帰りなん  

 糟谷はちょうど相模の国の中央にある。
その糟谷の小さな禅寺には似合わぬ活気のある門前に、牢人とおぼしき武士の姿が目立つ。この1年ほどでとみに増えたという。
案内されたのは、庫裏のうちの客間だった。小姓が、主は只今留守だが、おっつけ戻られます、という。
円座に腰を下ろした片倉景綱の前の障子は開け放たれ、梅雨の晴れ間の頼りなげな陽射しが照っている。
こちらへ向かう足音を聞き、頭を下げて迎えようとすると、ふすまの陰から快活な声が降ってきた。
「直江どの、またござったか」
――直江?、と聞きとがめて顔を上げると、かの人と目があった。
ちょうど部屋へ足を踏み入れたかれは、少し罰が悪そうに
「片倉か――」
と小さく笑って上座へ座った。
「五郎さまにもお変わりなくご健勝で――」
「久方ぶりだ。ここへは初めてだったな」
成実のそう言う浅黒く日に焼けた顔も、快活な声音も過ぎた日のそのままで、こうして向かいあっていると仙道で戦に明け暮れていた頃を思い出す。
伊達成実が政宗の元を去ってから、5年が経つ。
度重なる説得にも翻意せず、行方知れずになった成実だが、先年徳川家康が召抱えた、と聞いて政宗が異議を唱えていた。
それで家康への被官は無いものとなったが、未だ成実は徳川領――大久保忠憐の所領である、ここ相州糟谷に暮らしていた。
「ずいぶんとにぎやかなところでございますね」
「門前の連中か? 奉公したいとうるさいんだ。おれは牢人だから召抱えられぬ、と言うのだが」
「五郎さまのご人徳でございましょう」
「徳は知らんが金がなくてはな。居候の身では肩身が狭い」
成実は今、大久保忠憐の世話でこの寺に厄介になっているのだという。つれづれの話のうちに、直江兼続の話になった。
「直江山城守、か。あれは気持ちの良い男だな。――おぬしと少し似ている」
雰囲気がよく似ているのだな。だから間違えたのだ、と成実は笑う。
「して、その直江どのは何しにござりましたので」
「知れたことだ。おれは牢人だぞ。仕官先を探すのは当然だろう。だがさすがにすぐに返答できずにおったら、5万石、とぬかしおった」
一瞬景綱は息をのんだ。
「ゆくゆくは米沢で30万石だそうだ。どうだ、いい話だろうが」
米沢、と景綱は言葉を咀嚼した。八代宗遠以来の伊達家の故地。今はその直江兼続の領になっている。それを相続させると直江は言った。
「どうした、片倉。浮かぬ顔だ」
誰の所為だ、と思いながら、唇をなめて不本意ながら祝辞を述べようとして気づいた。成実は可笑しそうに笑みを浮かべているが、どこかしら悲哀の色がにじんでいる。
「やっと気づいたか。この話は成らぬのだ」
上杉家と成実には因縁がある。成実の父・実元が越後上杉家へ入嗣したからだ。内乱のため入国できずにいるうち、守護代長尾家が主権を握り、やがて関東管領上杉家の名跡を得て今に至る。
成実は返事を保留したまま、会津へ向かおうとした。上杉家がどう治めているかをこの目で見たかった。
ところが、常陸まで出たところでとめられた。会津へゆくことはならぬ、と。徳川領より出てはならぬ。
成実とて、徳川の臣ではないので、命令を聞く義務はない。が、兵に取り囲まれては強引に出国することもできぬ。鬱屈とした気分で糟谷に戻った。
ふん、と成実は眉を寄せて気を吐いた。
「一瞬とはいえ、長尾づれを頼もうと思うたが誤りよ」
しかしその表情はすぐに消えて、また快活な笑みが戻る。
「ま、そのようなわけで未だ牢人ものの居候だ。安心したか?」
……常の成実には似合わぬ饒舌である。
嗚呼、と景綱は悲しい気分になった。この人は虚勢をはっているのだ。思うとおりにならぬ身の上を、必死にたてようとしている。
長尾づれ、と成実は言ったが、それは複雑な気持ちの現れであろう。成らぬ話、と言いながら先に直江の名が出たのも、一分の期待があればこそ。
成実は人一倍、矜持の高い男である。仕えたい、と成実に思わせる主は天下にいかほどもあるまい。その矜持が成実の成実たるところでもあり、成実の身の立て方を困難にしている。
「奥羽に今一方、ぜひとも五郎さまを、と欲しておられる方がおられます」
「もってまわった言い方をするな。どうせお主のことだ。大崎少将どのだろう」
「――ご慧眼」
