本宮戦附人取橋合戦

 去程に佐竹・岩城・会津・仙道の大将衆、日来大内に引合、伊達へ楯を突せ給ふといへども、政宗の鋒には相叶はず、大内も会津へ引退けれは、政宗小浜城へ移し給へば各無念を起し、輝宗死去の折を見合せ、伊達を掠めとらんとて、同十三年霜月十日に佐竹義重子息の義宣、次男会津の義広、岩城常隆・石川大和守昭光・白川義近、六大将一和して仙道の須賀川へ打出、安積表の伊達へ一味の城々共へ働き給ひ、あまつさへ中村といふ処落城したりと注進たり。是に依て政宗岩角まで馬を出され、高倉への警固に富沢近江・桑折摂津守・伊東肥前に、旗本鉄炮三百挺差添へ遣はし給ふ。本宮へは瀬上中務・中島伊勢・浜田伊豆・桜田右兵衛、玉の井へは白石若狭を遣はし給ふ。成実をば右にも申す二本松籠城に付、八丁の目用心のため未だ渋川に差置給ふ。かゝりけるに、小浜の在陣衆何も無勢なれば、成実には急ぎ参れと宣ふ程に、手勢をば渋川に過半残して、四本松へ廻り小浜へ参りければ、政宗とくに馬を出され、成実処へ宣られけるは、
「無勢故に小浜の留守にも人数を差置給はず、去程に小浜にも成実手勢を残し置急ぎ参れ」
との給ふ故に、成実郎等青木備前・内馬場日向を始め三十余騎残し置、跡より参り岩角にて追着奉れば、政宗宣ひけるは、
「前田沢兵部も今は早身を持替、佐竹・会津へ一味となる、敵定めて明日は高倉か、偖は本宮へ働くならん、成実には先へ通れ」
と宣ふ。畏て成実其夜の陣場は糠沢といふ処なり。されば前田沢兵部変化の者にて、本は二本松一味なれども、義継生害の后は政宗へ申寄り忠節なりしが、今又義重方へ一和したまひ、多勢を以て出陣なれば、伊達を背て佐竹・会津へ身を持替、政宗へは敵をなすなり。同十六日には、敵陣前田沢の南の原に野陣をかまへ、明る十七日には高倉へ働くべしと、御方の各つもりを以て、政宗も岩角より本宮へ馬を移され、高倉への働きならば、本宮の勢をは同所観音堂へ出向ひ、見合次第に高倉へ助させべきとて、本宮の西大田原に陣を備ふ。本宮は其頃今の南の町境は畑なりしが、小川流れける処外やらひにて内町迄なり、亦観音堂人取橋も、其ときの海道は今の場より八九丁程西にて、本宮より会津海道の南にあたり、木立のありける処にて、其ときの軍場も今の海道には非ず。されば成実も二ケ所に人数を残しおき、漸く七八十騎の体なれども、高倉へ助け入るべきため、海道の山の下に陣を備へ、かゝりけるに、敵軍七八十騎を三手に分、三筋に押て通りけるに、高倉に籠りける御方の勢ども、本宮は無勢なれば、是より人数を出し食留めて見度と申す、いやいや大軍なりと云ける者も多かりけれども、富塚近江・伊東肥前たとひ押込れけるども、本宮へ通りける軍兵ども、留るべくは出して見度と申す、御方心得たりとて出でければ、実の如く敵退口なりしを、敵亦岩城の荒手を入替、せり合御方の軍兵両小口ヘ押込れ二三十人討れけり、敵大軍なれば前田沢より押ける人数は、観音堂備へたる味方の陣と取組、偖荒井より押ける勢は成実と戦ふ。両口での合戦なり。尓るに成実と合戦未だ不始前に、下郡山内記といふ者成実向の高き処へ乗上軍配を見れば、高倉より白石若狭・浜田伊豆・高野壱岐彼三人の差物みへて、それへ鎧武者六七騎足軽百余にて本宮の方へ来たる。其跡を見れば多勢引続きけるを、内記も、敵とは思はず何れの勢ぞと疑ひけるが、敵御方の境のやふにて一町余り隔ちけるを不審に思へば、案の如く其間にて鉄炮を一っ打、其とき内記も偖ては敵味方の境と見届け、山の上より「敵是迄で来たりたるぞ、小旗をさせ」と呼ぶを聞て、何れも差てぞ持掛ける。若狭・伊豆・壱岐三人は、成実備を通り直に旗元へ参る。去程に味方観音堂を出て、太田の原へ備といへども、大勢にて押掛られ已に芝居を踏へ兼、観音堂を押下られ、茂庭左月を始め有余人討取れけり。尓りと雖も左月しるしはとられずして、味方の陣へ引取けれども、旗本近所迄迯かかり負色にみへける処を、伊達元安斎元宗其の子美濃守重宗、同名上野守政景、従弟の彦九郎盛重、此かたがた政宗親類、偖其外原田左馬介宗長・片倉小十郎景綱を始め、場数を引たる歴々者ども、旗本と共に日来の如く芝居を踏しっめける程に、大敗軍はなかりけり。尓る処に成実備へ御方は一人も続かず、左は阿武隈川の大河にて、前田沢より観音堂へ向ひ、太田の原にて合戦の敵を、七町あまり後になして、荒井より又観音堂へ心差、助け来りける敵と成実取組けれども、其年十八歳なれば、何の見当もなき処、下郡山内記乗掛馬の上より、成実小旗を抜き、「観音堂の味方崩れかかって押切けるなり、急ぎ引退き侯らへ」とて、抜きたる小旗を小人にしほれとて渡す。