葬礼場は、八幡宮の後北山の下、覚範寺よりも七・八町西にて、今度葬礼の道に横の広さ十二間、四寸角を赤くして両方へ柵を振、其中へ薦を敷、其上に木綿、扨四門の内より木綿の上に白練敷り。柵の外は広さ二間余りに竹虎落にて、柵の内に辻番、十間に物頭一人・棒持十人宛、両方向合て物頭ともに二十二人宛、八町の間なり。柵ともがりとの間には、十間に物頭一人・鉄砲十挺・鎗十挺づつ、是は一方に計り八町の間なり。龕前堂四間四面、高さ一丈九尺、苔ら葺・箔棟・金紋赤地の■子にて柱を巻き、葬礼城は二町四方、四門の外幕白練・内幕綸子、四門西方の脇一所に鉄砲五十挺・鎗五十挺・棒持二十人・物頭二人宛。
一、龕は八方錦にて張る。八本柱をば蜀紅の錦を以て巻、迹先をば飾屋金物にて、重縁ともに包む。瓔珞・華鬘に至る迄七こ九星と竹に雀の紋、扨八方へ紅の上巻あり。
一、供龕、六方金襴にて張り、金物紋所右に同じ。
一、亦供龕、四方黄■子にて張。
七仏事
(略)
此の如く終了後、死骸納め処へ廟所拝殿、両向番所、扨茶湯膳所に至る迄残すところ無く、忠宗建立し給ひ、在領中は毎月命日に参り給へり、去程に、導師清岳和尚若林の保春院を金蔵主へ相渡し、廟所の中檀に忠宗より新寺を取立、和尚を移し、今正宗山瑞鳳殿と号す。
寛永十九年壬午六月 伊達安房成実之を記す
※■は示偏に純の右
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