天正13年11月17日 伊達政宗書状

さて今日、観音堂においての戦、敵を後ろになし、また荒井より助け来り候大軍と、貴殿小勢を以って合戦に及び、比類無き所に、却って大利を得られ、又もあるまじきと、耳目を驚かせ候。御辺一身の依り扱いに、諸軍を助け、悦ぶこと斜めならず候。然りといえども、家中に死人手負い数多有るべきこと、笑止の至り也。明日は、敵陣本宮へ、近陣為すべしの由、其聞こえ候。とてもかの地へ出でられなば、本望なるべし。伊達上野守政景へも、其の旨同意に申し付け候。恐々謹言。

(天正13年)11月17日亥の刻    政宗
御使者山路淡路殿

※「亘理伊達家史料」では、書止文言は「恐惶謹言」と読んでいる。

参照

政宗記「本宮戦附人取橋合戦」
「抑今日観音堂に於て戦ひ、敵を後になし荒井より又観音堂へ助来りける大勢と、貴殿小勢を以て合戦に及び、比類なき処却て大利を得名誉の働き、又有間敷と耳目を驚す、御辺一身の扱に依て、諸軍助り喜ぶこと斜ならず、尓と雖も家中に手負死人数多あるべきこと笑止の至りなり、明日は敵軍本宮へ近陣なすべき由其聞あり、迚も彼地へ出られなば本望たるべし、伊達上野政景へも、其旨同意に申付候、十一月十七日亥の刻、成実参る政宗」
成実記「一 17日の晩は、政宗公……」
御口上にも
「今日の扱い比類なく候。敵の後ろにて合戦いたし、敗軍つかまつらぬこと、前代未聞のことに候。ひっきょうその方ゆえに大勢の者ども、あい助かり候。定めて手負い・死人、数多これあるべく候。ことに明日、敵の方より本宮近陣のよし、聞きなされ候。誰そ遣わされたく思し召され候えども、誰も余にこれなく候間、大義ながら本宮へ入り申すべく候。伊達上野遣わされ候」
よし仰せ下され候。

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