敵大勢なる故、大事の軍と味方の者ども見届けれども、流石に爰を引退なば末代迄での瑕瑾ならん、詮ずる所は是にて遂防戦、討死せんと持掛ければ、若狭・伊豆・壱岐三人を追立、山の下まで来りたる敵へ、成実手勢を放しかけければ、敵退口なりしを、成実郎等伊場遠江、其年七十三になりけるが、大剛の者にて真先かけて乗入れ、敵二人に物付して郎等に首取せ、山の南の下より四五町程、人取橋の橋詰迄追付ければ、橋にて返し合せ、亦味方山へ追ひ上られけるを、同内羽田右馬介敵味方の境を乗分、崩れざる様にと乗廻しけるを、槍持一人進出、乗りたりける馬を突んとせし処を、取て返され突はづし前へ走りけるを、一太刀に切倒し、郎等に首取せ其身の郎等も一人討て取れ、合戦始りたる本の処へ追付られ、それより亦返し合けるに、同傍輩鉄炮大将萱場源兵衛・牛坂左近両人ともに敵中へ乗入武者二騎づつ、四騎物付して、其より亦返し本の橋迄追下しけるに、同内北下野真先かけて追掛ければ、歩者走出乗たりける馬を突れ、下野歩立となり引退ければ、味方又除口なるを、伊場遠江崩れざる様にと人数を打廻し、殿をして味方に余りはなれ過ぎ、況や武者なれば冑を着ては、自由も成らずとて著ざる処を、敵乗かけ首を二太刀切られ、引除けれども、味方軍兵遠江痛手なりと見合せ、それより尚も競喚き叫んでかかり、或は追つ追れつ或は取つ取られつ散々に戦ひければ、敵悉く敗北して本の橋場へ追付、敵二百五十余人が首を取り、御方も雑兵ともに三十九人の討死なり。尓して後跡の観音堂も物別なれば、成実も人数を打纏ひ、物別れして勝鬨を取行ふ事。不思議の天道にて一芝も取ず、却て勝利を得観音堂同前に引取けるは、実に神意にも叶ひ有難く覚えたり。遠江其場は引退き相果けるなり。去ば右にも申す、下郡山内記、輝宗へ身そば近き奉公にて、其昔相馬陣の折柄も鉄炮を預け給ひ度々の誉ある者なり。尓るに其頃政宗より勘気を蒙り、成実備に居たりけるが、其日も味方後れしときは、馬を立合又守返しけるには、真先蒐て乗込両度物付して、郎等に敵二人首取せ比類なきかせぎともなり。其後観音堂の敵引上、高倉海道川切に備を直しける程に、偖ては又一戦あるべきかと心得ければ、政宗備五六丁程隔けるが、其故やらに敵も引上何事なし、御方も無勢なれば襲はずして引上給へり。此合戦天正十三年乙酉十一月十七日、政宗十九歳の年なり。去程に政宗も阿武隈川の向、本の岩角へ引上給ひ。同十七日の夜に入、山路淡路を使者にて、自筆の御下文されけるを頂戴しけり。
「抑今日観音堂に於て戦ひ、敵を後になし荒井より又観音堂へ助来りける大勢と、貴殿小勢を以て合戦に及び、比類なき処却て大利を得名誉の働き、又有間敷と耳目を驚す、御辺一身の扱に依て、諸軍助り喜ぶこと斜ならず、尓と雖も家中に手負死人数多あるべきこと笑止の至りなり、明日は敵軍本宮へ近陣なすべき由其聞あり、迚も彼地へ出られなば本望たるべし、伊達上野政景へも、其旨同意に申付候、十一月十七日亥の刻、成実参る政宗」、
とぞ書れける。去程に淡路語りけるは、本宮近陣と聞へけること叶はずして、敵地へ紛れ参りければ、明日は本宮へ近陣有て、二本松の籠城を引とらんと、敵陣にての評定、彼二人承及夜に入此方へ迯帰り、其旨申上ければ其を聞玉ひての事なり。明日より本宮は籠城にも侯べき、其心得肝要なりと申けれども、軍にはし疲れぬ、俄の支度も叶はずして、明る十八日の寅の刻より本宮へ打出けれども、敵の働きをそきに依て物見は付たるかと尋ければ、夜の内より付置たりと申す、然は敵陣にて火の手を上たり、是は陣触ならんと申しければ、付たる物見走帰りて、佐竹・会津・岩城の野陣退散なりと申す、偖てはとて前田沢をもみせければ、一人も残らず前田沢迄引退けり、是に付て政宗又本宮へ馬を移され、よろづ仕置共をし給ふ。爰に旗元の中村八郎右衛門といひけん者、観音堂の合戦に敵中へ乗込、鎧武者二十騎計り斬て落しける故に、御方の者ども五十も百も助けるとて、中村が太刀以の外損したるを、浜田伊豆持て出れば、政宗見たまひ名誉仕たるものかなとて、四本の松にて加増を賜はる。手柄なりし拝領なり。然して後政宗本宮より岩角迄引込たまふが、敵手立をなして亦も働き有んと、岩角に両日逗留し給へども、敵面々我在城へ引込たりしかば、政宗も其年は小浜へ帰り、越年し給ひ候事。
寛永十三年丙子六月吉日                伊達安房成実

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