亘理訴状による成実の功績

  天和2年(1682)、亘理伊達家当主が幼くして急死。藩は末期養子をたて、知行半減という方針だった。それに家中は反発、別の養子を希望し、しかも領地は全部安堵してくれと訴えでた。
実元・成実の忠功を列記して、「これだけの功があるんだから減らさないで(ToT)。 跡目は中村伊豆がいいな」
  当時の常識からすると、かなりずうずうしい訴えという気が……(^^ゞ。しかも末期養子の願いを出してる間に当主が死んじゃったから、実際は死後養子なわけで。
  この事件を「天和の訴願」、亘理伊達家中の出した訴状を「亘理訴状」という。成実没後おおよそ35年後の出来事。まだ、「生きてる成実」を知ってる人間もいただろう。その当時の家中のから見た成実観がかいまみられておもしろい。

  と、いうわけで「亘理訴状(亘理町史翻刻掲載)」から成実の功績部分を抜粋。
 さてまた成実御用に相立申す段、申し上げるに及ばず候えども、仙道御弓矢の節、成実武功を以って勝利なされ、そのうえ貞山様(政宗)御身にたびたび代り申す段、承り伝え候おもむき、左に申し上げ候御事。

一、仙道人取橋において、会津義広・佐竹義重・岩城常隆・石川昭光・白川義近仰せ合わされ、右五家の勢、雲霞のごとく押し来り、御味方敗軍、貞山様御旗元まで押し付け、茂庭左月を始めとなし数多討死、すでに御大事相見え候ところ、成実味方を離れ、一命を軽んじ、敵の真中に乗り入れ、家中も大功の者ども討死つかまつり候えども、成実武功をぬきんで、敵退散つかまつり候事、貞山様にてもひとえに成実武功御感、山路淡路殿を御使者となし、今日の御働き比類無く候、敵の後ろにて合戦いたし候て、敗軍つかまつらず候事、前代未聞の事に候、畢竟、其の方ゆえ大勢の者ども相助けられ候、定めて手負い数多これあるべし、のよし御自筆の御書下されしよし、成実覚書にも指し置き申し候。

一、摺上原御合戦の節も、成実武略を以って猪苗代弾正御味方につかまつり候ゆえ、貞山様御名を上げられ、会津12郷御手に入り申す事、成実武功御褒美あそばされ候由、かつまた、塩松御手に入り申す儀も、成実たびたび御相談申し上げ、知略を以って相調え申す儀、隠れも御座無く候御事。そのほか数度の忠功これ有りの儀、申し上げるに及ばず候。

一、太閤様御代、蒲生氏郷奥州へ下向の節、氏郷へ表裏の者これ有り、貞山様御進退御苦労あそばされ候ところ、成実一命を軽んじ人質となり、氏郷へ相渡り候ゆえ、氏郷御疑心解け、右の御難御遁れあそばされ候。ことさら関白秀次公御切腹の節も、貞山様へも太閤様御疑心あそばされ、御大事に御座候ところ、成実申し上げ候は、「とかく御国に御座なされ候いては、仰せ上げる様もなられずなり候間、早々伏見へ御登り、御逆心これ無きの段仰せ上げられしかるべく候。もし御切腹にも及ばれ候はば、御国の儀は拙者に相任されるべく候。御家中申しあわせ、一戦つかまつり、御本望相遂げ申すべく候間、御登りなされ候」様、申し上げられ候について、岩出山を御立ちなされ候ところ、道中へ御懇意の衆告げ来り、政宗秀次へ御同心のよし申し候間、御登りなされ候はば、必ず御切腹なされるべきよし、御左右御座候えども、御吟味相究められ候につき、御登り薬院(施薬院全宗)へ相窺われ候えば、「さてさて一段の御登りに候、早々大坂へ御参り、先ず我ら屋敷へ御出で候」様、仰せ遣わされ候について、薬院へ御出で、品々仰せ上げられ候ゆえ、太閤様「政宗逆心候はば、このたびすなわち罷り登るまじき候ところ、軽々罷り登り候」よしに思し召され、前々の御疑心解け、それよりだんだん御首尾よき儀どもこれ有り、右の御気遣い・御免・御安堵あそばされ候段、貞山様成実にたびたび御意なされ、伏見の儀は、ひとえに其の方思慮を以って御難御遁れあそばされ候よし、御手を合わせられ候段、成実の咄に承り伝え候。

右の趣き、段々忠功これ有り、高知指し置かれ下され候段、世に隠れなく御座候ゆえ、寛永15年銀子5000貫目、忠宗公御拝領の節、御一家中より御礼のため上府申し候について、二之門まで駕籠御免、大献院(家光)様御目見え、時服数多拝領、その上だんだんお座敷に指し置かれ、松平伊豆守殿・井伊掃部守殿・土井大炊殿、そのほか歴々御衆差し置き、成実に弓矢の咄なしつかまつるべき御内意仰せ出だされ、公方様にも御障子一重の内に御座なされ、聞きなされ候事、かつまた、成実武功御感あそばされ、公方様御常翫なさる御事、ひとえに御家の飾りにも罷りなり候。

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