去程に、常々奥方抔のことをば争か存知候べき、縦令ば表なりとも我と見ざること多かりけれ。それは奥表ともに能ことも悪きことも家に隠れなき故に、見聞のこと粗爰に記し畢ぬ。先朝起給ふに床の上にて、髪を自身に一束に結び、手水を仕廻、又本の床へ直り給ひてたばこと望み給ふ。煙草をつきて参らする者、奥表に定りけり、扨煙草を聞召すには、下に唐皮を敷、其上に一道具を置、たばこをつき、蝋燭を灯参らせけるに、三服か扨は五服か、何時も右の通定るなり。夫より表へ出給ひ、閑所へ入給ふ、閑所は京間一間四方、内に三階の棚あり、棚の上には硯・料紙・簡板・香炉、其外刀掛万ず結構にて、閑所に入給ふには、朝晩共に焼物なり。而後行水屋へ入給ふとき、台所より朝の膳部を奥小姓、受取差上げるを、心に入ざる処をば直し給ひ、物書どもへ遣はし給ふを、清書して是を渡す。扨行水に取付給ふに、刀掛に大小を納め、広蓋に鼻紙・印籠・巾着・帯・小袖を置給ふ迄も、常々少しも違わず。或行水何程如何様にし給ひ、浴衣きせ参らせ身を拭迄も定りけり。惣じて朝晩ともに両度の行水、旅は申すに及ばず、寒風嵐なりとも、右の行儀常の如し。扨行水相過表の寝間へ入、朝奥より着給ひける小袖をば着替、常の居間へ出、髪を結せ給ふ。此ときに至て左よりはき給ふ。自然に緒などゆるみければ、幾度もはき直し給ふと云へり。扨指立たる五節句には上下一双物、朔日・十五日・二十八日は、羽織に袴なり。尓後表の座敷へ出給ひ、「相伴衆」と呼給ふ。其とき当番の小姓頭両人の内、一人中坐して呼掛に、一人宛出けるを、自身左右の差図にて座敷相済、「膳を出せ」と呼給へり。上りけるに相伴衆へ残りなく、膳ども渡りけるといなやに、膝を直し箸を取、食腕に手を掛給ふと同く、相伴衆も箸に取付。其より二の膳引菜上りけるを、小姓頭陰に相詰、夫々を見合、段々上させけるなり。食過酒のときは嗽をし給ひ、聞し召と云へり。尓れども、其内親類衆の一人も加はりければ、左様にし給はず。常は只大形酒をも聞召さず、何れもは気根次第と宣ふ。慰のため取廻しなば、且は政宗も聞召んと、何れも中座にて、其方此方と取詰けるに、縦令ば手前は聞召さずとも、其理の済まさぬ間は何とき迄も待ち、埒の明を見給ひ、「湯」と望み給ふ。扨膳下り茶菓子の上りけるを、座中へ廻し手水に立給ふと、相伴衆も次へ立手水相済、本座有て「何れも本の如し」と宣ふ。其とき茶道床脇なる台子へ向ひ、茶を立、薄茶・菓子迄相済。茶道水覆を持立といなやに、相伴衆も次へ立、其より又役人ども入替、色々用どもを調ひ、八つの時計鳴ければ、其日の用は終て、暮の膳部上りけるを、朝のごとく直し給ひ、夫より奥へ入給ふ。暮の膳は大形奥にて聞召し、其後閑所へ入り、晩の行水相済けり。朝より終日の行儀先かくのごとし、其外色々細かなること際限なし。されば奥方にても空く光陰を送り給ふことなしと云へり。表などにて左様のことはし給はざれども、奥方の慰みには、見台に文書を置、常々見給ふとなり。故に文字も大形手跡は天下に隠れ無く、詩作歌道も大身の伴、或は出家衆抔へ付合、詩歌の砌は能悪も夫々答を合せ給ふ。まして若年より軍合戦に戯給はで、学文などは大略ならん、詩作歌道も面に顕はれ僻給ふとはみへざれけれども、其頃都より兼如、其子の兼与、甥の兼益、其外兼也などと云、歌人をまねき造作を以て召抱、江戸仙台をかね、上下の奉公剰へ兼如の弟正益をば、家来の者の為なり抱ひ給ひ、妻子ともに引下し長時断らず在城に置給ふ。或年兼与・兼益下されけるに、済家の和尚達を集め、詩歌抔とて慰み給ふ。
テキスト化:慶様
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