伊達成実の具足、陣羽織と伝わるものがいくつかある。
甲冑・陣羽織などの工芸品は伝来の過程や後代の修理補修の過程で混乱が起こりやすいので、よほど来歴がしっかりしているもの以外は基本的に「伝」――すなわち「……と伝わっている」であることを頭に入れてご覧ください。
順次紹介。写真はクリックで拡大版表示。ブラウザバックしてください。
伊達市開拓記念館のパンフレットより引用。
成実の具足といえばコレ。毛虫の前立てをつけた仙台胴具足である。伊達成実所用の具足として代々伝わったものを昭和33年に開拓記念館に展示、以後保存を行っている。
最近なぜか、成実の前立ては「ムカデ」だとするのを散見するが、これは「毛虫」。
しげ部さんの 伊達成実の甲胄~伊達市開拓記念館~その2 に詳細レポートあり。
亘理町の悠里館にあるものは、鎧の光山堂作成の複製品である。
また、亘理町の依頼で丸武産業による複製も作られ、青森の博物館に寄贈されたという。
伊達市開拓記念館にもう1領、伊達成実所用と伝わる具足がある。 伊達成実の甲胄~伊達市開拓記念館~その2 によると
もう一つの甲冑はお腹まわりがぽっこり出っ張っていて、成実の体型に合わせて作ったものだとしたら晩年は中年太りだったかも、と、おっしゃってました。
以上引用。ご案内は現亘理伊達家ご当主。
南蛮胴? とういうわけでもないよね??
下に紹介している「香車の具足」との関係は未確認。
北海道伊達市の膽振山大雄寺のパンフレットより引用。
宝物殿に展示されているらしい。来歴は不明。
仙台胴ではないこと。草摺が少ないこと。そしてなによりも前立てが三日月であることが目を引く。
が、訪問した方からいただいた情報によれば、甲冑の実物を見るに成実所用ではなさそう、との見方も。
三日月といえば、「伊達成実公亘理入府四百年記念 伊達成実」に掲載されている、伊達実元所用具足(伊達市開拓記念館蔵)も三日月の前立、桶側胴の具足である。
「伊達成実公亘理入府四百年記念 伊達成実」から引用。悠里館開館時の「伊達成実展」のパンフレットにも三日月の前立をつけたこの具足が掲載されている。
この具足は上に載せた開拓記念館パンフレットにも載っているが、こちらには前立てが付属していないのが少々気にかかる。 2010年11月にねこたさんが訪問しているが、前立てはなかったそうである。
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2012.6.19加筆
しげ部さまより大雄寺の三日月の前立について情報をいただきました。
以下、引用。
三日月の話は成実の方で、噴火湾文化研究所の方(お名前からしてしげちゃんのご子孫の方かしら??)から、あの三日月の前立てに関して質問したところ、メールを頂きました。
「さて、大雄寺所有の甲冑ですが、前立てだけ変わっているかもしれません。 どうも素材が当時の物ではないような風合いです。
三日月の前立てはインパクトが強いですので、もしかしたら北海道移住後に作ったのかもしれません。
当館所蔵の毛虫の前立ては、熊の毛で作られています。
手触りはホワホワな感じではなく、ちょっと堅めです。」
以上、引用終わり。
前立は具足より時代が新しいものというニュアンス。
ブログで野崎さんからいただいたコメントにあるように、「仙台藩は大将は三日月、旗本は半月」とよく言われる(大将でなく当主、旗本でなく、侍大将になってるのも別に読んだことあり)。
開拓資料館の実元具足の三日月前立も、最近セットされないのは後補であるという判断なのかもしれない。
「伊達成実公亘理入府四百年記念 伊達成実」から引用。
成実が香車のしるしを愛用(亘理町立郷土資料館 開館記念 伊達成実展パンフレット)したと伝わるため、成実所用具足に準じた扱いをされている模様。
伊達成実所用と伝わる仙台胴具足。佩楯に香車マークがいっぱい。
「伊達成実公亘理入府四百年記念 伊達成実」から引用。
伊達成実所用と伝わる陣羽織。袖口のフリル、背の竹雀紋と香車が印象的。 「ときみなり」の2010年11月にねこたさんの訪問記によると、襟に唐草模様があるとのこと。
香車の具足とセットと考えられる(亘理町立郷土資料館 開館記念 伊達成実展パンフレット)
武水は陣羽織の形がどうも江戸後期ぐらいな気がしてるんですが(裾から背中へのカッティングとか、竹雀紋の形とか)、どうなんでしょう。
コトニ・ネット「街のあちこちで 屯田兵の里まつり」より引用。
札幌市西区琴似に入植した琴似屯田兵は会津および亘理の出身で、琴似神社には武早智雄命(伊達成実)も祀られている。
その琴似神社の収蔵品で、伊達成実の所用と伝わる。
一方、2010年11月のねこたさんの訪問記によると。…以下引用。
『西区民センター』内の図書室へ伺いました。
小さな図書室ですが、利用者が多くてビックリ!
此処で読んだ本からのメモです。■明治8年、亘理郡小堤村の牧野清作は、父・権太夫ら家族9人で琴似屯田兵村へ移住した。
権太夫は亘理の殿様の武術指南をしていた人で、『しかるに…』『左様で』など侍言葉を遣い、101歳の長寿を全うした。
清作は質実剛健で体格の良い人で、西南戦争・日清戦争・日露戦争に出征し、宮城出身で唯一の士官だった。
琴似神社を建てる際も中心的役割を務め、その時牧野家に伝わる家宝の緋色の陣羽織を奉納し、現在琴似神社の社宝になっている。
この陣羽織は、陣中で功労があったと殿様が着ていたのを先代(権太夫の事か?その前か?)が賜ったもの。同時に竹に雀紋も賜り、牧野家では殿様と同じ紋(亘理笹か?)を使用している。
【清作のお孫さんの話より】
↓
これがおそらく成実が着用していたといわれてる真っ赤な陣羽織の事なんでしょうが…。
以上引用おわり。
ああ、やっぱり、といいますか…^^; これもあまり戦国ぽく見えなかったんでうーんと思ってたのです。