「少将どのは洛陽ばかり大事にされ、国を顧みられぬ」
「さようなことは」
「移封以来、岩出山に、いや奥羽にいかほど居られたか?」
家中一同故地を追われたは、いたしかたない。しかし抜いた草を投げるがごとく捨て置いて、実りだけはとってゆく。京での外交に必要だという。
「決してそれはお屋形さまの御意ではござらぬ。言われることはいちいちもっともなれど、その非は我等年寄・奉行の不明でござる」
「少将どのはかつて、朝に仕えるのであって、関白に仕えるのではないと言われた」
「確かに」
「我らとて同じこと。総領と思えばこそたて、探題家と思えばこそ敬った。だが、家人同様に扱われ、その上、本貫をおろそかにされては、もはや頼まれぬ」
この点、政宗と成実の、いや重臣たちの利害は対立している。重臣といっても、亘理、留守、石川、国分等の諸氏はもともと伊達氏は同盟関係にある大名である。伊達氏の持つ力ゆえに従属的関係にはあるが、決して家臣ではない、という誇りをもっている。
成実の家にしたとてそれは同様。実元が上杉家に入嗣した以上、たとえ奥羽にあっても越後守護を主張する権利は保持していた。相馬との紛争がなければ、それを大義名分に伊達氏は越後へ侵攻していっただろう。
奥州守護・探題職の伊達本家と越後守護職では同格である。いや、伊達氏の方が新興なぶん、室町的秩序の上では越後守護上杉家の方が格上。で、あるから「竹雀」の紋を用いるようになった際、遠慮して雀の色を変えたのは実元ではなく、本家の晴宗の方であった。
このようなことを言いたてたとて、それが過ぎし時代のものであることは成実もよくわかっている。当の実元でさえ「信夫の屋形さま」と尊称されるたびに苦笑いを浮かべていた。だが頭ごなしに家人扱いされてはやはり成実の一分が立たないのだ。
政宗もその点よく心得ていて、これらの重臣たちを丁寧に扱っていた。ところが、伏見に出仕するようになって以来、変わった。筆まめであった政宗だが、めっきりと手紙を書くことが減り、態度も高圧的になった。
政宗自身は豊臣体制に組み込まれたために経験し、学んだことをそのまま家中に行い、自家薬籠中のものにしようとしたに過ぎない。またそれが時代の流れでもあったが、あまりにもそれは急速に過ぎた。
武士たちを土地からできうる限り切り離し、城下に集住させる。今まで領地を支配していた重臣たちを別の地へ移し、土地との繋がりを断つ。その過程で次第に、領地に対する支配権を削減し大名に委譲させる。
これは当然に大きな反発を家中に呼び起こした。また、豊家に対するお手伝いや唐入りの戦費負担に対する不満も大きい。これらの旗頭になったのが、親類衆の中でも別格であった成実である。成実自身もこのような方針には不満を持っていたから、政宗に苦言を呈した。数度に及んだとき、政宗が成実を睨みつけて言った。
「ならば、どうせよと云う」
成実は答えられなかった。成実とて朝鮮を、伏見を西国をこの目で見ている。悔しいことに上方流のこのやり方が、領主の支配権を強化し、かつ富の循環にも優れていることは明らかだった。ただただ問題は、家中がこの急な構造変換に耐えうるか、ということなのである
「なにとぞ、国にもご配慮を」
と、やっと成実は言った。
政宗はますます不機嫌になり、成実を下がらせた。
中央集権志向に反発する国人衆という構図は今に始まったことではない。
かつての天文の大乱も稙宗の強権が招いた伊達家中の内部分裂が一因であった。爾来、伊達氏は振幅を繰り返しながら今に至るが、政宗の集権志向は、政宗自身が上方政権に組み込まれようとしているだけに強力なものがあった。
当然、反発も強い。
――大乱を繰り返すか、との思考が成実の頭を掠めた。稙宗に対した晴宗のごとく。それはいっそ甘い妄想でさえあった。
一方で成実は冷静に状況を把握している。奥羽が奥羽の論理で動けた時代は過ぎ去った。内乱が起これば、即、伊達家は改易されるだろう。
しかしこのまま反発を抑えつづける自信も成実にはなかった。いかに抑えたとて、誰かが先走れば旗頭と目される成実も類をまぬがれえまい。成実には、小次郎のように従容として死に赴く気はさらさら無い。
だから、伊達家を去った。去って新天地を求めようとした。
