成実所振舞申事

されば、寛永の初めより政宗宮城の国分仙台近所に、屋敷を三町四方に取立、惣構に弘さ三十間の堀を掘り、二丈余尺の土手を築、彼地若林と名付、仙台より移し給ふ。去程に、諸士は云うに及ばず、町々までも出来して、往々は隠居所にもし給ふべきかと在る程なり。是に依て、成実屋敷の作事も出て、三四度申請、其頃兵部大輔とて幼少の子どもに、能をさせ参らせ馳走盛んなれば、成実屋敷に舞台を取立、同十一年二月十九日に申請、能をみせ参らせけり。先朝は数寄屋にて会席、夫より書院へ出御有て、唐織の夜着一つ小袖十、巻物十巻賜りけり。此方よりは太刀折紙・銀子百枚・毛馬一匹黒毛・綿二百目掛百把進上す。扨政宗装束を長袴に直し給ふと、何れも其作法にて能始まる故に、親類衆も各見物なり。是に付て万つ挨拶の為にとて、常の相伴衆をも椽頬に差置給へり。其中に宗檗といふ上方者にて、所領百貫文給はり、日来は相手を申す衣体あり、彼者其日書院にて相伴の筈なり。かかりけるに、兵部大輔能をし給ふ、幼ければ、政宗一入機嫌にて御坐す処に、宗檗酒気にも有けるやらん、又運の究めにても有やらん。いかにも浮気にかかり、ひたものほめて、歴々親類衆をも差越けれども、或は聞そらし、或は座興の様に取なし給ふと雖、猶も浮気にかかって、泣かせられぬは悪きなど、余所のみる目も憚からず、二三度申しける程に、毛色替り傍なる刀を取なをし、鞘がらみに宗檗が首べを打給へば、一二寸程打さけ顔に血の引きかかりければ、何れも座敷を引立ければ、政宗も御坐す座敷を立て、鍍の間へ入り給ひ、中島監物・佐々若狭両使を以て、成実所へ「作事彼是造作の上、いかなる腹立ありと雖ども、ケ様有るべき子細なし、況や宗檗事常々予が相手なれば、不便も加ふ事人々存知の処なり、去程に、今日も陰々ならば、其方所と云、又取立の首尾旁と云袷云恰、いかで堪忍なくては候べき、惣じて下としては其ときを見合せ、上たる者は折柄の浮押なくては、是又旁若無人とも云つべしや、能思案を以て見給ひ、あの白洲に居る見物の数千人、其中に諸国の者ども、二人三人宛居ざることはよもあらじ、其方所なれども、身上乍中納言迄経上り、行儀正うなきことは、第一禁中をも恐れず、人の嘲りをも憚らず、爰を以て礼儀をなすは、他国の者の口を恥ての義なり、尓るに、右の者我国々へ帰り、一年奥州仙台に有しとき、政宗を伊達安房と云親類の許へ振舞、能迄有しに、行儀正敷みへけれども、傍らに年頃の能相伴坊主の居けるが、我儘に云度ことを云せ、一円下拝なり、人は只聞及びけるとみたるとは、各別なりと云はれては、古よりの心掛水の泡とも消なん、只今の腹立是を以てのことなり。尓ると雖、其方立除ず半なるに、相互ひの年頃といひ、亭主へ申し分べき其為に、本坐を引込かくのごとし」との給ふ。是を承り感涙を催し、「有り難く仰せども哉、折節其坐に有合品々どもを見まいらせ、御立腹こと御十分なれ、尓るに、ケ様の仰せは痛入たる」由申ければ、重て亦「其方へ無心のこと、かあらばこそ悪しかるべき子細なし、亭主も心ほどけて見物あれ、能始めよ」と宣ひ、気色残るところ無く、夜に入て立給ふ。されば、爰に不審第一の事には、其日の暮より政宗何とやしたるらん、只火事到来せん心絶えずなり。亭主の者どもは、日頃の辛労に草臥ぬらん、其身ども懇に火の用心申付よと宣ひ、中島監物・奥山大学・佐々若狭、小姓頭に到迄、緊く詮議、其に又鍍間の爐中をば立給ふとき、付置ける者どもに自身宣ひけるとかや。尓る処に、上台所と中台所の間へ、濡縁の下の芥どもへ、煙草の火こそ落ちたるらん。両台所へ自然に焼入、其夜の寅の刻に屋敷一宇炎上す。尓るに、未だ焼かずうち佐々若狭を使に給はり、「笑止なれども損亡は計らざる時節なれば必心にかけまじく」と宣ひ、火事一日相過、書院の差図を自身に宣ひ、注文を差副焼訪ひに賜はり、此上不足のことをば、若狭よくよく承り申付よと宣ひける。扨ケ様なる心底を、書現すときは面影忘れると雖も筆も留り候はず。惣じて有程のことに心を砕き給ひしが、世界へ生をなす習ひとて終り給ひ、影もなきことは余所の見る目は兎も角も、家来の者は上下万民嫌ひなく、今も哀を催し悲んでも余あり。尓して後宗檗其場は逃れけれども、衣体の者に疵を付、二度召使給ふこと如何とや思われけん、二三日相過親子ともに死罪に及び候事。

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