二世の供申出事附逝去

同(寛永十三年五月)二十二日に、二世の供と申す者ども何れも書付を差上ければ、披見有て顔に押当、「扨惜者ども哉。ヶ程の者を此世の事に役立てなば、一方の堅めにもなどかならでは候べき、或若年或盛んなる者どもなれば、命栄忠宗役にも立なん、如何にもして助け給へ」と宣へば、内藤外記・柳生但馬守へ頼み給ひ、其上大炊頭・讃岐守少々殿中より御内意の様にて、色々止め給ふといへども、一旦の存入争で二度翻しもうすべきと、申し切てぞ極りける。去程に政宗苦しげなる有様、中々申すに絶たり。爾りと雖も、病中の始終、難義なると宣ひたること一度もなし。同二十三日には、程有間敷とや思はれけん。「万づ道具彼是掃除以下、入らぬ物をば火中せよ」と宣ふ。其側に中と云て年倍なる女、奥方の家老にて日来は母儀之ごとく、馳走在す役女房、右の様体見奉り、「何とやらん、申兼たる御事なれども、人は只高きも賤きも、御病気なればさぞや御用の多かるらん、今日は御機嫌よげにみへ給へば、第一御祈祷の為にも仰せられたき事、御坐さば如何有らん」と、涙を押へて申しければ、「奇特にも申たる者かな、汝もよく承れ、一昨日将軍公成らせたまひ、風慮の外なる御暇乞、何ごとか残所有べきに夫に亦三十に余る家督の忠宗を持乍ら、此世に思置こと更になし、何ごとも只忠宗次第也。自然に云置こと有といふとも、古風成義を申置いらぬことなり。女乍らも汝に聞かしむことには、存生の中召仕たる女どもをば、暇を取せ親類の許へ届て、其内行末なき者には、命継の扶持をも取せ迷わぬようにといひ置たり、爾りと雖も、我消果たる其跡は忠宗任せなり。縦ば父子の間といへども心別なる者なれば、父何ごとを云置ても、或其ときに隨ひ、或浮世の移り代りに仍て、相違の事は幾多多か有習なり、されども忠宗はよも迷はせ間敷に、我死して後も心安かれ」と宣へば、其側近き女房ども、声々に歎き悲み、目もあてられず。同二十三日夜「明なばすきと平癒候はん、明日よりは何れも苦労止むべし、今夜計は神妙にせよ」とて寝給へども、時々目を覚し「常の百夜より、一夜を永く覚へたり、夜は何どきぞ」と尋ね給ふ、「早明方なり」と申す。「起せ」と宣ひ、十余間の所へ出、心地よげに小便をし給ひ、夫より帰り、差給へる刀を側なる者に預け、床の上へ直り給ふと逝去し給ふ。寛永十三年丙子五月二十四日寅の刻なり。此とき酒井讃岐守(忠勝)上使にて、「忠宗歎き上に於いても御同意なり、殊に相国秀忠の御命日、其程尚も感じ思し召さるる旨、扨死骸をば在城仙台へ」との上意にて、二十四日の戌の刻に、死骸江戸を出給ふ。諸道具以下供の者ども、所仕置に至る迄万繁昌の如くして下向在す。同二十五日の未の刻に、土井大炊頭(利勝)・酒井讃岐守(忠勝)上使にせしめ「政宗跡目忠宗へ御相違なきこと、並びに今日より上屋敷へ移るべきこと」此二ヶ条の上意に付て、御諚に任せ、即ち其日に移し給ふ。爾るに、二世迄の供の者供、死骸に付道中の口号に、

  那須野原にて 茂庭采女(兼綱)
身を露に那須野の原の草枕夢も結ばぬ夏の夜の月
白川にて 同
白川の旅も今又限りにて関の戸差も明て松川
同 青木忠五郎(友重)
終に行浮世の中の旅道留るものかは白川の関
同 加藤十三郎(安次)
白川の旅も限りと成ぬれば関の戸指も明て社ゆけ
安積山にて 茂庭采女(兼綱)
面影も今日限りぞと陸奥の安積の沼の浪を泪に
同 簡野正左衛門(菅野勝左衞門重成)
今日計り安積の山を陸奧の憂影うつる山の井の水
国見峠にて 佐藤内膳(吉信)
国見ぞと聞ば心も儘ならず情もあらじ明日の別れは
南次郎吉(政吉)
朽んとは兼て思ひし若草の此末しれる人はあらじな