成実のその判断は、ほとぼりをさますにはちょうど良かったのだ、と景綱は思っている。
成実が去ったことで、結果的に中心を失った不満分子は、雲散霧消とまではいかぬまでも、不満を述べる以上の挙に出る力を失い、大きな粛清は必要なくなった。
あれから5年。太閤が死に、前田利家が死んだ。大老という立場で専制を深めようとする徳川家康と、それに対抗する石田三成らの対立は一層強まっている。
上杉景勝は国へ帰ったきり、防備を固めて動こうとしない。家康はそれを豊家への叛意と非難した。
天下がごろりと転がる気配を、景綱は感じ、転がる先を見極めようとしていた。それは今のところ、幼い秀頼の後見という名目の天下ではあったが、実際には実力者の回り持ちであることは、秀吉が天下人になった経緯が証明している。
天下が動くときには戦がある。成実を戻らせるにはよい機会と景綱は思った。
政宗に言上すると、主は口を開かなかった。後から佐々若狭が、許す、と一言だけ伝えに来た。
成実の帰参をかなわせるのが、景綱の来訪の目的である。成実の言い分はわかるが、いちいち首肯していてはかなわない。
「五郎さまは牢人ゆえ、仕官先を探すと仰せらるる。それが内府どのにせよ、会津中納言どのにせよ、天下のためには陪臣ではありませぬか。これが大崎少将どのであって、なんの変りがありましょうぞ」
しかも、ほどなく起こる戦は、家中の急迫を救い、本貫を回復する戦だと景綱は説く。
叛意を示す上杉家を内府が討つ。しかも政宗は家康の同盟者である。切り取り次第で本領回復ができる。家中一同今はその準備に余念が無く、希望にあふれている。ゆえに政宗に不満を述べるものもない。また、政宗が、許す、と言った以上、帰参したからといって成実が罪に問われることもない。
残るは成実の矜持の問題。これには景綱は触れなかった。
ただ、目をふせて
「寂しいのです」
と言った。
政宗の戦、といえば一方の大将に五郎成実がいた。その姿が見えぬのが、しんと寂しい。軍の評定のたび、何かを探すようについ、目を巡らす。そして彼がいないことを確認する。それがなんとも寂しいのだ、と。
そう感じるのが景綱だけでない証拠には、留守や石川、亘理といった諸将が、そのようなときに目が合うと困ったように微苦笑する。茂庭綱元はわざとらしく咳き払いをして話を進め、主は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「片倉」
声をかけられて見上げた成実の顔からは、快活さは消えていた。さまざまな感情が互いに相反して、みな打ち消しあってしまった。そんな表情だ。
だがそれで、景綱は自分が成実の感情を動かしえたことを知った。
「戦はいつになる」
「梅雨明けには陣触れと存じます」
そうか、と言ったきり、成実は黙りこくってしまった。景綱もそれ以上何も言わぬまま、刻が過ぎた。
居心地の悪い沈黙ではない。ただ、かれの決断を自分の持てる時間の限り待つだけのことだ。
寺男が燭を持ってくる時刻になってようやく成実は口を開いた。
「遅くしたな。泊まるか」
「はい。明朝発てば障りございません」
景綱も多忙である。自身ここまで来たのはわがままといってよかった。
成実は頷くと、寺男に景綱の夕餉と床を用意するように命じ、席を立った。
明くる朝、寺を発つ挨拶をしようとした景綱の前に現れた男は、
「大久保相模守さまより、伊達どののお世話を仰せつかっております、黒野と申します」
そう名乗った。言いにくそうに頭を下げる。
「伊達どのはお出かけになりました」
「……いずれへお出でなされた」
「小田原まで参る、と払暁に」
小田原、と景綱はつぶやいた。この地名には特別な思いを、やはり抱かざるを得ない。東海道を上下するたび、あの参陣の時を想起する。
成実はあの時留守居をしていたが、抱く感慨は同じであろう。
「非礼を十分詫びて欲しい、とのご伝言でございます」
「いや、それには及びませぬ。片倉が拝謝していたとお伝えくだされ」
成実は何かを決めたのだ、と景綱は思った。それはおそらく、景綱の期待に沿うもであることを半ば確信して、景綱は馬上の人となった。

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