門の前にくくられている、鹿毛の馬を見て、義宗は眉を寄せた。これは兵部の馬だ。
伊達兵部は石川義宗にとっては招かざる客だった。隠居したとはいえ、実質まだこの石川家を仕切っている父の意でなければ、諾とするものではない。留守なり亘理なり、どこでも身を寄せるところはあろうに、なぜ当家がひき受けねばならぬのか。
伊達兵部成実は5年前に伊達家を退転したが、先ごろ片倉備中景綱と留守の伯父(政景)、そして父・石川昭光が説いて呼び返した。まだ、岩出山のとの(政宗)の目見えも受けぬ、非公式な身である。かれを当家で預かることになったは、昭光の意であり、兵部自身も同意したというが、仮にも当主である義宗には事後の知らせとなり、義宗は大いに気を悪くした。
上杉との合戦を控えたこの時期であるから、家内での評定も頻繁にある。兵部はその評定に、昭光の隣に席を与えられて座っている。何を言うわけではないが、義宗はやりにくくて仕方がない。
昭光に訴えると
「まぁ、そう言うな」
となだめられた。
「兵部どのの武勇は天下に隠れもない。人取橋での鬼神のごとき働きぶりは今思い出しても身の毛がよだつ」
実際に矛を交えた父が言うのだからそうなのだろうが、当家に人がいないわけではなかろうに。
「お前の言うことはもっともだし、またそうでなくてはならぬ。だが、士卒の士気を上げるに、兵部どのの存在は大きいぞ」
笑みさえ浮かべて言う昭光に、義宗はそれ以上を言うことをやめた。
意識しすぎるのがいけないのだ。いかに政宗の従兄弟であろうとも、今は一介の客将。父の厚遇ぶりも、かれの立ち居振舞も、「客」の分を超えているわけではない。
雑念を払おうと、菩提寺に参禅に来て、あの鹿毛を見つけた。
軽く頭を振る。今、意識しないでおく、と決めたではないか。
石川家は3年前にこの角田を与えられたが、太閤存命中から義宗はほぼ伏見に詰めていたから、自分の所領をしっかりと見るのは今回の下向がほとんど初めてになる。前に来たときはこの長泉寺も移転先がここに決まった、というだけで、荒れたところだった。以前にも寺があったらしくいくつか堂が建っていたが、かろうじて手入れされているらしいのは大きな黒松の横にある小さな庵のみだったのを覚えている。
義宗が伏見にいる間、角田を治めていたのは隠居の昭光で、町を割り、城を改築し、ようよう最近形が整い出した、と嬉しそうに話していた。長泉寺を石川郷からここに移したのも昭光だ。天正18年に石川郷を去ってから、ようやく墳墓の地を定めることができたと喜んでいる。
いつまた転封を言われるかわからぬに、と義宗は皮肉を言うが、義宗としても父の気持ちはよくわかる。
その角田の元の領主が、今客将の伊達兵部なのだから、それも皮肉な話だ。
だが、そのことは義宗に否が応にも兵部を意識させる。また義宗が家を襲う直前、兵部成実が伊達家内での席次を昭光と争ったこともある。政宗の意思は固く、一席は当家、かれは次席となったのだが――。
門をくぐり、正面が本堂。かつてあった荒れた堂はほとんど取り壊され、いくつかの塔頭が槌音をひびかせて建築を進めている。寺の後背には小さな丘があり、例の黒松の庵は同じようにあったが、他にも地蔵堂やら庚申やらが増えて、ずっとこざっぱりした風になった。
立派にひらかれつつある菩提寺に満足しながら境内を一巡りする。まっすぐ本堂にいくつもりだったのだが、鹿毛の主に顔を合わせるための心の準備をしたかった。
まったく、他家の菩提寺になんの用があることやら。寺は旅僧の情報が集まるゆえに、その方面か。
と、その黒松の処に人影が見えた。こちらに背を向ける形でただ一人、片膝をついている。寺僧かと始めは思ったが、近づくにつれ、俗体の、しかも武士であることがわかり、義宗は首をひねった。
誰だろうか、と足を速めようとしたその時、片膝をついていた人物が立ちあがり、振り向いた。
義宗は息をのんだ。
伊達兵部、だった。供も連れず、松の木の横にたたずんでいる。かれも驚いたらしく、軽く目を見開いたが、義宗に向かって丁重に一礼した。
仕方なく義宗も会釈して坂をのぼり、兵部のもとまで行く。
「このようなところで如何なさった」
訊くと
「墓参に」
と兵部は答えた。言われて見ると、松の下には確かに小さな五輪塔がある。
「誰かご縁のおありの方か」
「……お父上には、いくら感謝しても足りぬ」
ほんのわずかに笑み、再び一礼して顔を上げた兵部の目が、かすかに赤い。
では、と去り行く兵部を見送り、ふと庵を見た。兵部の墓参のために寺僧が開けておいたのだろう、奥に安置してある厨子の扉が開いていた。
――玄松院殿滋輪貞峯大姉
位牌から読んだその名から、人物を思い出すまで少しくかかった。
では兵部は、妻の墓参に来ていたのだ。
自慶長元年と表に記された帳面が、経机の横に置かれている。法要の記録。盆と年忌だけだったらしい法要が、長泉寺が移ってきた慶長3年からは月々にも営まれ、祭主は故人の父である亘理美濃(重宗)の名に、それからは昭光の名も加わる。もちろん代参を遣わした程度のことであったろうが――。
その最後に、今日の日付と伊達兵部の名が黒々と記されている。この少し癖のある字は、兵部の自筆だ。
香炉には、香を焚いた跡があった。火のぬくもりは既になく、香りもすっかり失せている。
ここに座し、香を焚き。いったいどれだけの時間、兵部はここにいたのだろう。
馬のいななきが門の方から聞こえた。自分の馬のではないから、鹿毛の声だろう。しょうしょうと鳴く声がかすかに遠ざかってゆく。
義宗は本堂に向かいかけて、そしてやめた。
もう参禅する必要はなくなっていた。