右何れも道中供にて、同六月朔日の未の刻に、仙台牌所禅宗関山派覚範寺へ直に入り奉り、侍・歩行に至る迄、上下万民現世の供迚は是限なりと歎く。扨今着給ふと申す程に、寺より二三町出向、四月在城を立、未だ両月をも過させ給はで、浅間敷身と替り、思の外なる寺への出御は何ごとぞ、と乗物へ抱付、道中の供の者と両方押合、一度に咄と泣叫声天地に響、中々言語に絶したり。死骸寺へ入給ひ、三日目に、中納言出立の皮緖の太刀を帯られ参らせ、鎧大小をば側に差置、夜更人静りて後、跡の四月弁当場にて望給ふ恋路の山に納。奏宗は関山派(覚範寺)清岳和尚、諷経は陶首座、初首座、欲首座は維那の役なり。惣じて政宗は、満海と云へる湯殿聖人の再生にて御坐す由。不審第一のことには、政宗の母儀有夜、以の外おびへ給ひ寝をぞみをし給ふ、夫の輝宗是を奇となして、漸本気と成給ふ、其ときいかなる子細ぞと尋ね給へば、我口より梵天の腹中へ入といふ夢をみて驚き、其後は、兎角を弁へずと宣ふ、其月より妊り頓誕生し給ふ。其謂に依て政宗をば小名を梵天丸と申し侍る。聖の再誕誠なる哉。彼山(経ヶ峰)を引平げ、一丈余尺に穴を掘、大石ともを摺合せ四方一間半にして、其中へ納め同石を蓋にして、四尺余りに畳上、其上へ霊屋を建給ふ。去ば納める穴を掘に、厚さ一尺に少し過、広さ一間半に余り、物の蓋の様なる石を穴の場より掘出す。是はいかさまに不審なりと申ければ、有老人の語りけるは、「其こそ古の幡海(万海)聖人の死骸を其場へ弘き石を蓋にして納めたりと伝え聞、其石ならん」と申す。扨其序に語て曰「幡海上人は右の眼瞽で片目なり、爾に政宗も右の眼瞽い給ふに、近頃又彼山を二世の御坐し処と望み給ひ、況や右の石今度の蓋と成りて納め参らせければ、扨社聖の再誕疑いなし」とぞ人申しける。爾るに覚範寺にて三十余日の内陰。其内高野山方々際限なく出家衆諷経を勤められけり。去程に追腹の者どもは、葬礼の三四日前より、寺へ出て切もあり、宿にて切腹するもあり。思々の有様、扨面々の法名。付けたり辞世の事。

  信沢道忠禅定門 石田将監(与純)
曇りなき月の跡間山端の道も涼き松風の音
善波昌因禅定門 茂庭采女(兼綱)
終に行旅の道立武士の輝さてもあれ弥陀の来迎
法得紹燈禅定門 佐藤内膳(吉信)
地水火風己々に返しつつ有無の中道ひよつと抜たり
円岫了規禅定門 青木忠五郎(友重)
よしさらば曇らば曇れ曇るとも心の月の道をしるべに
清隠浄光禅定門 南次郎吉(政吉)
遅くとも心の早きのりの駒武士の剣は弥陀の来迎
説庭良宣禅定門 加藤十三郎(安次)
くもりなき月の入りさをしたひつつ影もろともに西へこそゆけ
芳叔久酔禅定門 簡野正左衛門(菅野勝左衛門重成)
でるより行衛も知ぬ旅の道照したまへや弥陀の来迎
破堅道固禅定門 矢野目伊兵衛(常重)
晴て行月影したふ道なれば迷わぬ末ぞ思ひ知らるる
切翁知金禅定門  入生田三右衛門(元康)
古郷へ帰るとみれば露はれて君諸共に行本の道
竹友崇賢禅定門 桑折備後(綱長)
くもりなき月のひかりともろともに道引きたまへみだの浄土へ
悦嶂道歓禅定門 喜斎
情には命計りは惜からん君諸共に雲の上まで
涼窓受蔭禅定門 小野仁左衞門(時村)
影高き松に嵐の吹荒て散添露は小野の下草
怡心道悦禅定門 小平修理(太郎左衞門元成)
かそふれば六十余の夢覚て君諸共に行本のみち
天岑因徳禅定門 大槻喜右衛門(定安)
只たのめあかりをさそふ友なればいかがまよはぬ六道の辻
石雲真鉄禅定門 渡辺権之丞(重孝)
皆人は暮る月日と思ふかよまた立帰る明る日のをみよ
卯辰迄露は草葉に栄つつ巳となるときは本の姿に

亦追腹
祥岳俊瑞禅定門 石田将監下 青柳伝左衛門
梁岫元棟禅定門 石田将監下 加藤三右衛門
松嶺自長禅定門 茂庭采女下 庄子茂兵衛(東海林茂伝次)
円看好清禅定門 茂庭采女下 横山角兵衛
晴峯浄景禅定門 内藤下 杉山利兵衛

右以上十五人、亦腹ともに二十人也。上下最後の覚悟比類無きこと記すに及ばず。末代は知らず、前代にも希なるべしと其砌他国にても隠なく其風聞に候事。

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