黒川月舟晴氏逆心附弾正気遣

 

されば伊達へ晴氏逆心の子細をいかにと申すに、其昔月舟伯父に黒川式部と云けん者を輝宗代々月舟方より奉公に差上けり。尓るを信夫郡飯坂城主右近、右の式部を聟にして名代を譲らんと云契約也。尓りと雛ども娘漸十歳計りなるに、式部は其年三十に及ければ、約束迄にて未だ祝言もなし。其内右近思ひけるは、式部は娘に年も似合ず、又我身の隠居も程あるまじきに、彼娘を政宗へ差上、若も此の腹に御子出なば申し請、名代になす程ならば、家中の為にもよかるべきと思ひ、右の契約違変なり。故に式部面目を失ひ、月舟方へも行ずして、直に越後へ引切けり。此恨亦月舟は義隆へ継父なりしが、義隆弟の義康を名代に定め、伊達元安息女を彼義康へ取合、月舟手前に置ける故、義隆滅亡ならば末の身の上大事に思ひ、今度の逆心理りなり。角て弾正気遣けるは、伊達勢を給はらんと御約束にはありけれども、未だ其色もみへず、敵地中に塞りければ通路は叶はず、今や今やと待けれども、今年も暮て天正十五年正月末になりければ、明暮大崎を気遣ける処に、頃は二月二日の日、松山よりの伊達勢三本木の川を打渡し、先陣は師山を押通し、新沼にかゝりて、中新田への働きなり。されば下新田は義隆一味の処なれば、城主葛西監物、偖加勢の大将には、里見紀伊守・谷地森主膳・弟八木沢備前・黒沢治部・米泉権右衛門・宮崎民部・彼七人宗徒の者ども、葛西が城に楯籠り、
「伊達の軍兵中新田を押して通る程ならば、一人も通すまじ」
と広言なれども、流石多勢なれば口には似合ずして通しけり。師山の大将には、古川弾正・石川越前・葛西太郎右衛門・百々城主右京亮を始め、歴々宗徒の者ども龍りけり。偖川より南桑折の城へは、黒川月舟楯籠り、飯川の城主大隅と、両城の道を立挟みければ、伊達上野・浜田伊豆・館助三郎・宮内因幡を首め、三本木の川を渡て四百余騎轡を並、師山の南の畑に控たり。先陣は中新田近所に打出てければ、城内の南条下総と云し者町より四五丁出向ひけるを、先手の軍兵一戦を持掛、内へ押込付入にして、町構へより二三の曲輪まで烽火なせども、下総本城へ引入、城は堅固に相抱ひけり。御方の軍勢方々へ押寄押寄働きけるを、軍奉行の小山田筑前、跡を気遣ひ下知をなして、惣手を引上段々備へを取せて差置ければ、氏家弾正此の働きを俄かに聞に、伊達勢近所迄では思ひも寄ざる処に、中新田への働きなれば、弾正取るものも取合はず岩手山を打立、伊達の人数へ加はるべしと働き出れば、御方の軍兵方々を焼払ひ引上げれば、加はることも叶はずして、弾正空しく引取なり。伊達の人数も雪深く道一筋にて、漸く申の刻にも成ける程に、多勢と云ひ急ぎ引上、跡の御方へ加はらんと、師山へ取て返しければ、伊達上野・浜田伊豆、各疾に引上、其上多田川と云ふ流と三四間の用水堀と、両橋共に引れ引上げること叶はざるなり。故に先手の軍勢又新沼へ取て返し、下新田へ一戦を持掛取組けれども、切所の橋を二重引れ、味方の者ども是を心に掛け、後れけるを小山田筑前、名誉の者にて敵を守返し追散しければ、歩者一人脇へ横切けるを、物付せんとて追掛、十四五間乗余けるに、深田の上に雪降つもり、平地の如くにみへけるを、ふけとは知らずに乗込けるに、馬は倒に成て筑前打ぬかりければ、手綱を取て引上んとせし処を、敵取て返し筑前を討んとす、其とき手綱をはなし、抜きたる太刀にて戦ふと雖ども、敵は多勢後ろへ廻り片足切て落されぬ。尓りといへども太刀をば捨ずに戦ひけれども、軍は久し老武者なれば、打ける太刀もよはかりけるに、四竃が郎等走り寄首を雪んとかゝりけるを、持たる太刀を打捨彼郎等を掴寄、腰なる脇指を引抜、真たゞなかを突留にして、二人共同じ枕に伏けるを、敵来て首をとる。扨敵の人数は川の南に控けるが、此方の負色見合、川を越て下新田の衆へ加りければ、日も早山の端へかゝりけるに、軍奉行の筑前を始め、御方の者ども多勢討れて、剰へ切所の橋迄引れければ、除けること叶はずして、伊達の軍兵新沼思の外成籠城なり。されば小山田討死の朝、不思議なる奇瑞にや、宿より軍場へ十余間出けるに、乗たりける馬の太鼓は早遅し遅しと物を云、供の者ども是を間て興をさましけるとかや。筑前今日の軍には勝たるぞ、門出よしとて向けるとぞ。尓るに筑前討死の後敵の方へ分捕けるに、見知たる者有て
「此馬一年義隆祈祷のため野々嶽の観音へ神馬に引れける馬なり」
と云ふ。義隆も見知給ふとなり。何方を廻り筑前手へ渡て、彼馬に乗て討死なるは神力の威光あらたなり、と其ときの風聞なり。又筑前差物を最上義顕へ、義隆より遣し給へば、日来聞及たる名誉安からざるものなりとて、黒地に白馬櫛の小旗を、出羽の羽黒山へ納められけり。冥加に叶ひ、死して彼の高名是なりとて、時の人々感じけり。

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