱。掃部頭井伊直孝。大炊頭土井利勝。及び衆諸侯座に在り。君既に談じ座を傾けて感服す。更に時服若干を賜ふ。正保三年六月四日没す。年七十一。子無し。貞山公九子宗実君を嗣とす。
宗実君の子宗成。天和二年。痘を病みて歿す。嗣無し。義山公命じて封を削り。一万石を以って将に伊達宗重【涌谷村主】次子元篤を立てて後と成さんとす。時に成実夫人尚在し。命を奉ずるを肯んぜず、衆を会して議して曰く。我が家は是れ国の藩屏。創業守成之功。先君力あり。奈如ぞ夭死の由を以って輒ち其の嗣を絶つか。且つ諸臣創痍いまだ癒えず。遽するに葬地これ無からしむ。吾之を忍べず宜しく上書して之を請ふ。若し允則見えざれば惟だ一死有るのみと。衆議もって然りとなす。乃ち志賀六郎兵衛。只野三郎右衛門。常盤隼人。大堀杢之進等。成実之功績数条を連署し。以って其の封の全きを請ひ。且つ近戚を選びて之の嗣と為す。其の書事理明晰。人をして感動せしむ。公悟りて遂に之を允す。乃ち伊達宗敏【岩出山邑主】次子実氏をして嗣と為す。采邑故の如し。其書今に至りて伝誦す。亘理訴状と曰ふ。

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