去程に義隆へ刑部一党訴訟の旨を弾正聞て、
「安からざること也、返忠の徒党共逆意のときは、某一人思詰於名生籠城ならば、岩出山より取移し、滅亡の御供こそ思ひしに、今又我を退治とは移れば替る世の習ひ、か様のことを申すらん、さらば我も手を越て伊達へ申しより、命をまぬがれん」
とて、片倉河内・真山刑部といふ郎等二人を米沢差上、片倉景綱を以て、
「新田刑部を始め親類の者ども、一度義隆を背き伊達へ忠申すといふとも、思の外に義隆を刑部生捕、今は早其忠を致し違変して、已に某を滅亡させんといふ謀あり、仰ぎ願くば御助勢下されなば、大崎中をばたやすく治め差上奉らん、如何あらん」
と申す。政宗
「年来義隆への憤り、剰へ刑部一党忠の違変、彼是なれば、軍兵ども遣はし加勢をなさん」
と宣ふ故に、両使急ぎ帰りて仰せの旨を申し渡せば、弾正悦ぶこと斜めならず。されば義隆を新田へ生捕、其後名生はあき処なれども、義隆の北方と子息正三郎殿、御袋に東の方と両人をば弾正名生の城に人質に押へ置、其守りには弾正親参河と、伊場惣八郎を附置けり。角て弾正、正三郎殿を伊達へ差上べしとは思ひけれども、不慮なることにて譜代の主君を、背くだにあるに況や引連差上なば、天命をも背き仏神三宝にも放され奉るべきことを感じ申し、新田の城代南条下総所へ送りけり。二人の北の方は、義隆父子へも離れければ、二六時中の嘆き已に自害をと思はれけれども、流石に叶はざれば明暮涙のみにて候こと。かゝる処に、同十五年丁亥正月十六日に、大崎へ伊達勢を向給ふと雖ども、安積表を気遣ひ給ひ、信夫より南の侍大将をば、遣はし給はで、中奥の人数ばかりを指向給ふ。是に付て政宗伯父に伊達上野守政景、一家の泉田安芸重光、両大将にて、其外粟野助太郎・永井月鑑・高城周防・大松沢左衛門・宮内因幡・館助三郎、家老浜田伊豆、軍奉行は小山田筑前、横目には小成田惣右衛門、山岸修理にて、惣軍を相具し、松山の遠藤出羽処へ遣はし玉ふ。去程に大崎より伊達へ忠を入ける面々、氏家弾正・一栗兵部・湯山修理・一の迫伊豆・宮野豊後、三の迫の富沢日向何れも岩出山近所と云幸ひなれども、月舟伊達へ逆心なれば、四竃と松山の問は月舟居城の黒川にて、尾張何と存ずるとも是も叶はず、さては何方より働き、偖如何せんといふ、各申ければ、桑折・師山ニケ城に籠りたりける敵軍、伊達の軍兵押て通る程ならば、敵ニケ城より取出合戦も取組ども、三本木の川後口に当て、中々働き難しと申す。其にて遠藤出羽
「新沼の城主甲斐は、某妹聟にて代々伊達へ忠の者なり、さらば師山には押へを指置、中新田へ押て通り玉ふとも、別義有まじき」
と申す。上野、
「左は候へ共、中新田へは二十里余り、況や敵の城を後に当て、両地へ道を付置けるに、彼地を押て通ること気遣なり」
と云ふ、其にて重光思ひけるは、今度の軍は其発起なれば、上野殿日来は我等に不和と云ひ、其に又月舟は御身の舅にて、彼是此軍は情に入まじきと疑心をなして、
「安芸・出羽申処理也、伊達の勢を氏家不見掛時は、頼みを失ひ、義隆へ返忠危きことなり、師山には押へ差置通り給はゞ好るべし」
と申す。故に是非なく中新田への働に相済ける事。
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