二本松気遣給ふ事、附猪苗代武略事

抑会津へは手切なれども、会津一味の二本松とは、手切もなく末無事也。其謂を如何と申すに、其頃成実親実元、信夫の大森を成実に渡し、八丁目へ世外となりて移居。此故に二本松義継、実元所へ内通ありて懇し給ふ。其子細は、佐竹会津へ一味たりと雖ども、二本松・四本松は、本来佐竹・会津或は仙道何方へも、威勢のつのる処を見合、身をもたるゝ身代なれば、政宗若年なれども政道賢く文武の強敵なる故、今度許にて伊達軍つのりなば、義継も実元を頼み降参あるべきの底意なり。実元も又存る旨のありければ、彼境をば尚も首尾よく鎮めける。其品々は左に顕はし侯ひぬ。角て成実、居城大森を五月八日に打立、九日檜原に参り、政宗の前へ出れば、
「今度会津への手切に付て二本松との境は如何に」
、と尋給ふ。
「先安穏にてまします、さればとよ、義継御許を大事とや思はれけん、二本の臣下遊佐下総と申せし者、日頃実元に知人なるを悦び、彼の下総を度々使に預り、内通に依て如何にも静に候、彼の境の手切は御差図次第なり」
、と申ければ、其場に在ける人をのけられ密かに、会津への手切無首尾に付て左馬介敗軍の品々語り給ひ、「行はありけれども、先々何方も切所なれば、当時可仕懸やふもなき故、昨日も人数相返しけり、去程に、二本松との境をは先静め度子細にや、会津へも手切、扨二本松へも手切、一度に両口は如何」、と宣ふ。其にて成実申けるは、
「会津の大身猪苗代弾正盛国臣下に石辺下総と申せし者、其郎等羽田右馬介首尾有ものにて候程に、彼手筋を以て弾正を拵へ見候はんか」
と申ければ、右馬介呼べとて召給ひ、成実口上を承り、書状を以て汝武略を致せと宣ふ、扨片倉景綱・七官伯耆・成実、三人にも添状せよと宣ひ、何れも其にて書認めけり。彼伯耆本は会津牢人なりしが、伊達に扶持せられ心だてよかりければ、心に入不断政宗相手の者なり。中に就き会津に知人多かりければ、今度の書状も越せたまへけり。扨又片倉小十郎景綱、元来を申に如何にも小身なりしを、政宗幼少より見立給ひ、目近く使ひ給ふに、武勇の誉は言ふに及ばず、第一案者のものにて、縦ば十ケ条を思案せば、先へゆき兼ることは人々の習なるに、景綱右十ケ条皆先へ行ける思案どもなり、加様の事をも政宗をば、若年より各別なりと、家の者とても思ひけるにや、誠に其砌りは、末だ人の目にも立ず、歩立の小十郎を取立て給ふに、名誉の者にて末には家に従ひ一二を争ふ程の大身にし給ひ、臣下と成て剰へ伊達の先陣程の大身にし給ふ。是に付ても、上下万民感じ奉る。か程の小身者を取立給へぼ、何国にも人間の生付にて、そしりねたみは有ものなれば、傍輩の立身は申すに及ばず、かりそめ也とも主君の前、今日は我より仕合能としるときは、妬心はあるものなるに、政宗少より我一代に景綱を始め、幾多の人を取立給ふと云ども、家の大身或は田夫野人に至る迄も、誹謗のことは扨置ぬ。一人に情深くましますときは、万民共我身の様に忝きとすすみけり。されば昔より名大将と呼ばれけるは、第一先我家の人を見知給ふにより得其将と云り、恐らくは政宗をも名将とも云はんや。政宗十九歳の、天正十三年乙酉八月十二日より、仙道の四本松へ始めて馬を出されけるに、父輝宗不慮なる生害をなし給ふ。正に此時を見分、会津・仙道しかも老巧の佐竹義重始め七家の大将、伊達をかすめ取らんとて、仙道の本官へ陣を備へ、若年の政宗を掌の中に握り、合戦をいどむと雖ども、御味方の軍兵日来思ける証にや、一騎一人二心なく、大勢と取向勝利をえ、歴々七家の大将、十九歳の政宗に却て後姿を見給ふ。其品々左悉く見はすなり。永して右の数条は、文其儘しためければ、政宗宣ひけるは、
「彼の文ども当所より猪苗代へ越し、返事をば大森へ遺すべし、今日は日も暮れ人馬も草臥如何なれども、二本松の境気遣なれば、急ぎ帰るためと今夜中途の宿をば緤野民部仕れ」
と、先へ宣ひ遣はされけり。
「大義なれども夜を日に継で帰れ」
と宣ふ。故に其日に槍原を罷り帰る。知る処に六七日とて、大峯式部・七宮伯耆、大森へ下さる猪苗代よりの返事披見の処に、弾正納得悦びの旨不斜、其元より猶も武略肝要なりと宣ふ。式部・伯耆をば、人の知らざる所に指置き、右の使元来猪苗代より出ける三蔵軒と云出家を申付、今度は信夫の土湯通を遣す。其状
「檜原より進みける御返答披見の処に、忠節有べき旨、悦の至なり、此上御望の儀於有之、聊無底意可承、政宗判形相調可進由申ければ、返状に、御忠節つのり会津御手入あるならば望の品々加此。
一会津の内、北方半分可被下置事、
一会津の者ども、某より以来御忠節ありとも、代々の会津に於て、如引付座上に被差置可被下事、但御譜代衆には不構事、
一御軍不募して猪苗代を退きなば、於御家三百貫文所、堪忍分を可被下置事、」
右三ケ条望に付ては、式部・伯耆は大森に致逗留、弾正書付計を差上げければ披見し玉ひ、政宗よりの書付に
「一弾正三ケ条の望、違乱有間敷事、若亦居城を立除なば、領中於柴一三百貫文の所、如望可充行者なり」、と
判形相調、如是にて其書付をば成実に相渡し、式部・伯耆は檜原へ参る故に、三蔵軒に判形持せ猪苗代へ退ければ、二三日とて盛国返事に、
「御判形慥に請取奉戴、然りと雖も、家督の盛種是非会津へ奉公と申程に、如何にもして是をなだめ手切せん」
、と申す。一両日相過、又三蔵軒を遣はし、急ぎ手切あれと申しければ、盛種承引なく父子の問二つになり。家の子迄二つに分れ、申合の手切れ相違して、会津への軍も叶はず、檜原に新地を取立給ひ、後藤孫兵衛を城代にして、御身は先帰陣し給ふ。斯て政宗十九歳の五月、在城米沢より出給ひ、軍行始め是也。成実も其時十八歳にて、何のわきまひもなく他国へ武略を、今存合けるに、扨もあやうきことども哉と、余所の聞も辱敷、身の毛もよだち侯事。

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